非知人 -unknown-
「あなた、誰」
彼女は今日もその台詞をはく。
その度に僕は泣きそうになる。
昨日も。
一昨日も。
その前も、ずっと、毎日。
僕は来る度にその言葉を聞き、泣きそうな顔で微笑む。
「僕は、武史。木戸、武史。覚えてないかな?」
「覚えてない……」
いつも彼女はぼんやりと答える。
僕はそれから一日かけて、僕のことを伝える。
学校のこと、近所のこと、二人で遊んだ想い出……
すると彼女は薄く微笑んで、言うのだ。
「……そう」
そして僕は帰る。次の日にはまた同じことの繰り返し。
……彼女は、記憶障害を患っている。
長期記憶、短期記憶のどちらも駄目になってしまったらしい。
「これはとてもありふれた、しかしとても珍しい症例です」
医者はそう言った。
大抵の記憶障害は、長期記憶か短期記憶のどちらかがうまく働かなくなるもので、両方が駄目になった場合は、往々にして他の器官も傷つくもののようだ。
「こんなにも綺麗に、二つの器官が損傷した例は聞いたことがありませんよ」
医者はどこか嬉しそうだった。
「あなた、誰」
彼女は今日もそう言った。しかし、今日は少し様子が違っていた。
なんだか、怯えているように見える。
「僕は……」
僕が言いかけると、彼女は遮った。
「知らない。誰。ここから出て行って!」
彼女は泣きそうだった。
僕は廊下に出る。
ふと顔を上げると、涙が頬を伝った。
「他人への恐怖心が増したようです」
医者は言った。
「しばらく、あなたも来ない方がいいかと。あまり刺激すると、暴れだす可能性もあります」
だが、僕はきっぱりと言った。
「それはできません」
医者は肩をすくめた。
義務感なのか、同情心なのか、愛情なのか。
そんなことは差し当たってどうでもいい。
僕に出来ることは一つしかないのだから。
「あなた、誰」
彼女は今日も言った。今日は昨日に増して怯えていた。
「……誰よ。来ないでよ!もう二度と来ないで!放っておいてよ!」
僕は静かに部屋の外へ出る。
明日は顔を見れるだろうか。
いつ治るのだろうか。
永久に治らないのだろうか。
……僕は何をしているのだろう。
彼女と僕は幼馴染ではあったが、実のところそれだけだった。
僕はずっと彼女のことが好きだったけれど、彼女は淡白だった。
……記憶障害になる前も、僕への態度は今と大して変わらない。
――そう、思い出した。
『二度と来ないで』
そう言われたのは、今日が初めてではなかった。
何度も言われ、その度に僕は少しずつ傷ついていった。
そして……
あの日にたどり着く。
あの日、僕は公園にいた。
彼女が突然通りかかり、僕は声をかけた。
記憶が正しければ……彼女はこう言ったのだ。
「あなた、誰」
そしてその三十分後、彼女は交通事故に遭った。
本当に、僕は何をしているのだろうか。
記憶が戻ったところで、彼女が僕を思い出すはずもない。
そもそも彼女の中に僕の居場所はないのだから。
それでも……いや、だからこそ。
僕は今、彼女のそばにいたい。
未練……かもしれない。
結局僕は、彼女の影を追い続けているのだ。
十五年間、ずっと。
今日も病室の扉が開く。
僕を見つけ、彼女は言う。公園の時と同じように。
――あなた、誰――