道標
篠崎さんは何も尋ねなかったが、僕の方から説明した。戸籍上の性別が女性であることや、この容姿に至るまでの経緯を。ただし、篠崎さんに恋心を抱いていることは伏せた。
彼は、はじめこそ戸惑っていたものの、僕が丁寧に説明していくうちに柔和な態度に変わっていった。
「そうか、俺はてっきりお前が完全な男だとばかり思っていたよ。」
そう言う彼に、僕も苦笑いで答えた。
「そうですよね。僕も今まで自分の心は完全に男性寄りだと思ってましたから。」
それからまた、いつものようにたくさん話しをした。友人や家族の話から、仕事、世界情勢の話まで様々。
気がつけば日が暮れかけていた。
「もうこんな時間ですね。帰りましょうか。」
そう僕が言うと、篠崎さんは改まってこう言った。
「カズ、お前が良ければこれからも俺と会ってくれや。」
僕はとびきりの笑顔で答えた。
「もちろんです。」
こうしてこの日、二人は別れた。
それから後も、篠崎さんは事あるごとに僕と会ってくれた。
次第に、彼の僕に対する扱いが変化していった。そんな日々を重ねたある日、彼の口から予期せぬ言葉が飛び出した。
「カズ、聞いてくれるか。俺は元々、女性が苦手でな。カズくらいがその、なんていうか、ちょうど付き合いやすいんだよなぁ。なんて、失礼か。何ていうかその――」
ゴニョゴニョと言い訳をする彼が、あまりにらしくなくて、僕は笑った。
「僕で――私で良ければ、よろしくお願いします。」
篠崎さんは「おお。」と言って、真っ赤な顔で笑っていた。
こうして、私たちは付き合うことになった。
それを期に、私自身の変化はさらに加速した。
周囲への説明――特に両親との話し合いは混乱を極めた。それでも両親は、時間はかかったが、最後には私の選択を尊重し、応援すると言ってくれた。
友人たちは一様に驚いていた。
僕の変化に気付いていた麻里奈とヒーコは、
「おめでとう!」
と声をそろえて祝福してくれた。
ナツキチに至っては、
「予想の斜め上いくなぁ。」
と、複雑な表情で感嘆していた。そんな親友たちの反応は、少しむず痒かった。
お世話になった病院へも、意を決して説明に行った。すると精神科の担当医はこう言った。
「性自認が揺らぐことは、わずかですが前例があります。しかし、ガイドライン的には、前の診断を“誤診”としなければなりません。」
それを聞いて、申し訳なさが先に立った。ところが逆に、担当医は私を励ましてくれた。
「性自認が定まらないのは、本当に苦しいことだと思います。でも自分の心の声に正直であることは、決して悪いことではありません。間違っても、あなたのせいじゃありません。」
またしても、私は救われることとなった。
名前は、カズのままでもよかった。
でも、和葉に戻すことにした。
お腹に新たな命が宿り、自分の人生が、この子にとって責任あるものになったからだ。
裁判所で再審査を経て、“二度と変更のないように”との注釈付きで、名前の再変更を許してもらえた。
職場にも報告し、皆が祝福してくれた。
中には、物珍しがる人もいたし、心ない声も聞いた。
それでも私は、もう揺るがなかった。
悲観することも、もう止めた。
私は“私”としてこの世に生まれ、これまで十分に自分を見つめて生きてきた。
そして今、大切な友人、家族、仕事仲間に恵まれ、愛する人と、愛するわが子に出会えた。これ以上の幸せはない。
この先どんな困難が訪れようと、私は守りたいもののために強くあれる。
もし、自分を見失いかけている人がいたら、この物語を思い出してほしい。
性別という人間の基本情報さえ揺らぎながら、それでも生きている人がいることを。
そして、人は周囲の支えによって、何度でも立ち上がれることを。




