第1話・中編 夢の続きを、まだ知らない ― 亮太 ―
スープをすべて飲み終えるころには、亮太の目の奥の熱は、少しだけ落ち着いていた。
胸に残っているのは、泣いた後の疲労感と、奇妙な温かさだった。
料理人は、後片付けをしながら言った。
「……少し、落ち着きましたか」
「あぁ……」
声がかすれる。
涙が出たこと自体、久しぶりだった。
大人になってから、泣く理由すら、忘れていた。
亮太は、カウンターに肘をつき、ぽつぽつと口を開く。
「音楽やってた頃さ…毎日が楽しくてさ。金なくても、売れなくても、『いつか』が本気で信じられてた」
笑って言おうとしたが、うまく笑えなかった。
「けど、現実はさ、ちゃんと“今”を生きてる奴から、勝っていくんだよな……」
生活費。家賃。税金。
現実は情け容赦なく肩にのしかかる。
「音楽は、娯楽で」
「仕事は、現実で」
自分に何百回も言い聞かせてきた言葉だった。
料理人が、ゆっくりと振り返る。
「では、ご質問します」
穏やかな声音。
「――音楽をやめてから、あなたは、幸せでしたか」
亮太の口が、止まる。
「……」
数年分の記憶が、頭の中を駆け抜ける。
居心地の悪いオフィス。
上司の理不尽な叱責。
無意味な会議。
スマホを見つめながら、何者にもなれない自分を噛みしめる夜。
「幸せ」という言葉とは、どう考えても結びつかない。
「……違うよな」
小さく吐き出す。
「幸せじゃ、なかった」
料理人は、静かに頷いた。
「夢は、“叶うか叶わないか”だけで、価値が決まるものではありません」
そう言って、ゆっくりとカウンターに向き直る。
「夢は、人が“自分として生きる”ための核です。報酬や名声は、後からついてくる副産物にすぎません」
亮太は、かすかに首を振った。
「……理屈は、分かるけどさ」
「ええ。分かるだけでは、足りません」
料理人は、棚から小さな箱を取り出した。
開くと、中にはピックや、磨き込まれた古いギターストラップ。どこかで見たことのある道具だった。
亮太の心臓が、どく、と鳴る。
「……なんで、それ……」
料理人は微笑む。
「あなたが“忘れたふりをしてきたもの”です」
言葉の意味が、少し遅れて理解される。
「――俺の……?」
「ええ。あなたが路上で使っていたストラップ。全部、記憶の中には、残っています」
亮太は、言葉を失った。
「……そんな、馬鹿な」
「夢の料理店は、現実と記憶の境に立つ場所です。ここでは、“もういらないと思い込んでいる夢”を、取り戻すことができる」
料理人は、箱をそっと、亮太の前に差し出す。
「持っていてください」
「……今さら、持ってても意味ないだろ」
亮太は、視線を逸らす。
「ギターは、もう押し入れだ。弦も張ってない。触っても、きっと――」
怖かった。
夢を再び掴みかけて、それが空っぽだったと知るのが。
料理人は、いつもと変わらぬ微笑で言った。
「だからこそ、持っていくのです」
「……?」
「再び弾くかどうかは、あなたの自由。ただ、『弾ける自分』を、もう一度思い出してほしい」
静寂が落ちる。
時計の秒針の音だけが、響く。
亮太は、ゆっくりと、その箱に手を伸ばした。
ストラップの革は、懐かしい感触だった。
――そうだ。
ステージに立つ前、いつもこの感触を、指で確かめていた。
ぎゅっと、拳を握る。
「……俺、怖かったんだ」
思いが、言葉になった。
「もう一度見て……失敗するのが」
料理人は、優しくうなずく。
「失敗は、過去に戻ることではありません。ただ、“次”があるだけです」
亮太は、苦笑する。
「……次なんて、あるのかな」
「あります。夢を思い出せた人には、必ず」
その声は、確信に満ちていた。
ふと、亮太は思い出す。
「……そういえば……この店、店名は?」
料理人は、わずかに目を細めて答えた。
「店名は、ありません」
「……それ、前も聞いたな」
「その時々で、店は“お客様の夢の名前”になります」
「……じゃあ、今は?」
料理人は、静かに答えた。
「“亮太の再出発”です」
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられる。
再出発――
もう、そんな言葉を使っていい年齢ではないと、思っていた。
なのに、不思議と、今は素直に響いた。
「……ありがとう」
亮太は、箱を胸に抱えた。
そして、ゆっくりと立ち上がる。
扉へ歩きながら、振り返る。
「――なぁ」
「はい」
「夢、叶わなくても……やり直すだけでも、いいのか?」
料理人は、はっきりとうなずいた。
「ええ。夢は“叶った瞬間”より、“追いかけている時間”が、人生を照らします」
亮太は、静かに笑った。
扉を開く。
チリン、と鈴が鳴った。
外は、もう雨上がりだった。
夜気はひんやりしているが、不思議と寒くない。
気づくと、路地に店はなかった。
けれど、胸に抱えた箱は、確かに“ここにある”。
――帰ったら、ギターの弦を張り替えよう。
誰に聞かせるわけでもない。
路上に立てるかわからない。
仕事が決まるまでの金の不安も、消えてなどいない。
けれど。
亮太の足は、ほんの少しだけ、軽くなっていた。




