第6話・中編 描くことを、もう一度 ― 真琴 ―
ホットミルクを飲み干すころ、胸の奥の冷たさは、少しだけ溶けていた。
マグカップに残る甘い香り。
真琴は、指先で縁をなぞりながら、ぽつりと呟く。
「……私、ずっと描いてはいるんです」
料理人は、うなずく。
「仕事で、イラストも一応……企業用の説明素材とか、商品の線画とか……」
言葉が、だんだん弱くなる。
「でも……あれって、“私の絵”じゃないんです」
料理人は、静かに答える。
「“仕事の絵”と、“夢の絵”は、違います。どちらも否定されるものではありませんが――」
そして、包丁を置き、真琴を見る。
「あなたが欲しかったのは、“誰かの顔色を気にせず、描いた線”でしょう?」
真琴は、小さく息を吸った。
「……はい」
胸の奥で、いつの間にか凍りついていた想いが、静かにほどける。
料理人は、カウンターに、小さな封筒を置いた。
「これは?」
封筒を開くと、イラスト投稿サイトの作家登録案内と、月一回開催される小さな展示イベントのフライヤーが入っていた。
真琴の目が、揺れる。
「……もう、そういうの……何年も見てないです」
「見なくなっただけで、無くなってはいません」
料理人は、穏やかに言った。
「あなたは、帰る場所を失ったと感じている」
「……」
「でも、“描く場所”は、まだ失っていません」
真琴は、封筒を握りしめた。
「……挑戦して...また、ダメだったら……」
「その時は」
料理人は、やさしく答える。
「また、描けばいい」
「夢は、“一度の勝負”じゃありません」
店の空気が、すっと静まる。
遠くで、鍋の湯が、かすかに鳴る。
真琴は、視線を落としながら、母のことを思い出す。
ぶつけた言葉。
電話を取らなかった日々。
「……私」
声が、震える。
「お母さんと、ちゃんと話してないまま、逃げてたかも……」
料理人は、否定せずに言う。
「帰る場所は、戻るものだけではありません。“つくり直す”こともできます」
静かに、立ち上がる。
「……もし、もう一度描き始めたら」
料理人を見る。
「……この店に、報告しに来ても、いいですか?」
料理人は、微笑む。
「必要な時にしか、扉は現れません」
「……じゃあ」
「ちゃんと歩き出しているなら、もう、来る必要はないでしょう」
胸に、すとんと落ちる。
――ああ、そうか。
この店は、背中を押すためだけに、現れる場所なんだ。
チリン。
扉を開け、外へ出る。
夜風が、ひやりと頬を撫でる。
振り返れば――
店は、もう無かった。
だが。
コートのポケットには、封筒が、確かに残っていた。
翌日の夜。
真琴は、久しぶりに、キャンバスを広げていた。
仕事とは関係のない、“自分のための絵”。
ラフも構図も気にせず、思うままにペンを走らせる。
久しぶりに引く線は、思ったよりも、震えていた。
けれど、それでも。
――楽しい。
気づけば、夜が更ける。
ふと、スマホを見る。
母からの着信履歴。
ずっと、出られなかった番号。
深呼吸して、かけ直した。
「……もしもし」
少しの沈黙の後、
「――まこと?」
母の声。
胸が、ぎゅっと締まる。




