第1話・後編 それでも、音は鳴る ― 亮太 ―
翌朝。
カーテンの隙間から差し込む朝日が、部屋の埃を照らしていた。
古いワンルーム。コンビニ袋が積み重なり、脱ぎ捨てられたスーツが床に落ちている。
亮太は、布団の中で目を覚ました。
夢の続きを見ていた気がしたが、内容はすでに曖昧だった。
ただ、胸に残る“温かさ”だけは、はっきりしていた。
――あれ、本当に夢だったのか?
起き上がり、周囲を見回す。
テーブルの上に、あるはずのないものがあった。
小さな木箱。
昨夜、あの店で受け取った箱――。
「……マジか」
手を伸ばし、蓋を開ける。
中には、ギターストラップと、使い込まれたピックが入っていた。
夢じゃない。
あの店は、確かに、存在した。
胸の奥が、少しだけ熱くなる。
押し入れを開ける。
奥から、埃を被ったギターケースを引きずり出した。
ファスナーを開けると、現れたのは、あの日から時間が止まったままのアコースティックギター。
弦は、錆びている。
ネックには、薄く傷が走っている。
「……ひでぇな」
苦笑する。
それでも、ケースから取り出し、そっと構える。
ストラップを肩にかける。
革の感触が、昨夜と同じだった。
弦を押さえ、軽く爪弾く。
――ぶつり。
音は、歪み、鈍く、綺麗とは言えない。
亮太は思わず笑った。
「……そりゃ、そうだよな」
指は思うように動かない。
コードを押さえる痛みが、心地よいほど、遠い。
“戻ってない”ことを、身体がはっきりと示していた。
それでも。
何度か音を出すうちに、少しずつ、感覚が蘇っていった。
古いシンプルなコード進行。
かつて、自分のオリジナル曲で、何度も練習したフレーズ。
ぎこちなく、しかし、確かに――音楽が、部屋に満ちていく。
亮太は、目を閉じた。
客のいない路上。
通り過ぎる人の背中。
それでも、必死に声を張り上げていた、あの夜たち。
――好き、だったんだな。
評価されなくても。
売れなくても。
“鳴らすこと”そのものが、確かに、好きだった。
ギターを置き、スマホを手に取る。
昔の仲間の連絡先が、消さずに残っていた。
“拓也”。
路上ライブの相方だった男。
何度も疎遠になり、今や、連絡する理由もなかった相手。
画面を見つめ、数分迷う。
――今さら、何言うんだって思われるかもな。
指が震える。
だが、思い切って文字を打った。
「久しぶり。元気か?……ギター、また弾いてる」
送信。
既読は、しばらく付かなかった。
心臓の鼓動が、無駄に速くなる。
拒絶されるかもしれない。
笑われるかもしれない。
――それでも、弾く決心は、もうした。
しばらくして、スマホが震えた。
「え、マジ?久しぶりすぎるだろw……俺も、たまに弾いてるけど」
思わず、声が漏れた。
「……ほんとかよ」
胸が、軽くなる。
続けて、拓也からメッセージが来る。
「よかったら、今度、スタジオ入らね?たまには音出そうぜ」
スタジオ、という言葉に、喉が鳴る。
――路上より、ずっと現実的な場所。
亮太は、短く返した。
「……行く」
そう返した瞬間、ふっと思い出す。
あの料理人。
穏やかな声。
――“夢を追いかけている時間が、人生を照らします”。
ぎゅ、と拳を握る。
昼。
亮太は、近所の楽器店に立ち寄った。
弦を張り替え、クロスでギターを磨く。
レジのおばさんが、笑顔で言った。
「久しぶり?」
「……かなり」
自分でも驚くほど、声は明るかった。
帰り道、空を見上げる。
抜けるような青。
――不思議だ。
仕事はまだ決まっていない。
不安は山ほどある。
それなのに、胸の奥は、どこか澄んでいる。
「……あの店、なんだったんだろうな」
つぶやく。
もちろん、答えは出ない。
ただ、心には分かっていた。
“夢を叶える料理店”は、人生を直接変えてくれる場所じゃない。
背中を強く押すわけでも、魔法をかけるわけでもない。
ただ――
自分が何を望んでいるのかを、思い出させる場所だったのだ。
数日後。夜。
亮太は、拓也とスタジオに立っていた。
「やば、指つりそう」
「俺もだわw」
お互い、笑い合いながら、音を合わせる。
最初は、ぎくしゃくしていたが、何曲か弾くうち、感覚は戻ってきた。
部屋いっぱいに、音が広がる。
それだけで、胸がいっぱいになる。
「……楽しいな」
思わず漏らすと、拓也が頷いた。
「だろ。売れる売れないの話じゃないんだよな」
亮太は、深く息を吸った。
――ああ、そうだ。
ようやく、“ここ”に戻ってきた。
夜の帰り道。
駅へ向かう裏路地で、ふと足を止める。
あの時と、同じ場所。
――だが、もう、そこに店はなかった。
「……ありがとうな」
誰に向けるでもなく、呟く。
空気は、静かに澄んでいる。
そして今夜もまた、どこかで――
夢に迷った誰かが、“料理の香り”に導かれ、あの店の扉を、そっと開く。




