第2話・中編 それでも、夢は息をしている ― 香織 ―
カウンターに腰を下ろした香織は、落ち着かない気持ちで両手を膝の上に置いた。
店内に漂う香ばしい匂いは、子どものころから幾度となく嗅いできた――
“働くパン工房の朝”の匂いだった。
粉の甘さ。
焼き上がる生地の、ほのかに焦げた温度。
胸がきゅっと締めつけられる。
料理人は、白衣の袖を整えながら、ゆっくりと話し出した。
「あなたは、よく頑張ってきました」
「……」
「夢を諦めたわけではない。あなたは、“家族を守る”という別の夢を、必死に叶え続けてきたのです」
香織は、思わず視線を落とした。
――そう言われると、救われる気もする。
けれど――。
「……でも……」
声が震える。
「それでも、どこかで……“私は、逃げたんじゃないか”って、思ってて……」
逃げた。
責任を理由に。
仕方ないと、自分に言い聞かせて。
「もし続けてたら……店、出せてたかもしれない。誰かの朝を、あのパンで支えられてたかもしれない」
そんな、“もしも”を、封じ続けてきた。
料理人は、穏やかに言う。
「夢とは、“別の何かを選んだ瞬間”に、消えるものではありません」
オーブンを開く。
ふわっと、さらに香りが立ち昇った。
「夢は、“諦めた自分”のふりをして、心の奥でじっと待ち続けるのです」
香織の胸に、小さな衝撃が走る。
「……待ってる……?」
「ええ。“いつか戻ってきてくれる日”を」
オーブンから取り出されたのは、小さな丸パンが数個のったトレー。
焼き色は淡く、やさしい金色。
香織は、息を呑んだ。
「……私が、作ってたパンと……同じ……」
「あなたの記憶に、刻まれている味です」
料理人は、ひとつのパンを皿に乗せ、そっと差し出した。
「“再点火のパン”」
香織は、両手でパンを受け取る。
ほんのりと温かく、柔らかい。
ちぎると、湯気がふわりと立った。
一口かじる。
噛んだ瞬間――。
目の奥が、じんと熱くなる。
あの頃の朝の景色が、鮮やかに蘇った。
日の昇る前の工房。
まだ眠そうな同僚の声。
粉まみれのエプロン。
オーブンの前で汗をぬぐいながら、
「楽しい」と、心から思っていた自分。
「……ああ……」
嗚咽が漏れる。
パンの味は、素朴なのに、なぜか涙が止まらない。
「……私、好きだったんだ……パン、焼くの……」
香織は、震える声で呟いた。
料理人は、静かに答える。
「今も、好きですよ」
香織は、はっと顔を上げる。
「……今も?」
「ええ。好きな気持ちは、時間では、失われません」
香織は、胸を押さえた。
――自分でも、認めまいとしていた。
“好き”だという感情を。
「……でも……」
現実が、重くのしかかる。
「子どももいるし……今さら、仕事なんて……」
「夢を“仕事にする”必要はありません」
料理人の言葉に、香織は目を瞬かせる。
「仕事にしなくても、生き方に反映させることはできます」
トレーに、新しいパンが並ぶ。
ハート型、星型、小さな動物の形。
「あなたは“作ること”が好きなのです」
料理人は言った。
「家族のための料理も、それ自体が、あなたの夢の縮図」
「……」
「ただ一度くらい、“自分のためだけ”に作っても、いいのではないですか?」
香織の喉が、ごくりと鳴る。
「……自分の、ため……」
その言葉は、ずっと禁忌だった。
母が、妻が、家族が――
優先されるべきと、思い込んでいた。
料理人は続ける。
「夢とは、誰かを蔑ろにしてまで抱くものではありません」
そして、優しく断言する。
「あなたが笑う姿は、家族の夢にもなる。」
香織は、俯いたまま、嗚咽をこらえた。
胸の奥が、ひび割れていく。
「……ずっと……“我慢”と、“優しさ”を、同じものだと……」
ごちゃ混ぜにしてきた。
「……違ったんだ」
料理人は、微笑んだ。
パンを食べ終え、香織は、深いため息をついた。
「……なにか、したくなってきました」
料理人は、頷く。
「それが、最初の一歩です」
カウンターに、小さな封筒が置かれる。
「これは?」
「地域のカルチャースクールの、パン教室の案内です。
あなたが昔、検索して、ブックマークして……“どうせ行けない”と、閉じたページ」
香織は、封筒を見つめ、苦笑した。
「……見られてる」
「森羅万象、少しだけ」
冗談めかして、料理人が言う。
香織は、封筒を握りしめた。
――夢は、燃え尽きていなかった。
ただ、薪が足りなかっただけだったのだと、今ならわかる。
立ち上がり、扉へ向かう前、香織は振り返った。
「……また、来ても……」
「必要な時には、必ず」
料理人は、そう答えた。
チリン、と鈴が鳴り、香織は外へ出る。
団地の夜。
空気は澄んでいる。
振り返ると――やはり、店はもうなかった。
けれど、香織の腕の中には、封筒がしっかり残っている。
その重みは、なぜか、とても軽かった。




