第2話・後編 それでも、焼き続ける ― 香織 ―
朝。
キッチンの窓から、やわらかな光が差し込んでいた。
香織は、テーブルの上に置いた昨夜の封筒を、何度も見つめていた。
パン教室の案内。
カルチャースクール。週一回、昼間の二時間。初心者・経験者どちらも歓迎。
――週一、たった二時間。
それだけのはずなのに、胸がざわつく。
「……」
家族の朝食の準備をしながらも、頭の中で同じ問いが巡っていた。
私は、家を空けてまで、行っていいの?
これまで、そんな選択をしたことはなかった。
娘の部活の送迎。
息子の宿題の世話。
夕食の買い出し。
母は“常に家にいるもの”。
それが当たり前になっていた。
けれど――
パンをかじったあの夜の感覚が、どうしても消えない。
――楽しかった。
あの一言が、胸の奥で、何度も反芻されていた。
朝食の席。
「今日、学校どう?」
「テスト近いからだるい」
「算数のプリント忘れたー」
いつもと変わらない会話。
日常は、淡々と進む。
夫がネクタイを結びながら言った。
「今日は帰り遅くなる。会議」
「……うん」
香織は、一瞬、迷った。
そして、口を開いた。
「……ねえ」
「ん?」
「私、来週から……パン教室、通おうと思ってる」
スプーンの音が、止まった。
娘がぱっと顔を上げる。
「え、ママ、パン作るの?」
息子は、きょとんとしている。
「うん。昔、ちょっとやってたんだ」
夫も、こちらを見る。
「……へぇ」
香織は、思い切って続けた。
「週一、昼だけ。夕飯までには戻るから」
一瞬の沈黙。
心臓が早鐘を打つ。
拒まれたら――と、怖くなった。
けれど。
夫は、思いのほか、あっさりと言った。
「別に、いいんじゃないか」
「……え?」
「家のこと、ちゃんとやってくれてるし。たまには、自分の時間あっても」
娘が、にやっと笑った。
「ママがパン屋になったら、あたし、一番に食べる」
息子は、ふん、と胸を張る。
「じゃあ、俺、味見係な!」
胸が、いっぱいになる。
――私、勝手に“許されない”って、思い込んでただけ?
「……ありがとう」
そう言った声が、少し、泣きそうだった。
初めての教室の日。
エプロンを新調し、久しぶりに化粧をした。
駅前のカルチャースクール。
ドアを開けると、小麦粉の香りと、活気ある声が迎えてくれた。
「今日初めての方ですね?」
明るい先生の声。
「……はい」
緊張で、声が裏返る。
周囲を見ると、主婦や会社員、リタイア後の男性など、年齢も立場もさまざまだった。
誰もが、“何かを始める顔”をしている。
生地を捏ねる。
粉が舞い、手はべたつく。
同じテーブルの女性と笑い合いながら、形を整えていく。
「けっこう手、覚えてますよ」
先生が言った。
「……昔、ちょっと」
「“ちょっと”じゃないですね。焼き加減、見る目ありますよ」
胸がすっと軽くなる。
――戻ってこれた。
オーブンからパンを取り出す瞬間。
香りが、教室いっぱいに広がる。
焼き色は、あの頃と同じ、やさしい黄金色。
胸が、熱くなる。
「……やっぱ、好きだ」
思わず、零れた。
その夜。
夕食後のデザートに、教室で作ったパンを出した。
「おいし!」
「うまっ!」
「ママ、これ、売れるよ」
家族の笑顔。
その真ん中に立つ、自分。
――ああ。
夢は、置き去りにすれば消えるんじゃなくて、“日常の中で、そっと芽吹かせるもの”だったんだ。
寝室で、布団に入る前。
香織は、ふっと、あの店のことを思い出した。
もう二度と会えないかもしれない、料理人。
「……ありがとう」
小さく呟く。
ふと、窓から、かすかな匂いが届いた。
焼きたてのパン。
あの店と、同じ香り。
もちろん、外を見ても、店はない。
それでも――
香織は、微笑んだ。
もう、“導かれる場所”は、外ではなく、自分の中にあると、わかっていたから。




