第1話・前編 夢を抱けなかった人 ― 亮太 ―
夜の街に、霧が降りていた。
駅前の繁華街を抜けた裏路地。
居酒屋の裏口から漏れる生ゴミの匂いと、排気ガスの混じった空気の中を、男が一人ふらふらと歩いていた。
名を、亮太という。三十五歳。
スーツのネクタイは緩められ、ワイシャツの襟元には薄くシミがついている。何杯目か覚えていないビールの匂いをまとい、足取りも覚束ない。
――また、クビ、か。
頭の中に浮かぶのは、今日言い渡された言葉ばかりだった。
「今回の契約更新は見送りで」
穏やかな口調だったが、その一言で全ては終わった。
非正規。契約社員。更新制。
いつか正社員になれると言われ続けて七年。期待しては裏切られ、気づけば三十代半ば。
気力も夢も、とうの昔に擦り切れていた。
学生のころは、ミュージシャンを目指していた。
アコースティックギターを抱え、仲間と路上ライブをして、無邪気にも思っていたのだ――音楽で生きていけると。
だが、売れない現実に敗れ、資金は尽き、仲間はそれぞれ社会に散っていった。
亮太も例に漏れず、「夢」と呼んでいたものを箱に詰め、押入れの奥へ仕舞った。
それが、何年前のことだったのかも、もう思い出せない。
「……楽な仕事、ないかな……」
自嘲混じりに呟いた声が、夜に溶ける。
気づけば、見知らぬ路地に入り込んでいた。
駅への帰り道を外れたらしい。
引き返そうとして、足が止まった。
――匂いだ。
湯気を含んだ、やさしい香り。
だしの匂い。煮込まれた野菜。ほんのり甘いスープ。
「こんなとこに……店?」
路地の奥に、ぽつんと灯りが見えた。
レンガ造りの小さな店。
木の扉。暖色の窓明かり。
見覚えのない建物。
だが、違和感よりも、「温かさ」に惹かれた。
空腹だった。
酒ばかりで、何も食べていない。
「……ま、いいか」
軽い気持ちで、扉に手をかけた。
チリン、と鈴が鳴る。
店内は、驚くほど静かだった。
カウンター席が五つ。小さなテーブル席が二つ。
壁には古時計と絵皿。それだけの、素朴な内装。
そして、厨房には――白衣の料理人。
綺麗な顔立ちをした青年のようにも、年齢不詳の大人のようにも見える、不思議な男だった。
「いらっしゃいませ」
柔らかい声が迎える。
「……ここ、やってる?」
「はい。開いております」
カウンターに腰掛けると、料理人はコップに水を注いで差し出した。
キンと冷えた水を飲み干し、亮太はようやく人心地つく。
「……この店、初めて見るんだけど」
「必要な方の前にだけ、現れる店です」
胡散臭い台詞に、亮太は苦笑した。
「宗教とかじゃないよな」
「いいえ。ただの料理屋です」
料理人は微笑み、包丁を手に取った。
まな板の上で、野菜を刻む音が響く。
不思議と、その音が心地良かった。
「注文、どうすれば?」
「お任せで、よろしいでしょうか」
少し迷った後、亮太は頷いた。
「……お任せで」
料理人は鍋に火を入れ、調理を始める。
香りが増していく。
胃袋が、素直に反応するのを感じた。
「夢――ありますか?」
突然、料理人が問いかけた。
亮太は、一瞬言葉に詰まる。
「……あったよ、昔は」
そう答えてから、苦く笑った。
「今は、ない」
「本当に?」
包丁を止めぬまま、料理人は問い返す。
「……」
亮太は、答えられなかった。
ないわけではない。
ただ、“持っていても意味がないもの”として、見ないふりをしてきただけだ。
「……音楽、やってた」
ぽつりと、こぼす。
「ギター。路上ライブ」
「けど、鳴かず飛ばずで」
「結局、食えなくなって」
「諦めた」
それを言い切ると、胸の奥がひどく重くなる。
「夢ってさ、食えないんだよ」
吐き捨てるように言った。
料理人は、初めて作業の手を止め、亮太を見た。
「……その通りですね。夢は、それだけでは、生きていけません」
否定されなかったことに、逆に戸惑う。
「ですが」
料理人は、火を弱める。
「夢は、生きる理由には、なります」
亮太は、何も言えなかった。
しばらくして、料理が出された。
白い深皿。
中には、黄金色のスープ。
そこに、香ばしく焼かれた白身魚の切り身と、刻まれた野菜が浮かんでいる。
「“再生のスープ”です」
「……再生?」
「失くしたように見えて、まだ心に残っている夢を、温める料理です」
亮太は、スプーンを手に取る。
――ひと口。
喉を通った瞬間、胸がじんと熱くなった。
懐かしい匂い。
夜の路上。マイク。ギターの弦。
ケースの中に落ちる、わずかな硬貨の音。
「……っ」
次の瞬間、視界が滲む。
涙だった。
「……なんで、今更……」
こぼれ落ちる声。
諦めたはずの夢が、胸の奥で、まだ息をしていた。
料理人が、静かに言う。
「夢は、捨てることはできても、死なせることはできません」
亮太は、ただ、震えながらスープを飲み続けた。
そして、ふと、問いかける。
「……俺、どうすりゃいい?」
料理人は答えない。
ただ、柔らかく微笑むだけだった。
――扉を開けるのは、客自身なのだと、示すように。




