第5話・後編 音を続けるという選択 ― 紬 ―
夜が、少しずつ深まっていく。
カーテンの隙間から差す月明かりが、鍵盤の白を淡く照らしていた。
紬の指は、まだ不安定だった。
音を外し、テンポを間違え、途中で止まる。
それでも――
止めない。
やり直して、また最初から、弾く。
――こんなに、指って、重たかったっけ。
かつて当たり前に動いていた指が、言うことをきかない。
それが、少しだけ悔しい。
でも、その悔しさが――
懐かしくて、心地よかった。
部屋のドアが、少し開いた。
「……まだ起きてたの?」
母の声。
驚いて振り向く。
「……うん」
母は、電子ピアノと楽譜を見て、ほっと息をついた。
「……また、弾いてるんだね」
「……」
責められると思っていた。
“もうやめたんじゃなかったの?”って、言われると思っていた。
でも――
母は、そうは言わなかった。
「……よかった」
「……え?」
「あなたがピアノやめたって言い出した時、寂しそうだったから」
紬の胸が、ぎゅっと締まる。
母は続ける。
「勝てなくても、上手じゃなくても――あの音は、あなたそのものだった」
言葉に、涙がにじむ。
紬は、小さく呟いた。
「……また、怖くなるかもしれない」
「それで、いいのよ」
母は、やさしく言う。
「夢って、いつも“楽しい”だけじゃないもの」
一瞬、沈黙。
母は、そっと言い足した。
「続けたいなら、続けなさい。誰のためでもなく、あなたのために。」
涙が、こぼれた。
「……ありがとう……」
母が部屋を出ていき、
紬は、また鍵盤に向き直る。
翌日。
学校の音楽室。
ドアを開けた瞬間、かつて怖くて避けていた、あの場所の匂いがした。
紬は、ピアノの前に立つ。
周囲に、誰もいない。
深呼吸。
そして、音を鳴らす。
――ぽん。
カーン、と音が反響する。
それだけで、胸が高鳴る。
顧問が、廊下から顔を出した。
「あ、紬。久しぶり」
「……」
逃げたい気持ちを、ぐっと飲み込む。
「また、弾いてみようかって……」
顧問は、目を細めて笑った。
「そう。いいじゃない」
紬は、驚いた。
「……怒られない、んですか」
「何で?」
顧問は、肩をすくめる。
「音楽は、勝つためにやるものじゃないよ」
胸に、ストンと落ちる言葉。
放課後。
音楽室で、ひとり、練習をする。
間違える。
止まる。
やり直す。
でも、以前と違って、
“うまくならなきゃ”より、“続けたい”が先にあった。
帰り道。
夕焼けを見上げながら、紬は、あの店を思い出した。
「……ありがとう」
小さく呟く。
もう、あの店に行かなくてもいい。
迷った時は、自分の音に戻ればいい。
家に着く。
玄関を開ける。
母の声。
「おかえり」
靴を脱ぎながら、紬は、にこっと笑った。
「……ただいま」
胸の奥で、小さな火が、静かに灯っている。
勝たなくてもいい。
選ばれなくてもいい。
それでも、夢は、音になって、生きていく。




