混濁
卒論発表が迫ると、僕は研究室に入り浸った。
何かを振り切るように研究に没頭し、時には食事を忘れ、寝る間を惜しんで論文を書いた。
鬼気迫る様子の僕を皆、遠巻きに見ていた。
田辺さんはそれでも声をかけてくれたし、飲みに誘ってくれたけど、僕は丁重に全て断った。
ナツキチも心配して、声を掛けてくれた。
「そんなに無茶してると体壊すぞ。」
そんな友の優しい気遣いすら、この時の僕には騒音に感じた。
「大丈夫だから。心配しないで。」
そう言ってニコリと笑うのが精一杯だった。
夜、静かな研究室にひとつぼんやりと明かりをつけ、キーボードの音を響かせる。
頭の中だけがやけにうるさくて、
「しずかにしてよ。」
僕は一人つぶやく。
(あと少しで完成する。)
今まで読んだたくさんの論文、教授の助言、僕のアイディア――その集大成がいま実を結ぼうとしている。
ふと、手洗いに行きたくなった。
立ち上がろうとして、よろめいた。
「危ないな。しっかりしないと。」
と、一人ぼやいた。
トイレの前で、頭の中が一層うるさくなった。
――僕は、どっちが正解なんだ。男か、女か。自分は何者なんだ。僕が論文を書くことで誰の役に立てるんだ。アルバイトも上手くいかないのに、この先就職して人の役に立てるのか?友も好きな人も、僕から遠ざかっていく。僕は無価値だ。僕は何のために生まれてきたんだ。何のために生きているんだ――
目眩がして屈み込む。
暗闇に揉まれて、目の前が青と赤の円錐に飲み込まれそうになった。
「カズ!!」
麻里奈の声がする。
意識が遠のく――
「カズ!!カズ!...」
気が付くと、ソファに横になっていた。急速に意識が戻る。足に毛布が掛けられていた。
(ここは――)
通称休憩室。ソファと長机が置かれ、簡単な炊事が出来る部屋だ。
コンロで湯を沸かす人の背中が目に入った。
「麻里奈?」
ビクッと振り向く彼女の目には涙が浮かんでいた。
「カズ!良かったあ」
そう言って麻里奈は泣き出した。
普段勝ち気な彼女の、そんな姿を初めて見て驚いた。
「ごめん、僕どうしたんだっけ?トイレに行こうとして――あ!」
言いながら気付いた。休憩室に備え付けの毛布――その下は何も履いていない。
どうやら失禁したらしい。
麻里奈は突然目の前で倒れた僕を介抱してくれたようだ。感謝でしかない。
「着替えもないし、どうしたらいいか分からなくて。ナツキチに電話したけど出なくて。私――」
そう言ってまた涙ぐむ彼女。
「ナツキチには知らせないで。」
僕は慌てて言った。
「ナツキチにどんな顔して会えばいいか、分からないんだ。」
目を伏せる僕をじっと見つめる麻里奈の目から、涙が止まった。
「何があったの?」
怖い顔をする彼女に、僕は弁解する。
「ナツキチが悪いんじゃないんだ。全部僕自身の問題なんだよ。でも奴には会いたくないんだ。今は。」
麻里奈は涙を拭うと、僕の正面に座り直した。
「何があったか教えて。」
それはもう、いつもの麻里奈だった。




