第5話・中編 それでも、音は消えない ― 紬 ―
ケーキの皿の上で、音符の形をしたチョコレートが、ぽつんと残っていた。
紬は、スプーンを握ったまま、しばらく動けずにいた。
料理人の言葉が、胸の奥で繰り返される。
――夢は、“才能がある人のもの”じゃない。
「……」
そんなはず、ないと思っていた。
才能のある人だけがステージに立ち、評価され、夢を叶える。
自分は、ただ、その客席側に座る人間なんだと。
そう、決めつけていた。
「……でも」
紬は、かすれた声で言った。
「私、コンクール……全然、ダメで……」
料理人は、やさしく頷く。
「負けた、と思ったのですね」
「……うん」
「でも、あなたは“演奏をやめた”わけではありません」
紬は、顔を上げた。
「あなたは、“負け”を認めるより先に、“夢を見る自分”を、止めてしまっただけです」
言葉が、胸に食い込む。
――止めた。
そうだ。
自分は、ピアノを諦めたんじゃない。
“ピアノを好きな自分”を、しまい込んだだけ。
料理人は、カウンター越しに、静かに問いかける。
「勝たなければ、ダメですか?」
紬は、答えられない。
「評価されなければ、無意味ですか?」
言葉が、喉に詰まる。
「夢は、“順位を決める競争”ではありません」
料理人は、やさしい声で言った。
「夢は、“心が何度でも、そこへ戻ってしまう場所”です」
紬の胸が、ぎゅっと締め付けられる。
――戻ってしまう場所。
授業中も、移動中も、ふと耳にメロディがよみがえる。
家で電子ピアノの前に座ってしまう夜。
忘れようとしても、戻ってしまう。
――確かに……。
料理人は、皿の横に、小さな箱を置いた。
「……これ」
箱を開くと、中には、小さなチューナーと折りたたまれた楽譜が入っていた。
紬は、目を見開く。
「……これ、私が……」
楽譜に、見覚えがあった。
昔、発表会で弾いた、そして……途中で、投げ出した曲。
「あなたの“未完成”の音です」
料理人は言う。
「終わらせるか、続けるかは、あなたの自由」
紬の喉が、鳴る。
「……続けても……いいんですか」
震える声。
「夢に、“遅すぎる”はありません。」
「でも……」
俯く。
「……また、怖くなるかもしれない」
「構いません」
料理人は、穏やかに答えた。
「怖いまま、続ければいい」
紬は、そっと箱を閉じた。
胸の奥が、あたたかくなる。
外に出ると、夜は静かだった。
振り返ると――
やはり、店は、消えていた。
それでも、紬の手には、チューナーと楽譜が、確かに残っている。
帰宅。
部屋の電気をつけ、電子ピアノの前に立つ。
しばらく、鍵盤を見つめ――
深く、息を吸った。
音を、出す。
――ぽん。
ぎこちない一音。
だが、その小さな音に、胸が震えた。
――私は、まだ、弾ける。
楽譜を置き、指を、鍵盤に乗せる。
忘れかけた旋律。
ぎくしゃくしながらも、ゆっくり、音が繋がっていく。
ガラス越しに、月明かりが揺れている。
紬は、涙を滲ませながら、それでも、弾き続けた。
音は、まだ、たどたどしい。
けれど――
確かに、生きていた。




