第3話・前編 進路を見失った少年 ― 颯太 ―
夜の体育館は、がらんとしていた。
照明の切れ端だけが天井をぼんやり照らし、床に白いラインが浮かんでいる。
最後まで残ってひとりシュート練習をしていた颯太は、ボールを抱えたまま、立ち尽くしていた。
高校二年生。
バスケ部のレギュラーではあるが、スタメンではない。
目立つほどの才能もなく、かといって辞める勇気もない。
汗だくのシャツが、妙に重たい。
――このまま、何になれるんだろう。
進路希望調査票の白紙の欄が、脳裏をよぎる。
「将来の夢」
その五文字を書けずに、すでに一週間が過ぎていた。
友だちは、
「スポーツ推薦で大学行く」
「理工学部目指す」
「親の店継ぐ」
そうやって、それぞれの道を口にしている。
なのに、颯太には、何もなかった。
勝ちたいほどの才能も。
泣くほどの情熱も。
ただ、続けているだけのバスケと、特に興味のない授業と、何者にもなれない自分。
「……あー」
天井を仰ぎ、声にならない溜息を吐く。
体育館を出ると、夜風が肌に刺さった。
スマホを見るが、誰に連絡したいわけでもない。
家には、まっすぐ帰りたくなかった。
気まぐれに曲がった裏道。
見覚えのない路地に入ったころ、颯太は立ち止まった。
――匂い。
腹が鳴るような、温かい匂い。
揚げ物の香ばしさ。
だしの旨味。
それに、微かに甘い匂い。
「……腹、減ってたんだ」
思い出す。
昼は買い食いのパンだけ。
部活後、夕飯前。
完全に空腹だった。
路地の奥に、灯りが見える。
レンガ造りの、小さな店。
「……何ここ」
看板は、ない。
扉の横の黒板には、白い文字。
《本日のご来店、歓迎いたします》
胸が、ざわついた。
なんとなく、足が止まらない。
――進路のこと、考えたくない。
――でも、家に戻っても、答えは出ない。
チリン。
扉の鈴を鳴らして、中に入った。
店内は、静かだった。
カウンターと、二人掛けのテーブルがいくつか。
そして、厨房に――あの料理人。
年齢が分かりづらい、優しそうな顔。
「いらっしゃいませ」
颯太は、ぎこちなく会釈した。
「あ……やってます?」
「ええ。どうぞ」
促され、カウンター席に腰掛ける。
「メニューは……?」
「ありません。お任せのみです」
――あ、前来た人の話、SNSで見たことあるやつか。
“変な料理屋に迷い込んだ”みたいな投稿。
そのアカウント、今は消えていたけど。
「……じゃあ、お任せで」
料理人は、頷く。
包丁の音が、一定のリズムで響き始めた。
「進路、迷っていますか」
調理中、料理人がぽつりと言った。
「……なんで分かるんすか」
「あなたの足取りが、そう言っています」
颯太は、苦笑する。
「……夢、ないんですよ」
「夢は、『無い』と思っている時ほど、形を隠しています」
料理人は続ける。
「あなたは、“やりたいことが無い”のではなく、“決めきれない”だけです」
心臓が、ひくっと鳴る。
「……それ、違います」
反射的に否定した。
「俺、取り柄ないし……バスケだって、別に……」
「好きではないのですか?」
「……」
好き、か。
ボールを追ってるときの没頭感。
決まったシュートの、胸が鳴る感じ。
嫌いでは、ない。
でも、それだけじゃ――。
「……好きでも、才能ないっす」
「才能が、“やめる理由”になっているのですね」
料理人の声は、責めるでもなく、淡々としている。
「……」
しばらくして、料理が出てきた。
大きめの皿。
盛られているのは、チキン南蛮丼。
照りのある甘酢餡。
白いタルタル。
こんがり揚げた鶏肉。
「……がっつりっすね」
「“迷う人の料理”です」
料理人は言った。
「腹が満たされないうちは、未来は見えません」
颯太は、スプーンを手に取った。
ひと口。
――うまい。
思わず、頬が緩む。
次の瞬間、胸の奥が、ざわっと波立った。
脳裏に浮かぶのは――
初めて試合に出た日の歓声。
汗で滑る体育館の床。
パスをもらって、迷わず打ったシュート。
外した。
でも、なぜか――
すごく、楽しかった。
「……」
箸が、止まる。
料理人が、静かに言う。
「“楽しかった記憶”は、あなたの夢の種です」
颯太は、呟く。
「……バスケ、続ければいいんすか」
「答えを、外に探してはいけません」
料理人は、まっすぐに言った。
「続けるか、辞めるか――そのどちらも、“間違い”にはなりません」
料理を見つめながら、颯太は、震える声で言った。
「……でも、俺、何になりたいのか、分からない」
料理人は、優しく微笑んだ。
「“何かになる前の時間”こそ、人生の準備期間です。」
颯太は、息を呑んだ。
「……何者にも、なれなくても?」
「“何者にもなれない人”は、いません。“まだ、決まっていない人”がいるだけです」
皿を抱えるみたいに、颯太は身をかがめた。
――決めなくていい、って、初めて聞いた。
食べ終わり、会計をしようと立ち上がる。
「……あの、いくらですか」
「今日は、結構です」
「……え?」
「代わりに」
料理人は、小さなノートを差し出した。
「思いついたことを、何でも書いてください。好きなもの、嫌いなもの、楽しかったこと、悔しかったこと」
表紙には、何も書かれていない。
「それが、あなたの“進路図”になります」
颯太は、受け取った。
チリン――。
外に出ると、路地は元通りの闇。
店は、なかった。
でも――手の中には、真新しいノート。
歩きながら、颯太は、ページを開いた。
一行だけ、書いてみる。
《バスケ、嫌いじゃない》
それだけで、少しだけ胸が軽くなった。




