第155話 公爵令嬢様は、俺が守ろうとした場所で誰より先に異変へ気づくらしい
朝のパウリー公爵邸には、いつもと変わらない穏やかな時間が流れていた。
まだ日が昇りきらない庭園では、庭師たちが花壇の手入れを始めており、開け放たれた窓からは湿り気を含んだ風が廊下へ入り込んでいる。数日前まで続いていた雨の影響は少しずつ薄れていたが、屋敷裏手の北側通路については、今も使用制限が続いていた。
俺は執務室の作業台で、今日の予定表を確認していた。
昨日、父さんと一緒に修正した搬入担当者と清掃担当者の連絡手順は、正式な予定表へ反映されている。今朝の仕事は、その内容が各担当者へ正しく伝わっているか確認し、必要な書類を整理することだった。
机の上には、北門からの搬入予定と、使用人たちの担当表が並んでいる。
俺はそれぞれを見比べながら、昨日までに確認できた内容と、新しく記載された内容に食い違いがないか確かめていた。
(……今日は特に変更なしか。清掃の予定とも重なっていないし、今のところ問題はなさそうだな)
そう考えながら最後の書類を確認したところで、執務室の扉が控えめに叩かれた。
「失礼いたします。グレイヴ様、北門の搬入について確認したいことがございます」
入ってきたのは、搬入の受け取りを担当している使用人だった。
父さんは手元の書類から顔を上げ、落ち着いた声で応じた。
「どうした」
「本日予定されている荷物のうち、一部の到着時刻が少し前後する可能性があるとの連絡がございました。まだ確定ではありませんが、念のためお伝えしておこうと思いまして」
父さんは静かに頷いた。
「連絡元は確認できているか?」
「はい。通常の取引先からの連絡です。ただし、具体的な到着時刻については、改めて知らせるとのことでした」
「分かった。では、現時点では予定を変更せず、追加の連絡を待つことにしよう。受け取り担当者には、時刻が確定していないことだけ伝えておきなさい」
「承知いたしました」
使用人は一礼し、執務室を出ていった。
俺はそのやり取りを聞きながら、予定表へ視線を落とした。
到着時刻が変わる可能性はある。
けれど、まだ正式に変更されたわけではない。
だから、今の段階で予定表を書き換えてしまえば、かえって混乱を招くかもしれない。
昨日の学院で学んだことと、よく似ている。
「クルセス」
父さんに呼ばれ、俺は顔を上げた。
「はい」
「今の連絡について、何か気づいたことはあるか?」
俺は少し考えた。
「……到着時刻が変わる可能性はあるけど、まだ確定していないから、予定表そのものは変更しない方がいいと思う。それから、受け取り担当者には、変更の可能性があることを伝えておく必要があるかな」
父さんは頷いた。
「そうだな。では、もし追加の連絡が来ないまま予定時刻になったら、どうする?」
「……受け取り担当者が、決められた手順で確認することになると思う。俺が勝手に別の時刻を決めるわけにはいかないから」
「よい判断だ」
父さんは書類を整えながら続けた。
「予定が変わる可能性があるときほど、確定した情報と未確定の情報を分けて扱う必要がある。焦って対応すれば、かえって余計な仕事を増やすことになるからな」
俺はその言葉を胸に刻み、静かに頷いた。
今朝の仕事は、いつもどおりの確認作業だった。
けれど、昨日までに学んだことを思い出しながら取り組むと、同じ仕事でも少し違って見える。
俺は残っていた書類を整理し、父さんへ確認を終えたことを報告した。
「それでは、学院へ向かう準備をしてきます」
「ああ。今日も気をつけて行きなさい」
「はい」
俺は一礼し、執務室をあとにした。
◇
朝食を終えて馬車へ乗り込むと、リビアは俺の顔を見て、少しだけ首を傾げた。
「セス、今日は何か考え事をしているの?」
「……そんなに分かりやすい?」
「ええ。あなたが何かを整理しているときの顔をしているわ」
俺は思わず苦笑した。
最近、リビアには何を考えているのか見抜かれることが増えた気がする。
もちろん、彼女が俺の考えをすべて知っているわけではない。それでも、俺が何かを気にしていると、いつもより少し早く気づいてしまうらしい。
「今朝、北門からの搬入について連絡があったんだ。到着時刻が変わるかもしれないって」
「まあ。何か問題があったの?」
「ううん。まだ変更が決まったわけじゃないよ。取引先から追加の連絡が来る予定だから、今はそれを待っているところなんだ」
俺が説明すると、リビアは静かに頷いた。
「そうだったのね。では、今は予定が変わる可能性だけ分かっているということかしら」
「うん。父さんも、確定していないことを勝手に決めつけないようにって言ってた」
「それは大切なことね」
彼女はそう言って、窓の外へ視線を向けた。
朝の街道には、学院へ向かう馬車や仕事へ出かける人々の姿が見える。
しばらくして、リビアは何かを思い出したように俺へ向き直った。
「そういえば、セス。今日の学院で、公開講習の準備について新しい連絡があるかもしれないと聞いたのだけれど」
「えっ? そうなの?」
「ええ。ただし、まだ正式な内容までは分からないわ。昨日の演習を踏まえて、参加者へ追加の説明をする可能性があるそうよ」
俺は少し考えた。
昨日の情報伝達の演習では、それぞれ違う情報を持つ担当者同士が、必要なことを確認しながら対応する練習をした。
リビアは自分から教師へ質問し、判断してよい範囲を確かめることができた。
俺も、受付で来訪者へ何を伝えるべきか考える中で、情報を集めることばかりに意識を向けていたと気づいた。
あの経験を、次の準備へ生かせるのなら嬉しい。
「……どんな説明なんだろうね」
「まだ分からないわ。でも、私は少し楽しみにしているの」
リビアは柔らかく微笑んだ。
「昨日、自分で確認できたことが嬉しかったから、次も落ち着いて考えてみたいと思っているのよ」
「そっか」
俺も自然と笑みがこぼれた。
「俺も楽しみだよ。リビアがどんなことに気づくのか、また聞かせてほしいな」
その言葉に、彼女は少しだけ頬を赤くした。
「……セスは、本当にそういうことを自然に言うのね」
「何か変だった?」
「いいえ。とても嬉しいわ」
リビアはそう言って、俺の手へそっと指を重ねた。
俺も握り返すと、彼女は安心したように微笑んだ。
馬車は穏やかな揺れとともに、学院へ向かって進んでいった。
◇
学院へ到着すると、教室ではすでに公開講習の話題が広がっていた。
俺が席へ向かうと、ガレスが勢いよく顔を上げた。
「セス、聞いたか? 今日の放課後、参加者向けの追加説明があるらしいぞ」
「うん。リビアから少し聞いたところだよ」
「お、そうなのか。俺はさっき掲示を見てきたんだけど、昨日の演習で出た確認事項について話すらしい」
ガレスはそう言って、少し楽しそうに笑った。
「もしかしたら、そろそろ正式な役割が決まるのかもしれないな」
「どうだろう。まだ分からないんじゃないかな」
俺が答えると、サザリーが手帳を持って近づいてきた。
「セスの言うとおりだと思うよ。掲示には、正式な役割や班分けについては書かれていなかったから」
「そうなのか?」
「うん。だから、今日も説明を聞くまでは決めつけない方がいいと思う」
ガレスは少し残念そうに肩を落とした。
「そっか。そろそろ商人役になれるか分かると思ったんだけどな」
俺は思わず笑ってしまった。
「ガレス、本当に商人役をやりたいんだね」
「そりゃそうだろ。せっかく参加するなら、普段から興味のあることをやってみたいしな」
ガレスはそう言って胸を張った。
その表情には、いつもの明るさが戻っている。
昨日の演習で失敗したことを気にしていた様子もあったが、今は次にどうすればよいか考えようとしているらしい。
「でも、別の役割になっても、学べることはありそうだよね」
俺がそう言うと、サザリーが頷いた。
「そうだね。僕も案内役を希望しているけど、昨日の演習では、受付や搬入のことを知っておく必要があると思ったから」
その言葉に、ガレスは少し考え込んだ。
「……確かに、商人役になったとしても、受け取る側のことを知らないと困るもんな」
「うん。だから、正式な役割が決まるまでは、いろいろな立場から考えてみるのもいいと思う」
俺たちはそんな話をしながら、午前の授業の準備を始めた。
◇
午前の授業では、魔術理論の課題について確認が行われた。
昨日までに学んだ複数属性の魔力制御について、今日は術式の構造を考える際に必要な情報を整理することになっている。
教師は黒板へ簡単な図を描き、教室を見渡した。
「皆さん、複数の属性を扱う場合、術者本人の能力だけでなく、周囲の環境や術式の目的を確認する必要があります」
俺はノートを開き、説明を聞きながら必要な部分を書き写した。
火と風。
水と土。
雷と水。
組み合わせによって、想定される影響は異なる。
俺は五属性すべてに適性があるが、それだけであらゆる組み合わせを安全に扱えるわけではない。
むしろ、扱える属性が多いからこそ、考えるべきことも増える。
(……魔力を抑えれば安全、という単純な話じゃないんだよな)
俺は以前の実習を思い返した。
次月に予定されている二属性魔術の実習については、まだ具体的な日程や課題の内容が確定していない。
だから、今の段階で勝手に術式を試すつもりはない。
ただ、理論として理解しておくことはできる。
俺は課題の余白へ、想定される影響と確認が必要な点を書き込んだ。
その途中で、教師が教室を見渡しながら声をかけた。
「では、皆さん。術式が正しく成立している場合でも、使用を控えるべき状況にはどのようなものがあるでしょうか」
何人かの生徒が手を挙げた。
教師はその中から一人を指名し、周囲に人がいる場合についての意見を聞いた。
続いて別の生徒が、術式を使用する場所の状態について答える。
俺はその話を聞きながら、昨日の公開講習の演習との共通点に気づいた。
できることと、実際に行ってよいことは違う。
魔術でも、仕事でも、その違いを理解する必要がある。
俺はその考えをノートへ書き込んだ。
授業の終わりには、次回までに今日の内容を整理するよう指示があった。
俺は課題を鞄へしまい、昼休みの準備を始めた。
◇
昼休み、俺たちはいつものように食堂へ集まった。
今日はリビア、ガレス、サザリー、レオル、そしてエミリアが一緒だった。
窓際の長机には柔らかな日差しが差し込み、食堂の中には生徒たちの話し声が広がっている。
俺たちは食事を進めながら、放課後の追加説明について話していた。
「昨日の演習で出た確認事項って、どんなことがあるんだろうな」
ガレスが首を傾げると、サザリーが少し考え込んだ。
「僕たちのグループでは、情報を伝える途中で、相手が何を知っているのか確認する必要があったよね。ほかのグループでも、似たようなことがあったんじゃないかな」
「そうね」
リビアが静かに口を開いた。
「私たちのグループでは、予定を変更する権限が誰にあるのか分からなかったわ。だから、先生へ確認したの」
エミリアはその話を聞き、柔らかく微笑んだ。
「オリビア様、昨日は自分から質問できたんですよね」
「ええ。少し緊張したけれど、確認してよかったと思っているわ」
リビアはそう言って、少し照れたように微笑んだ。
俺はその横顔を見つめながら、昨日の出来事を思い返した。
彼女は自分から教師へ質問し、判断してよい範囲を確かめた。
そして、その経験を嬉しそうに話してくれた。
俺は彼女の変化を、すぐ近くで見られたことが嬉しかった。
「……セス?」
リビアが俺の視線に気づき、少しだけ首を傾げた。
「何かしら?」
「ううん。リビア、昨日すごく頑張ってたなって思って」
その瞬間、彼女の頬が薄く赤く染まった。
「……もう」
リビアは小さく呟き、視線を落とした。
向かいに座っていたガレスが、楽しそうに笑う。
「お前ら、また始まったな」
「何が?」
「いや、もういいよ」
ガレスは肩を揺らして笑った。
サザリーも小さく微笑み、エミリアは楽しそうに二人を見守っている。
リビアは少しだけ頬を膨らませたあと、堂々と顔を上げた。
「婚約者を褒めることに、何か問題があるのかしら?」
その言葉に、ガレスは一瞬だけ黙った。
それから、両手を上げて笑った。
「いや、ありません!」
食卓に笑いが広がった。
俺もつられて笑いながら、リビアへ視線を向けた。
彼女は少し得意げに微笑んでいたが、机の下では俺の袖をそっとつまんでいる。
その仕草が可愛らしくて、俺は何も言わずに微笑み返した。
◇
放課後、公開講習の参加者たちは指定された教室へ集まった。
教室の前方には、昨日の演習で使われた資料とは別に、いくつかの新しい紙が並べられていた。
俺はリビアと一緒に教室へ入り、空いている席へ腰を下ろした。
ガレスとサザリーは少し離れた席へ座り、レオルも資料を眺めながら席を探している。
やがて担当教師が入室し、参加者たちへ向き直った。
「皆さん、昨日の情報伝達の演習、お疲れさまでした。今日は、その結果を踏まえて、追加の確認を行います」
教師は机の上に置かれた資料を一枚持ち上げた。
「今回の課題では、昨日よりも少し複雑な状況を想定します。ただし、今日も正式な班分けとは関係ありません。仮の役割を使って確認しますので、その点は誤解しないようにしてください」
俺はその言葉を聞き、静かに頷いた。
正式な役割は、まだ決まっていない。
今日の課題も、あくまで準備の一環なのだろう。
「また、今日の課題では、皆さんに一つだけ意識してもらいたいことがあります」
教師は黒板へ、短い言葉を書いた。
異変に気づいたとき、どうするか。
俺はその文字を見つめた。
異変。
昨日までの課題では、情報を正しく伝えることや、判断してよい範囲を確認することが中心だった。
けれど、今日は少し違うらしい。
「公開講習では、多くの人が同じ施設を使用します。予定どおりに進むことが理想ですが、実際には小さな行き違いや、予想していなかった状況が起こることもあります」
教師は教室を見渡しながら続けた。
「そのとき、皆さんがすべてを解決する必要はありません。大切なのは、何が起きているのか確認し、必要な相手へ正しく伝えることです」
俺はその説明を聞きながら、ノートへ書き込んだ。
異変に気づくこと。
状況を確認すること。
必要な相手へ伝えること。
そして、自分の判断で動いてよい範囲を理解すること。
どれも、昨日までに学んできたこととつながっている。
教師は参加者たちの様子を確認したあと、課題の説明を始めた。
◇
今回、俺たちは昨日とは違う組み合わせの小グループへ分けられた。
俺とリビアは同じグループになったが、サザリーとガレスは別のグループだ。
代わりに、俺たちのグループには、昨日まであまり話す機会のなかった生徒が三人加わった。
教師は各グループへ資料を配り、課題の開始を告げた。
俺たちに渡されたのは、公開講習の準備中に、講習用の部屋へ運ぶ予定の物品が一つ足りないことに気づいたという想定だった。
ただし、実際に物品がなくなったわけではない。
机の上に置かれた紙片を使い、誰が何を確認するべきか考える形式になっている。
俺に渡された紙には、受付で来訪者の案内を担当しているという役割が書かれていた。
リビアには、講習用の部屋で物品の準備を確認する役割が与えられている。
残る三人には、それぞれ搬入担当者、物品の確認担当者、講習用の部屋の責任者という仮の役割が割り当てられていた。
教師の指示に従い、俺たちは必要な情報を言葉で伝えながら状況を整理することになった。
「では、始めましょうか」
リビアが静かに声をかけた。
俺たちは頷き、それぞれの紙を確認した。
最初に口を開いたのは、物品の確認担当者役の生徒だった。
「僕の紙には、講習用の資料箱が一つ足りないと書かれています。でも、搬入予定表には必要な数が記載されています」
俺はその言葉を聞き、ノートへ書き込んだ。
予定表には必要な数がある。
けれど、実際に確認できた数は足りない。
ただし、どこで数が合わなくなったのかは分からない。
「……搬入担当者の情報はどうなっている?」
俺が尋ねると、別の生徒が手元の紙へ目を落とした。
「こちらには、予定された数の箱を搬入したと書かれています。ただし、受け取り側での確認が完了したかどうかは分かりません」
「なるほど」
俺は頷いた。
搬入担当者は予定された数を運んだと認識している。
けれど、受け取り側では一つ足りないと考えている。
この時点で、どちらかが間違っていると決めつけることはできない。
俺は次に何を確認するべきか考えた。
そのとき、リビアが静かに口を開いた。
「……少し確認してもいいかしら」
俺たちは彼女へ視線を向けた。
リビアは自分の紙を見つめながら、落ち着いた声で続けた。
「私の役割では、講習用の部屋に必要な物品を準備することになっているわ。でも、足りないとされている箱が、どのようなものなのかまでは書かれていないの」
俺は少し考えた。
確かに、資料箱が一つ足りないという情報だけでは、その箱がどのようなものなのか分からない。
同じ大きさの箱が複数あるのかもしれないし、別の場所へ運ばれている可能性もある。
「……じゃあ、まず何が足りないのか確認した方がいいのかな」
俺がそう言うと、リビアは頷いた。
「ええ。それから、足りないと判断したとき、何と何を比べたのかも知りたいわ」
その言葉に、俺は目を瞬かせた。
確かに、そのとおりだ。
予定表の数と、実際に置かれている箱の数を比べたのか。
それとも、別の確認表と照らし合わせたのか。
そこが分からなければ、何が起きているのか判断できない。
「……リビア、よく気づいたね」
俺がそう言うと、彼女は少しだけ頬を赤くした。
「ありがとう。でも、まだ何も分かっていないわ」
彼女はそう言って、物品の確認担当者役の生徒へ向き直った。
「確認したとき、どの資料を使ったのか分かるかしら」
その生徒は手元の紙を見直した。
「……こちらには、部屋の準備表と照らし合わせたと書かれています」
「搬入予定表とは別の資料なのね」
「はい。そうみたいです」
リビアは静かに頷いた。
「では、二つの資料に書かれている内容が同じかどうか、確認する必要がありそうね」
俺はその言葉を聞き、ノートへ新しい項目を書き加えた。
搬入予定表。
部屋の準備表。
実際に確認できた物品。
この三つが一致しているかどうか、まだ分からない。
俺は少しだけ胸の奥が温かくなるのを感じた。
リビアは、俺が考えていたよりも早く、確認するべき点に気づいていた。
しかも、誰かの判断を否定するのではなく、必要な情報を丁寧に集めようとしている。
昨日の演習で学んだことを、今日も自然に生かしているのだ。
◇
課題が進むにつれて、俺たちは少しずつ状況を整理していった。
搬入予定表には、資料箱が五つ記載されている。
部屋の準備表にも、同じく五つ必要だと書かれている。
けれど、物品の確認担当者役の生徒が確認したときには、四つしか見つからなかった。
ここまでは、全員の情報が一致している。
問題は、残りの一つがどこにあるのか分からないことだった。
「……別の部屋へ運ばれた可能性はないかな」
俺がそう言うと、搬入担当者役の生徒が少し考え込んだ。
「僕の紙には、五つの箱を指定された場所へ運んだと書かれています。でも、途中で誰かに引き渡したかどうかまでは分かりません」
「なるほど」
俺は頷いた。
ここで勝手に別の部屋を探しに行くという判断はできない。
実際の施設では、許可されていない場所へ入ることも問題になる。
俺はそのことを考えながら、次の確認事項を書き込んだ。
すると、リビアが静かに口を開いた。
「……セス、少しだけいい?」
「うん。どうしたの?」
「あなた、今、足りない箱を探す方法を考えていたでしょう?」
俺は思わず瞬きをした。
「……分かる?」
「ええ。少しだけ、表情が変わったもの」
リビアは柔らかく微笑んだ。
「でも、今の私たちに必要なのは、箱を探しに行くことではなくて、どこまで確認できているのか整理することだと思うの」
俺はその言葉に、ゆっくりと頷いた。
確かに、俺は一瞬、実際に箱を探す方法を考えていた。
けれど、今の課題では、物品を探しに行くことが目的ではない。
何が起きているのか確認し、必要な相手へ伝えることが求められている。
「……そうだね。ありがとう、リビア」
「どういたしまして」
彼女は嬉しそうに微笑んだ。
そのとき、講習用の部屋の責任者役の生徒が、少し困ったように口を開いた。
「僕の紙には、講習開始までに必要な物品が揃っていなければ、担当教師へ報告するように書かれています。でも、今の段階で報告するべきなのか、少し迷っています」
俺はその言葉を聞き、考え込んだ。
まだ箱が見つからないと決まったわけではない。
けれど、必要な物品が揃っていないことは確認できている。
その情報を、責任者が知っておく必要はあるだろう。
「……報告することと、問題が確定したと伝えることは違うんじゃないかな」
俺がそう言うと、その生徒は顔を上げた。
「どういうこと?」
「今の段階では、箱が一つ足りないと確認されたことは事実だけど、どこにあるかは分からない。だから、確認できたことと、まだ調べていることを分けて伝えればいいんじゃないかな」
その言葉に、リビアが頷いた。
「ええ。私もそう思うわ。足りないと判断されたことを伝えるのは必要だけれど、紛失したと決めつけるのは早いと思うの」
責任者役の生徒は少し考えたあと、静かに頷いた。
「なるほど。じゃあ、今の状況を報告して、必要な確認を続けることになるんだね」
「そうだと思う」
俺たちは顔を見合わせ、少しだけ安心したように笑った。
まだ箱の所在は分からない。
けれど、何を確認するべきかは少しずつ見えてきた。
◇
そのとき、教師が俺たちのグループへ近づいてきた。
「皆さん、進み具合はいかがですか」
俺たちはここまでに確認できたことを説明した。
搬入予定表と部屋の準備表には、同じ数の資料箱が記載されていること。
搬入担当者は予定された数を運んだと認識していること。
しかし、部屋で確認できた箱は一つ少ないこと。
そして、現時点では、どこで数が合わなくなったのか分からないこと。
教師は最後まで聞いたあと、静かに頷いた。
「なるほど。では、皆さんは今、何をするべきだと考えていますか」
俺は少し考えた。
箱を探しに行くことではない。
誰かの間違いだと決めつけることでもない。
確認できた情報を整理し、必要な相手へ伝えること。
そう答えようとしたところで、隣のリビアが静かに口を開いた。
「先生、ひとつ確認してもよろしいでしょうか」
「どうぞ、パウリーさん」
「今回の課題では、私たちが物品の保管場所を変更したり、別の場所を調べたりする権限はあるのでしょうか」
教師は少しだけ目を細めた。
「よい質問ですね。皆さんに与えられているのは、必要な情報を確認し、担当者へ報告する役割です。許可されていない場所を調べたり、物品の配置を変更したりする権限はありません」
リビアは静かに頷いた。
「ありがとうございます。では、今の段階では、確認できた事実を整理して、責任者へ報告することが必要なのですね」
「そのとおりです」
教師は穏やかに微笑んだ。
「ただし、もう一つ考えてみてください。皆さんが異変に気づいたとき、報告するまでに時間がかかりすぎたら、どうなるでしょうか」
その問いに、俺は少し考え込んだ。
情報を正確に整理することは大切だ。
けれど、すべてが分かるまで報告を待ってしまえば、必要な対応が遅れる可能性がある。
「……確認できたことだけでも、早めに伝えた方がいい場合があると思います」
俺が答えると、教師は頷いた。
「そうですね。特に、講習の進行へ影響する可能性がある場合は、状況が完全に分かるまで待つ必要はありません」
教師は教室全体へ視線を向けた。
「大切なのは、分からないことを隠さず、確認できた事実と区別して伝えることです」
俺はその言葉をノートへ書き込んだ。
正確に伝えること。
必要なときに伝えること。
その両方が大切なのだろう。
教師は俺たちの記録を確認したあと、ほかのグループへ移動していった。
俺たちは残りの時間を使い、報告する内容を整理し直した。
◇
課題の終了を告げる声が聞こえるころには、俺たちのグループも必要な情報をまとめ終えていた。
資料箱が一つ足りないと確認されたこと。
搬入予定表と部屋の準備表には、同じ数が記載されていること。
搬入担当者は予定された数を運んだと認識していること。
ただし、受け取り後の確認状況については、まだ分からないこと。
そして、現時点では、箱がどこにあるのか確認できていないこと。
俺たちはそれらを整理し、責任者へ報告する内容としてまとめた。
そのあと、教師は各グループへ振り返りを求めた。
最初に発表したグループでは、異変に気づいたあと、全員で原因を探そうとした結果、報告が遅れてしまったらしい。
別のグループでは、確認できていない情報を確定したものとして扱い、途中で判断が食い違ってしまったという。
どちらも、真面目に取り組んだからこそ起きた問題のようだった。
俺はその話を聞きながら、ノートへ書き込んだ。
異変に気づいたとき、すぐに原因を突き止めようとするのではなく、まず状況を整理する。
そして、必要な相手へ早めに伝える。
その考え方は、屋敷の仕事でも役に立つだろう。
やがて、俺たちのグループが発表する番になった。
教師に促され、俺は立ち上がった。
「俺たちのグループでは、資料箱が一つ足りないという状況でした。でも、搬入予定表と部屋の準備表には同じ数が書かれていて、搬入担当者も予定された数を運んだと認識していました」
俺はそこで一度言葉を切った。
教室の中では、ほかの参加者たちが静かに聞いている。
「最初は、足りない箱を探す方法を考えました。でも、今の役割では、許可されていない場所を調べたり、物品を動かしたりする権限がないことが分かりました」
教師は頷いた。
「なるほど。では、ほかに気づいたことはありますか」
俺は隣に座るリビアへ視線を向けた。
彼女は少し驚いたように目を瞬かせたが、すぐに小さく頷いた。
「……リビア、よかったら話してくれる?」
俺がそう尋ねると、彼女は静かに立ち上がった。
「はい。私からも、お話しさせていただきます」
リビアは教室の前方へ視線を向けた。
「私たちのグループでは、資料箱が足りないと判断したとき、何と何を比べたのか確認することが大切だと分かりました」
彼女は落ち着いた声で続けた。
「また、原因が分からないからといって、報告を遅らせてよいわけではないことも学びました。確認できた事実と、まだ分からないことを分けて伝える必要があると思います」
教室の中は静かだった。
リビアは少しだけ息を整え、最後にこう付け加えた。
「私は以前、誰かを助けようと思うあまり、確認する前に行動してしまったことがあります。だから今回は、まず自分が何を判断してよいのか確かめることを意識しました」
その言葉を聞き、俺は胸の奥が温かくなった。
彼女は、失敗したことをただ悔やんでいるわけではない。
そこから学んだことを、次の行動へつなげようとしている。
教師は穏やかに頷いた。
「よい振り返りですね。皆さんも、今日の課題で気づいたことを次へ生かしてください」
リビアは静かに頭を下げ、席へ戻った。
俺は彼女へ小さく微笑んだ。
彼女も少し照れたように笑い返してくれた。
◇
放課後の確認が終わると、参加者たちはそれぞれ帰り支度を始めた。
俺はリビアと並んで廊下へ出た。
窓の外では夕方の光が校舎の壁を照らし、運動場からは部活動を終えた生徒たちの声が聞こえている。
しばらく歩いたところで、リビアが俺の袖をそっと引いた。
「セス」
「ん?」
「今日は、ありがとう」
俺は少し不思議に思った。
「何かしたっけ?」
リビアは小さく笑った。
「発表のとき、私にも話す機会をくれたでしょう?」
「ああ、あれか。リビアが一番大事なところに気づいてくれたから、自分で話した方がいいと思ったんだ」
俺がそう答えると、彼女は少しだけ目を見開いた。
それから、柔らかく微笑んだ。
「……嬉しかったわ」
「そっか」
「ええ。でも、それだけではないの」
リビアは歩調を緩め、俺へ身体を向けた。
「あなた、今日の課題で、私が先生へ質問する前に何か言おうとしていたでしょう?」
俺は思わず瞬きをした。
確かに、彼女が権限について確認する前、俺も同じようなことを考えていた。
けれど、リビアが自分から質問しようとしているのを見て、言葉を止めたのだ。
「……よく分かったね」
「分かるわ。あなた、私が困っているときには、いつも少しだけ表情が変わるもの」
リビアはそう言って微笑んだ。
「でも、今日は私が自分で考えるのを待ってくれたでしょう?」
「うん。リビアなら、自分で確認できると思ったから」
その言葉を聞いた瞬間、彼女は少しだけ俯いた。
銀青色の髪が頬へかかり、夕方の光を受けて柔らかく揺れる。
「……そう言ってもらえると、本当に嬉しいわ」
俺は彼女の表情を見つめた。
リビアは、俺に守られることを嫌がっているわけではない。
むしろ、俺が心配する気持ちを理解してくれている。
けれど、それと同じくらい、自分で考え、自分で行動することも大切にしたいのだろう。
「……リビア」
「何かしら?」
「俺、これからもリビアが困ってたら助けたいと思う。でも、リビアが自分でやりたいことまで、先に全部やっちゃうのは違うんだよね」
俺がそう言うと、彼女はゆっくりと頷いた。
「ええ。私も、あなたが困っているときには力になりたいわ。でも、あなたが自分で考えたいことまで奪いたくはないの」
リビアは俺の手へそっと触れた。
「だから、お互いに、必要なときには頼り合える関係でいたいの」
俺は彼女の手を握り返した。
「うん。俺もそう思う」
彼女は嬉しそうに微笑んだ。
その笑顔を見ていると、今日の課題で学んだことが、少し違う形で胸の中へ広がっていく気がした。
誰かを助けること。
誰かに任せること。
そして、相手が自分で選ぶことを尊重すること。
それらは、似ているようで少しずつ違う。
俺はまだ、その違いを十分に理解できていないのかもしれない。
けれど、リビアと一緒なら、少しずつ学んでいける気がした。
◇
屋敷へ戻るころには、空が夕暮れの色へ変わっていた。
馬車を降りると、玄関では使用人たちが出迎えてくれた。
俺は礼を伝え、リビアと別れてから、夕方の仕事へ向かった。
執務室へ入ると、父さんが書類を整理していた。
「クルセス。今日の学院はどうだった?」
「公開講習の参加者向けに、異変に気づいたときの対応について練習があったんだ」
俺は今日の課題について簡単に説明した。
資料箱が一つ足りないという想定だったこと。
必要な情報を確認しながら、状況を整理したこと。
そして、原因が分からないからといって、報告を遅らせてはいけないと学んだこと。
父さんは最後まで聞いたあと、静かに頷いた。
「なるほど。屋敷の仕事でも、同じことが言えるな」
「うん。俺もそう思った」
「それで、お前は何を学んだ?」
俺は少し考えた。
異変に気づくこと。
状況を確認すること。
必要な相手へ伝えること。
どれも大切だ。
けれど、今日の俺にとって一番印象に残っているのは、別のことだった。
「……リビアが、俺より先に大事なところに気づいたんだ」
父さんは少しだけ目を細めた。
「ほう。どういうことだ?」
「俺は足りない箱を探す方法を考えてたんだけど、リビアは、そもそも何と何を比べて足りないと判断したのか確認しようとしてた」
俺は少し照れくさくなりながら続けた。
「それで、俺も気づいたんだ。何かを解決しようとする前に、何が起きているのか正しく理解しないといけないんだって」
父さんはしばらく黙っていた。
それから、静かに微笑んだ。
「……お嬢様は、よい判断をされたのだな」
「うん」
「そして、お前もその判断から学んだ。それでよい」
父さんは机の上へ書類を置き、俺へ視線を向けた。
「人は、自分が得意なことほど、先に行動しようとしてしまう場合がある。だが、能力があることと、状況を正しく理解していることは別だ」
「……うん」
「だからこそ、周囲の意見を聞くことが大切になる。お前が気づかなかったことを、お嬢様が気づかれることもあるだろう」
俺はその言葉に頷いた。
リビアは、俺が守るべき大切な人だ。
けれど、守られるだけの存在ではない。
彼女自身も、考え、判断し、行動することができる。
そのことを、俺はもっと大切にしたいと思った。
「……ありがとう、父さん」
「礼を言う必要はない。では、残りの仕事を済ませなさい」
「うん」
俺は返事をして、作業台へ向かった。
夕方の仕事は、いつもどおり進んでいく。
けれど、今日の俺は少しだけ違う気持ちで取り組んでいた。
自分ができることを増やすだけではなく、誰かと一緒に仕事を進めること。
その意味を、少しずつ理解できるようになってきた気がした。
◇
夜、自室へ戻ると、俺は机の上へ今日のノートを広げた。
公開講習の正式な役割は、まだ決まっていない。
今日の課題も、あくまで異変に気づいたときの対応を確認するための仮の演習だった。
それでも、学んだことは多かった。
俺はノートへ、今日確認した内容を書き込んだ。
異変に気づいたとき、まず何が起きているのか整理すること。
確認できた事実と、まだ分からないことを区別すること。
必要な相手へ、早めに報告すること。
そして、自分に判断する権限があるか確認すること。
最後の項目を書いたところで、俺は少しだけ手を止めた。
今日のリビアの姿が、頭に浮かんだからだ。
彼女は、俺が考えていたよりも早く、確認するべき点に気づいていた。
しかも、誰かを責めるのではなく、必要な情報を丁寧に集めようとしていた。
(……リビアは、俺が思ってるよりずっと強いんだな)
俺は静かに微笑んだ。
彼女は完璧ではない。
俺も、完璧ではない。
けれど、だからこそ、一緒に学んでいけるのだろう。
ノートを閉じようとしたところで、扉が控えめに叩かれた。
「セス、まだ起きているかしら」
聞き慣れた声に、俺は顔を上げた。
「リビア? うん、起きてるよ」
扉を開けると、リビアが立っていた。
彼女は部屋着に着替えており、銀青色の髪が肩へ柔らかく流れている。
「少しだけ、お話ししてもいい?」
「もちろん」
俺が招き入れると、リビアは嬉しそうに微笑んだ。
彼女は机の上のノートへ目を向けたあと、俺の顔を見つめた。
「……今日のことを整理していたの?」
「うん。忘れないうちに書いておこうと思って」
「まあ。私も、少しだけ考えていたところなの」
リビアはそう言って、俺の隣へ腰を下ろした。
俺は彼女の顔を見つめながら、少し考えた。
「……リビア、今日はどうだった?」
彼女は少し驚いたように目を瞬かせた。
「どう、というのは?」
「今日の課題。先生に自分から質問してたでしょ? あのとき、どんなことを考えてたのかなって」
俺が尋ねると、リビアはしばらく黙っていた。
それから、ゆっくりと微笑んだ。
「……実は、少し怖かったの」
「怖かった?」
「ええ。昨日の演習で失敗したことを思い出して、また間違った判断をしてしまうのではないかと思ったわ」
彼女は膝の上で指を重ねた。
「でも、今日は自分で確認してみようと思ったの。先生に質問すること自体は、何も悪いことではないでしょう?」
「うん。そうだね」
「それに、あなたが隣にいてくれたから」
リビアはそう言って、俺へ視線を向けた。
「セスが先に答えを出してくれなくても、私が困ったら一緒に考えてくれると思えたの」
俺はその言葉に、胸の奥が温かくなった。
彼女は、俺が何もしなかったことを喜んだわけではない。
自分で考えることを尊重してもらえたと感じたのだろう。
「……そっか」
俺は静かに頷いた。
「俺も、リビアが自分で質問してるのを見て、すごいなって思ったよ」
その言葉に、彼女は少しだけ頬を赤くした。
「……また、そんなことを言うのね」
「本当のことだから」
「もう……」
リビアは小さく笑い、俺の手へそっと触れた。
「でも、ありがとう。とても嬉しいわ」
俺も彼女の手を握り返した。
しばらく、二人の間に静かな時間が流れた。
窓の外では夜風が木々を揺らし、葉の擦れる音が小さく聞こえている。
俺は彼女の手の温かさを感じながら、今日の出来事を思い返した。
異変に気づくこと。
状況を確認すること。
そして、必要な相手へ正しく伝えること。
どれも、簡単なようで難しい。
けれど、今日のリビアを見ていると、俺も少しずつ学んでいきたいと思えた。
「……ねえ、リビア」
「何かしら?」
「これからも、俺が何か先回りしてやろうとしたら、言ってくれる?」
彼女は少しだけ目を見開いた。
それから、嬉しそうに微笑んだ。
「もちろんよ。でも、セスも約束してね」
「何を?」
「私が一人で抱え込もうとしていたら、ちゃんと気づいてほしいの」
俺は頷いた。
「うん。約束する」
リビアは満足そうに微笑み、俺の手を少しだけ強く握った。
「……ありがとう、セス」
その声は、いつもより少し柔らかかった。
俺たちはしばらく、今日の課題について話した。
まだ分からないこと。
次に確認したいこと。
そして、今日できたこと。
どれも、今すぐ答えを出す必要はない。
けれど、こうして言葉にしてみると、少しずつ整理できる気がした。
やがて、リビアが立ち上がった。
「……そろそろ戻るわね。明日も学院があるもの」
「うん。部屋まで送るよ」
俺がそう言うと、彼女は嬉しそうに頷いた。
廊下へ出ると、屋敷の中はすっかり静かになっていた。
壁際の灯りが柔らかく床を照らし、遠くから夜勤の使用人が歩く足音が聞こえてくる。
俺たちは並んで歩きながら、言葉を交わさずにいた。
けれど、その沈黙は気まずいものではなかった。
リビアの部屋の前へ到着すると、彼女は俺の方へ向き直った。
「セス」
「ん?」
「今日は、私が自分で考えるのを待ってくれてありがとう」
俺は微笑んだ。
「俺も、リビアが自分で答えを見つけようとしてるところを見られて嬉しかったよ」
その言葉に、彼女は少しだけ頬を赤くした。
「……本当に、あなたはそういうことを自然に言うのね」
「また?」
「ええ。またよ」
リビアは小さく笑ったあと、俺の手をそっと握った。
「でも、嬉しいわ」
俺も握り返した。
彼女の手は温かく、少しだけ名残惜しそうに指が重なっている。
しばらくして、リビアはゆっくりと手を離した。
「おやすみなさい、セス」
「おやすみ、リビア」
彼女が部屋へ入るのを見届けてから、俺は自室へ戻った。
机の上には、今日整理したノートが置かれている。
そこには、まだ答えの出ていないことがいくつも残っていた。
けれど、今夜はそれを見ても焦らなかった。
分からないことがある。
不安に思うこともある。
それでも、自分で考えることができる。
そして、必要なときには誰かと一緒に考えることもできる。
俺はそのことを、今日一日で改めて学んだ気がした。
窓の外には、静かな月明かりが差し込んでいる。
俺は明日の準備を整え、机の上のノートを閉じたまま、部屋の灯りを落とした。
そして、今日リビアが自分から先生へ質問したときの真剣な表情と、そのあとに浮かべた嬉しそうな笑顔を思い出しながら、静かに目を閉じた。




