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冷笑主義  作者: 不二 香
第一章 Before 1492
14/88

第7話【フィレンツェ】後編




 フィレンツェ共和国は、ジェノヴァ共和国の更に先にあった。

 白塗りの壁に明るい枯葉色の屋根。そんな美しい家々が所狭しと立ち並び、狭い石畳の路地は都市を細かく網羅して、各所の広場をつなぐ。

 芸術が盛んでもあるこの街は、住み慣れたフランスの田舎町よりも雑々と都会的で華やかな匂いがしていた。


 ユニヴェールがシャムシールに馬車のカーテンを開けさせれば、ちょうどアルノ川を渡るところ。

 もう少し進めば可愛らしい鐘楼を天にかかげるヴェッキオ宮殿が見えてくる。

「誰もいないか?」

「いないと思う」

 吸血鬼の囁きに、少年も声をひそめて返してきた。

 外は闇。人という生き物はもう家の中に入り震えている時間だ。こんな時間にうろついている者にロクな奴はいない。

 そう、例えば──

「パルティータ。どうにかあいつよりも先に着けたみたいだな。フィレンツェの入り口にもこの橋にもいないとなれば……」

「でもパルティータが僕たちより先に着くなんてありえる?」

「分からんぞ、あいつは時々常識を覆すからな」

「ユニヴェール様、どっちへ行くんだー?」

 御者をしていたアスカロンが、間延びした声で訊いてくる。

「フィレンツェと行ったらサンタ・マリア・デル・フィオーレだろうが。フィレンツェを血に染めるにはまずあの大聖堂からだ」

「ユニヴェール様、先程から……」

 足を組んだままユニヴェールが行き先を指定すると、今度は横のフランべルジェが浮かない顔でこちらを見ている。

「……分かっている」

 彼はそうとだけ応えた。

 暗黒都市からずっと、多くの魔が後ろを付いて来ている。

 ──監視されている。

 刃物の色をした紅の瞳が、妖しい影を落とした。

 不健康な白い指が口元に寄せられて、化け物のつぶやきを隠す。

「いい度胸だ」




◆  ◇  ◆




「いい度胸ですね」

 夜気の中、真っ直ぐに凛と響いた声音。

 ユニヴェールは一瞬顔をしかめてソレに向き直った。

「ルナール、裏切り者め」

 睨めば、名を呼ばれた黒猫は馬鹿にするような鳴き方で一声上げ、彼女の細い足元に隠れた。

「ユニヴェール様」

 そして、代わりに呼ばれたのはその男自身だった。

 サンタ・マリア・デル・フィオーレ。

 芸術の都フィレンツェを代表する壮麗な大聖堂であり、永世の美術品としても称えるべき建築物。

 美しいドーム型の天蓋は素晴らしき神の御世の象徴だ。

 精練であり、緻密であり、高潔である。

 その夜は──そんな神の御前に、地獄の裁判官が立っていた。

「何をしにここへ?」

 眼前の女の名はパルティータ・インフィーネ。

 怒っている様子もない。けれど笑顔もない。何もない。

「素直に答えたら、どうなる?」

「答えを聞いてから考えます」

 彼女は彼のメイドだ。

 それが彼の命令もなしにこの地にいる方がおかしい。

 けれどそれを問い正すまでもなく、彼には思い当たることがあった。

「これは仕事だパルティータ。無意味な虐殺ではない」

「そうですか」

「…………」

「貴方程の化け物なら、仕事と仕事を受ける相手は選べるものと思っていましたが」

 黒髪が揺れ、パルティータの視線が上を見る。

 つられてユニヴェールも首をまわせば、向かいの建物の上にガーゴイルのような影がいくつもうごめいていた。

「三使徒だけでは手勢が足りずに連れてきたんですか?」

「いや──」

「では吸血鬼シャルロ・ド・ユニヴェールともあろう者が、暗黒都市から監視されながらお仕事ですか」

 紳士の眉が跳ね上がった。

 が、すぐに元に戻りメイドを見据える。

 身内には向けたことのない怜悧な光がその奥に灯っていた。

 ユニヴェールは彼女から視線を逸らすことなく後ろに告げる。

「シャムシール、アスカロン、フランベルジェ。我々をつけてきた暗黒都市の輩を全て滅ぼせ。一匹たりとも逃すなよ」

『──御意』

 三者三様の声色で、しかしどれも嬉しそうに応えて姿を闇にくらませた。

 大聖堂の前の広場には、主とメイド、そして黒猫と馬車だけが残される。

「私を止めるつもりか?」

「人が死ぬのはあまり好きではありません」

「だが私は吸血鬼だ。死をつかさどる者のひとりなんだがね」

「私が気に入らないと言っているんです」

 黒猫が背を向けたままひげをふよふよと揺らしているのが気になるが、ユニヴェールは再び焦点をパルティータに合わせた。

「どけ、パルティータ」

「どかなければ、私を殺しますか?」

「…………」

 蝋人形のような表情でこちらを見返してくるメイド。

 もちろん、彼女を無視してフィレンツェを沈めることなど簡単だ。

 ヴァチカンは何やら画策中、そして教皇派であるメディチ家の謳歌おうかのおかげで、教会はあまりこのフィレンツェに兵力を割いていない。皇帝派を抑える必要がないからだ。

 それに以前白十字団をひとつ丸ごと潰してしまったから、こんな緊張感のない地を固めるほどの人手が向こうにあるとも思えない。

 三使徒も覚醒した今となっては、こんな都など一日あれば人は消える。

 このメイドだって、黙らせるのは簡単なのだ。

 その喉を裂いてしまえば済むことなのだから。

 だが──、なにぶん面倒臭がり屋のユニヴェール。

 雑用ごとをこなすメイドがいなければ、一週間と文化的な生活は続かない。

 おまけにこんな化け物が屋敷の主では、勤めにくるという者すらいない。

 彼自身は中立を名言しているだけあって、暗黒都市の連中とはそりが合わないのだ。

 以前には魔女を数人雇ったが、文化的生活を捨ててでも解雇した。

 ワケの分からない煮汁で屋敷中を拭かれたり、異臭がしてポコポコ沸き立っている紅茶が運ばれてきたり、廊下、寝室、食堂、書庫……あらゆるところにイモリだのカエルだのキノコだのミミズだのが吊るされた。干して魔術に使うのだそうだ。

 ユニヴェールの忍耐は二週間で切れたのである。

「お前を殺しはしないさ」

 ユニヴェールは靴音を立ててパルティータに近付いた。

 臆することもなく突っ立っているこの女は無神経なのかそれとも強いのか。

「だがね、主の言うことは聞くものだ」

 彼は左手で彼女のあごをつまむと、右手で縦襟スタンドカラーの留め金を外した。

 陽に当たらない白い肌が露わになり、ユニヴェールは触れるか触れぬかの軽さで首筋を撫でてやる。

 普通の獲物ならばここで陥落するのだ。

 恐怖を優しさで包んでやれば、女は安堵の園に身を委ねる。

 重ねて耳元で睦言むつごとを囁いてやれば、面白いように抵抗を止める。

 自ら口付けを求めさえ、する。

 が、そこにいたのは普通の輩ではなかった。

 そして気付いた時にはもう、何かが彼の喉元に突きつけられていた。

 視線だけで確かめれば、

「すりこぎか……」

「血を見るのは好きではないので、包丁は却下しました」

 パルティータがにっこりと微笑む。

「私の血と引き換えに、フィレンツェは見逃してください。三百年も仕えてきた者に監視を付けるなど、暗黒都市の態度は傲慢です。ユニヴェールともあろう者が、見くびられたものです。今回の件は忠実に仕事をしてやる必要はないと思いますが?」

「…………」

 ユニヴェールは後ろを振り返り、夜の街に耳を澄ませた。

 どこからともなくガラの悪い若者の暴言が聞こえてくる。奇怪な悲鳴と謎の物音が立て続けに上がり、小さな子供の高笑いが響いてくる。

 フランベルジェはさすがに彼女というべきか、気配もない。もしかしたらたださぼっているだけかもしれないが……。

 これでスヤスヤと気持ちよく眠ることができる人間はあまりいないだろう。

 フィレンツェは無言のうちに緊張している。

 目に見えぬ恐怖を、足元から冷気が這い上がるようにして味わっている。

「別にここで大量虐殺を見るのが嫌だとか、可哀相だとか、血まみれ主人のメイドをやるのが嫌だとか、約束破られて出てかなきゃいけなくなるのは困るとか、そういうのは些細なことでしかありませんけれど」

「……では、なんだ?」

「私の主が暗黒都市にナメられるのは嫌なのです」

「…………」

 明らかに嘘だ。

 彼女はついさっきまでユニヴェールが監視されていることを知らなかったのだから。

 それを理由にパーテルから出てくるわけがない。

「パルティータ」

 ユニヴェールは彼女のあごをつまんだ左手に力を入れ、強引に唇を重ねた。

 そのままついばむようにして首筋へと口付けを下ろしていく。

「忘れたわけではあるまいが、私とて魔物なのだからな。お前をこちら側に引きずり込むこともできるのだよ」

 牙で白磁の肌を甘噛みしてやれば、細い身体が一度だけぴくりと強張る。

 しかし彼女は何も言ってこなかった。


 古くからの伝承にあるように、吸血鬼にその血を飲まれた生者は闇に引き込まれ吸血鬼となる。

 それは、死から蘇ったわけではない吸血鬼……つまり原型オリジナルでない者。常に新たなる血を求め彷徨う、“吸血鬼にも劣る吸血鬼”。生み出した原型の吸血鬼でさえ哀れむことがあるという、中途半端な化け物だ。

 とはいえ、ユニヴェール級であれば相手を原型にすることも可能であり、いつぞやのテレーズ・フォンデンブローがいい例だ。


「パルティータ」

「私の血と引き換えです。フィレンツェを見逃してください」

「強情女」

「結構」

 雰囲気もなにもあったもんではないやりとりに、吸血鬼の目に霜が降りる。

 彼はそのまま牙を突き立てた。

「──ッ」

 痛みに耐えるパルティータの短い息吹が聞こえ──……滲み出た鮮血に優しく口をつけたユニヴェール。

「……パルティータ!!!!」

 瞬間、彼はあらんかぎりの罵声を上げて咳き込んだ。

 思わず彼女の身体を突き放し、石畳に膝をつく。

 喉を掻きむしりたい衝動をどうにか抑え、しかしその反動で目には涙が溢れてくる。

「どーしましたー?」

 わざとらしい猫なで声で、メイドが咳き込み続ける彼の背中をさすってきた。

 おそらく、満面の笑み。

「……貴様、はかったな」

 魅惑のテノールはかすれていた。

「謀るだなんてとんでもない。第一、私が血を飲まれたって吸血鬼にならないことも、私の血が凄まじーくマズイことも、ユニヴェール様はご承知だったはずでは? 数回飲まれたでしょう?」

「血を飲まれても吸血鬼にならん人間なんぞいてたまるか。あれは私の中ではなかったことになっていたのだよ!」

「はぁ」

「しかもお前、これが“マズイ”で済まされるものか! 毒だろうこれは! これならまだ聖母マリアの血でも飲んだ方がマシだろうよ! お前は何か? 日々着々と対吸血鬼仕様に進化してるのか!?」

 ようやく立ち上がり、叫ぶ。

 彼が半狂乱になりそうになるのを必死でこらえているというのに、パルティータは面白そうにこちらを眺めながら言ってくる。

聖夜ノエルが近付くにつれてマズくなるみたいですけどねぇ」

「そんな馬鹿な話があって……」

 言いかけてユニヴェールは口を閉ざした。

 柳眉を寄せて、紅の瞳をパルティータへと滑らせる。

「でも約束ですよ。血、飲んだんですからフィレンツェから手をひいてください」

 したり顔で両手を腰にあてるパルティータを視界に入れたまま、彼の頭は別のことを考えていた。

 ──聖夜が近付くにつれてマズくなるみたいですけどね……?

 それは誰が試したのだ?

 ユニヴェールは味の比較なんぞをした覚えはない。

 誰がそう言った?

「ユニヴェール様!! いいですね!」

「……うるさい、分かった分かった」

 邪険に言ってしまってから、はたと気付いて頬を汗がつたう。

 が、まぁいいか。と思い直す。

「そういうことだ、ミランドラ伯」

 ユニヴェールは肩をすくめて身体を反転させた。

「ウチのメイドは妙なところで策士でね。私も紳士のはしくれだから、約束を違えるわけにはいかない。フィレンツェは止めて他の場所にするとしよう」

「──なっ!」

 背後でパルティータが思いっきりすりこぎを石畳に叩きつける音がした。

 よくあるパターンだと石に跳ね返ったそれがユニヴェールの後頭部に当たったりするのだが、さすがの吸血鬼なので首を傾げてやり過ごす。

 嫌な風音をたてて、耳元をすりこぎが飛んでいった。

「ジェノヴァにするか? それともミラノか? ヴェネツィアでも構わんが」

「…………」

 ユニヴェールが話しかけている先には、あの天才魔術師が立っていた。

 黒いローブに映える金髪。しかめた顔すら神々しい。

「やはり、フィレンツェでなければ意味がない、か?」

 乱れたタイを直しながら笑うと、その碧眼がわずかに見開かれた。

「私を侮るな。貴様の考えていることくらい手に取るように分かるのだよ、若造。貴様の言っていた“あの男”とはジローラモ・サヴォナローラのことだろう」

「何もかも知っている、と?」

「私が一体どれだけの月日人間という生き物を見てきたと思っているのだ? 愛も恋も憎しみも嫉妬も怒りも悲しみも、私にとってはもはや見飽きた演劇にすぎん」


 ジローラモ・サヴォナローラ。

 ドミニコ修道会の説教士であったその男は、豪華絢爛な風潮を片っ端から非難し、また教会の腐敗に対して痛烈な批判を行なう異色の徒であった。

 それゆえに教会そのものからはうとまれ左遷されていたのだが、この魔術師ピコが面白がってロレンツォ・デ・メディチに依頼しフィレンツェに呼んだのだ。


「ロレンツォは随分サヴォナローラを気に入ったようだな。メディチ家をどんなに悪しく言われようと一切咎めないと聞いたが?」

「咎めないどころか、ロレンツォ様はあの男をサン・マルコ修道院の院長にするおつもりですよ」

「ほう」

 ユニヴェールが薄く笑う。

「それは……飼い犬に手を噛まれたな、ミランドラ伯」

「…………」

「大方、サヴォナローラを話の種に己の論理を話して聞かせ、ロレンツォにもっと目をかけてもらおうとでも思ったんだろう? 貴様は。だが貴様が予想したよりもはるかに、ロレンツォはサヴォナローラを気に入ってしまった。違うか?」

「そうです」

 若い美貌が、表情を見せずに淡々と肯定した。

「ロレンツォは大事な資金源だから、いささか困るのです。権力に罵詈雑言を浴びせるしか能のない男に──僕も初めはもっと物の分かった男だと思っていたんですけどね──、そんな男にフィレンツェを荒らされては僕の面目が立たない」


 ジョヴァンニ・ピコ・デラ・ミランドラ。

 彼は、素晴らしい逸材だった。

 博識かつ明晰で、おまけに天才だった。

 けれどそれゆえに異端の烙印を押され、いつの間にか闇に身を堕としていた。

 メディチ家という大木に守られて陽光の下堅実な哲学者をやりながら、月の下では人知れず魔術師という顔を出す。

 天才ゆえか、素直なゆえか、彼は己の闇に蝕まれていた。


「ロレンツォという資金源を、ロレンツォの興味を、サヴォナローラに取られた。そうして若い貴様が考えることなどひとつだ。サヴォナローラを消す。あるいはサヴォナローラを失脚させる」

 多少、哀れに思わないこともなかった。

 長年「人」を見て分かったことがある。

 人というものは、やはりひとりでは生きていかれないのだ。

 どこかで誰かに認められたいと望んでいる。どこかで誰かに自分を理解してほしいと願っている。

 憧れるその者に、自分だけを見ていてほしいと無理な注文をする。


 しかし人は、それが叶わぬと怨み嘆き憎む。

 時にピコのような手段に出る。

 この若者は貴族の出身なのだ。金など大した問題ではない。「アカデミア・プラトニカ」という古典研究のサロンに出入りすることも許されている。名誉は充分だ。

 多くの文化人に影響を与え、功績は尊敬されてもいる。


 暗黒都市に身を堕とすまでもなく彼は恵まれていた。異端と咎められてなお、その才は朽ちることなく人々に受け入れられているのだ。

 彼の理論は常に、他の者たちに感嘆の声を上げさせている。

 それでも彼は闇に手をのばした。

 光の後ろを絶えずつきまとう、影に。


 ──彼はただロレンツォの賞賛がほしいのだ。


 生徒が教師に、子供が親に、そう願うように。

 彼はその想いに忠実なだけなのだ。


 ユニヴェールはそんな連鎖をいくつも見てきた。

 それが悪いと言う気も愚かだと言う気もない。

 ただその度に「人」とは厄介なものだと、自嘲気味なため息が出るのだ。

 もはやその輪から外れた身。それゆえに浮かべることのできる笑いだった。

 誰かが言っていた。“人を堕とすのは人。だが人を救うことができるのもまた人である”、と。

 なんと皮肉な輪であることだろう!


「あの男は生真面目で凄まじく神経が細いんです。フィレンツェが吸血鬼に荒らされたとなれば、その日のうちにどこかへ逃げ去るか、全てを教会やロレンツォ様のせいにして狂気にとり憑かれるかどちらか。そうしたら僕はもうあの男に悩まされずにすむんですよ」

「それで私か」

 問えば、若者がうなずく。

「暗黒都市の貴族の方々が、勧めてくださったのです。シャルロ・ド・ユニヴェールであれば一夜でのフィレンツェ陥落など容易いこと。けれどシャルロ・ド・ユニヴェールは勅命でなければ動かない。ならば一石二鳥、フィレンツェを落とすか否かであの吸血鬼の忠誠度を測ってみればよい、と」

「愚か者」

 ユニヴェールは吐き捨てた。

 それはピコにではなく、暗黒都市そのものへ。

「忠誠など初めからどこにもないというのがまだ分からんのか」

「…………」

 怪訝な顔をする魔術師に、吸血鬼はわずかの不快を滲ませた目をやる。

「私と暗黒都市のつながりは、金の契約だ。それがある限り私は奴らの言うことを聞いてやる。だが、それだけの話だ。私は闇だが暗黒都市ではない。──ルナール!」

 猫が鳴いた。

「三人を呼び戻して来い。帰るぞ」

 その言葉を聞いて慌てたのは魔術師ピコ。

 無表情を崩して声を荒げてくる。

「──仕事は!」

「くだらん茶番に付き合うほど私もお人好ではないんだよ、ミランドラ伯。メイドとの約束もある、監視などというものをつけられた侮辱も放ってはおけん。フィレンツェは落とさない。他のどこも血に染めぬ。私は帰って寝る」

「それは暗黒都市への反逆とも──」

「反逆と取りたければ取るがいいさ。女王陛下は私が中立だとちゃんとわきまえておられると思うがな。今回は度が過ぎた遊びだろう」

「…………」

「ひとつ有用なことを教えておいてやる」

 ユニヴェールは馬車に向かう途中歩を止めて黒衣をひるがえした。

 ともすれば折れて散りそうな魔術師を見つめ、声を落とす。

「生き急ぐな。気楽にやれ。どうせこの世は見えざる者の箱庭だ」

「見えざる者……?」

「神か悪魔か。見えぬのだから誰も知らんさ」

 そして彼はフンと鼻先で笑う。

「女王陛下がお怒りになったら言っておけ。いつでも滅ぼしに来いとな!」

「本気ですか!」

「本気だとも」

「……消されますよ」

「笑止!」

 心底楽しそうなユニヴェールの哄笑こうしょうが、夜明けのフィレンツェに響き渡った。

「私は滅ぼされぬよ。暗黒都市にも、ヴァチカンにもな! 何故なら……」

 吸血鬼はそこでふと止めた。

 白み始めた空を仰ぎ、つぶやく。

「私は構わないが、あの三人は陽光が苦手だったな。早々に行くとするか。パルティータ、御者をやれ。三人と一匹は途中で拾っていく」

「かしこまりまして」

 妙にご機嫌麗しいメイドが足取りも軽く馬車に乗り込んだ。

 それを嘆息混じりに眺め、ユニヴェールも馬車に手をかける。が、これまた魔術師の美声にとめられた。

「何故なら、なんですか! 続きを言ってください!」

「そんなことを気にしている場合か! 貴様は天才だがまだ何もわかっていないな。私を見ずに周りを見ろ。お前はもう見てもらう存在ではないのだよ、ミランドラ」

「それは……」

「分からん奴だな。見てやれと言っているのだ、お前を慕ってこの街に来る者達をな」

 吸血鬼は言い捨て扉を閉めた。

 座り慣れたクッションに身をうずめ、馬車が走り出す音を聞く。

 結局パルティータの望むままになったが、そんなことはもうどうでもいい。

 若き天才が何を考えどう道を選択するか、それも彼の知ったことではない。

 このところロクに眠っていなかったのだ。

 不滅の吸血鬼と呼ばれる今でも、睡魔だけには勝てない。

 ……眠い。

「それではおやすみ(ボンヌニュイ)、フィレンツェ」




 華やかなる都、フィレンツェ。薄い光の帯が降り立つ夜明け。

 何事もなかったかの如く悠然とそびえる大聖堂。それを臨む広場の真ん中で、ひとりの天才魔術師が豆鉄砲を喰らった鳩の顔をして立ち尽くしていた。

「私が、見る……」



◆  ◇  ◆



「分かります? シャムシール」

「そんなの簡単じゃん」

「アスカロンは?」

「考えなくても分かるぜ」

「パルティータとルナールはいかがです?」

 フランベルジェが窓から顔を出し、御者台にいる人間組にも問う。

「もちろん分かりますよ」

「私も」

「そうですよねぇ」

 氷の魔女が再び座ると、シャムシールがケラケラと笑いながらクッションをばふばふ叩いた。

「その天才魔術師、紙一重で馬鹿なんじゃないー?」

「シャルロ・ド・ユニヴェールが暗黒都市にもローマにも滅ぼされない理由だろ? そんなもん決まってんじゃねぇか、なぁ」

 アスカロンが全員に同意を求めると、

『シャルロ・ド・ユニヴェールだから』

 御者台も含めた全員が、低い声真似をして合唱。

 それから馬車は爆笑の渦に飲み込まれた。

「──いい加減に黙らんか」

 三使徒を拾いあげてから、ずっとこの騒ぎ。

 安眠を妨害され続けたユニヴェールはご機嫌斜め向きだった。

「あ。起きた」

 シャムシールがなぜか嬉しそうな声を上げる。

「お前らのせいでさっきからずっと起こされていたよ」

「ねぇユニヴェール様、ソロン通りのガリア行こう。パフェ食べる約束だったでしょ。仕事が終わったら」

 嫌味は無邪気に敗北する。

「そういえばシャムシール、楽しみにしてましたわねぇ」

「俺も腹減ったなぁ。暴れたら」

「そんな約束してたんですか? 私も行きます」

 御者台からもパルティータが賛同する。

 だが、もうひとりの声はか細かった。

「……パルティータ、僕が甘いのダメだって知ってますよね?」

「知ってるわよ」

「だったら……」

「食べなきゃいいでしょ」

「……えええ~」

 馬車の中は馬車の中で話が進む。

「ねぇユニヴェール様、約束は守らないと紳士がすたりますよー」

「ガリアって、デザートだけじゃなくて普通の食べ物もありましたよね? アスカロンはそちらにしたら?」

「そうだなー。パフェって気分じゃねぇもんな。本には何がうまいって書いてあったんだ? シャムシール」

「えー、そんなところまで覚えてない。行けば分かるよ行けば。ねぇユニヴェール様!」

 頭痛がしてきた吸血鬼がカーテンをめくれば、朝の無駄に清々しい光の中振り返ったパルティータと目があう。

 彼女はニヤッと瞬間の笑みを浮かべると、御者台に姿を消した。

「ユ~ニ~ヴェーーーール様ァ~~~」

「分かった分かった分かった行こう」

 力なくユニヴェールが観念すると、馬車の中には三人の歓声が響き渡った。

「ルナールーーー! 暗黒都市へ行ってー!」

「よし、食いまくるぞ」

「アスカロン! はしたない!」



 騒がしい一家を横目に、不滅の吸血鬼は静かにその相貌を険しくした。

 紅の双眸は、黒髪メイドの残像に向けられる。


 吸血鬼に血を吸われて吸血鬼にならない人間。

 聖夜が近付くにつれて血の味がマズくなる人間。

 そしてそれを自覚している人間。


 ユニヴェールはカーテンを閉め、再びクッションに身をあずけた。

 目を閉じて、ひとりごちる。


「……あいつの履歴書どこへやっただろうな? 過去の私は」




THE END




■ジョヴァンニ・ピコ・デラ・ミランドラ

ルネサンス期イタリアの代表的プラトン主義思想家。

何ヶ国語も扱うことができ、大学に在籍していた頃から天才の名をとどろかせていた。

1486年に世界哲学会議を開催しようとするが、そこで発表しようとした「人間の尊厳について」によって異端視され、パリへ。後、フィレンツェに移りロレンツォ・デ・メディチの庇護のもと活動する。

が、フランス王シャルル八世がナポリを取ろうと進軍すると、人心を掴んでいたサヴォナローラはメディチ家を追放、シャルルを味方につけ、フィレンツェの主導権を握った。

その一連の中で、彼をフィレンツェに招いた本人であるピコもまた、1494年若くして毒殺されてしまう。

「アカデミア」ではかのミケランジェロも彫刻を学んでおり、上記の事件によって彼もまたフィレンツェを去った。


※異端とはされつつも、史実では魔術師という記述はありません。あしからず。

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