第2話・前編 迷い続けた母 ― 香織 ―
買い物袋の取っ手が、指に食い込んでいた。
ジャガイモ、ニンジン、玉ねぎ、もやし。
何度も見てきた中身。
値引きシールの貼られた肉パックと、安売りの豆腐。
香織は、それらの重みを両手に感じながら、団地への坂道を登っていた。
四十一歳。
専業主婦。
高校生になる娘と、小学四年生の息子、そして、仕事に遅く帰る夫。
この家族のために、香織は日々を生きている。
それに、不満があるわけじゃない。
――……たぶん。
玄関を開ける。
「ただいま」
返事は、ない。
リビングに入り、カバンを下ろす。
テーブルの上には、娘の書き置き。
《部活で遅くなるから、先に食べてて》
息子の靴は、乱雑に脱ぎ捨てられている。
夫のスリッパは――まだ無い。帰宅は、今日も遅いらしい。
香織は、エプロンを身に着け、無心で夕食の支度を始めた。
皮を剥く。
刻む。
炒める。
台所に、包丁のリズムが響く。
料理は嫌いじゃない。
むしろ、好きなほうだ。
家族が「おいしい」と言ってくれる瞬間は、素直に、嬉しい。
けれど。
湯気の向こうで、不意に、胸がちくりと痛んだ。
――私、いつから“作るだけ”になったんだろう。
過去が、ふと頭をよぎる。
結婚前、香織は、小さなパン工房で働いていた。
早朝から生地を捏ね、オーブンの前で汗だくになって、焼きたての香りに包まれる日々。
「将来は、自分の店を出したいんです」
そう言って笑った自分を、はっきり覚えている。
パン職人になる夢。
それは、確かにここにあった。
だが。
妊娠。出産。育児。
家庭に入り、仕事をやめた。
しばらくは復帰も考えていた。
だが、保育園の空きはなく、実家は遠い。
夫は忙しく、育児を任せられる状況ではなかった。
気づけば――十年。
夢は「一時停止」のまま、再開されない。
「……今さら、もう遅いよね」
独りごちた声は、煮込みの音に消える。
夕食ができるころ、子どもたちが帰宅した。
「今日のカレー、いつもの?」
「うん」
それだけの会話。
食卓に笑顔はあるが、どこか形式的だ。
夫が帰った頃には、もう夜も更けていた。
「お疲れ」
そう声をかける。
「……ああ」
それだけ。
互いの疲れを知りすぎて、言葉は少なくなっていた。
片付けを終え、風呂を済ませ、布団に入る。
香織は、眠れずに天井を見つめていた。
――このまま、年を取っていくんだろうか。
家族のための毎日。
それが嫌なわけじゃない。
けれど、
“自分の夢を、持たない人生”で、本当に良かったのだろうか。
問いは、いつも答えのないまま、胸に残る。
寝返りを打つと、窓の外から、かすかな匂いが流れ込んだ。
焼きたてのパンの香り。
――え?
思わず、上体を起こす。
夜中に、パン屋が開くはずがない。
香りは、風に乗り、はっきりと続いている。
香織は、戸惑いながら、そっと家を出た。
団地の階段を降りる。
足は自然と、匂いの方角へ進んでいた。
見慣れない裏路地。
その奥に――暖色の灯り。
レンガ造りの、小さな店。
看板は、ない。
「……なん、これ」
胸がざわつく。
扉の横の黒板には、白いチョークで書かれていた。
《本日のご来店、歓迎いたします》
息を、呑む。
無意識に、扉へ手を伸ばしていた。
チリン――。
鈴の音が鳴る。
足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。
優しい温もり。
粉とバターの混ざった、懐かしい香り。
店は、静かだった。
カウンター席、テーブル席。
そして――厨房に立つ、あの料理人。
「いらっしゃいませ」
やわらかい声に、胸が熱くなる。
「……ここ、パン屋さん……?」
「いいえ。料理店です」
微笑み。
「――夢を叶える料理店。」
香織は、呆然と立ち尽くした。
夢という言葉に、心臓が、強く跳ねる。
「……夢、なんて……」
小さく呟くと、料理人は、ゆっくり首を振る。
「今も、あなたの中で、焼き上がっています」
香織は、思わず、涙を浮かべた。
言われて初めて気づく。
――私、ずっと。
パンの匂いから、逃げられなかった。
胸いっぱいに、懐かしさが広がる。
料理人は、手を止めずに言った。
「少し、腰をかけてください。これから、お出しする料理は――」
振り返り、優しく告げる。
「“あなたの夢”そのものです。」




