第5話・前編 夢を諦めてしまった少女 ― 紬 ―
放課後の音楽室に、ピアノの音が響いていた。
決して上手とは言えない、たどたどしい旋律。
それでも、指は真剣に鍵盤を追いかけている。
紬、十四歳。
中学二年生。
音楽室の窓は開け放たれ、夕暮れの風がカーテンを揺らしていた。
夢は、ピアニスト。
……だった。
コンクールで、結果を出せなかった。
同い年の天才の演奏を、真正面から見てしまった。
――レベルが、違う。
何時間練習しても届かない速さ。
音の粒の密度。
感情の込め方。
紬は、逃げるように、コンクールから帰宅した日のことを覚えている。
悔しくて泣くよりも、ただ呆然として、心の奥が、すうっと冷えていった。
「……私、向いてないんだ」
それが、最初の諦めだった。
それから、練習は減った。
音楽室にも来なくなった。
顧問にも、クラスメイトにも、
「別に、もういい」
「ピアノ飽きた」
そう言って、笑った。
けれど、本当は――
放課後、誰もいない家で、音を出さない電子ピアノを、ただ眺めていた。
鍵盤の白が、やけに眩しかった。
ある夕方。
紬は、帰り道に、道を間違えた。
考え事をしながら歩いていて、いつもの角を曲がり損ねたのだ。
裏路地に入ると、ふっと、耳をくすぐる匂いが流れてきた。
甘い匂い。
――ケーキ?
鼻を頼りに歩くと、見慣れない店の灯りが、目に入った。
レンガ造りの、小さな店。
看板は、ない。
扉の横に置かれた黒板には、
《本日のご来店、歓迎いたします》
と書かれている。
胸が、きゅっと鳴った。
――お店?
――ケーキ、食べたい……。
そんな軽い気持ちで、紬は、扉を押した。
チリン。
鈴の音。
店の中は、静かだった。
カウンター席と、二人掛けのテーブル。
ゆるやかな灯り。
そして――
厨房に立つ、あの料理人。
「いらっしゃいませ」
穏やかな声に、紬は、つい、緊張してしまう。
「あ……」
「どうぞ。お一人、ですね」
「……はい」
カウンターに、そっと腰掛ける。
「ご注文は?」
「……えっと」
メニューを探すが、どこにもない。
「お任せで、よろしいですか?」
紬は、戸惑いながら頷く。
「……はい」
調理をしながら、料理人は、やわらかく問いかける。
「音楽、やっていましたね」
紬の肩が、ぴくりと揺れた。
「……どうして、分かるんですか」
「あなたの指に、音が残っています」
言い当てられたようで、胸が詰まる。
「……もう、やめました」
「本当に?」
紬は、答えない。
しばらくして、皿が運ばれてきた。
白いソースのかかった、小さなケーキ。
上には、音符の形をしたチョコレート。
「……かわいい」
「“未完成のケーキ”です」
料理人は言った。
「あなた自身の、今の夢の形です」
一口食べる。
ふわっと、口の中で溶ける甘さ。
――次の瞬間。
音が、胸に流れ込む。
初めてピアノを弾いた日。
黒鍵と白鍵に、指を置くドキドキ。
コンクールで、震えながら弾いた舞台。
そして――
誰かに、音を届けたいと思っていた、あの純粋な気持ち。
「……」
涙が、ぽろっと落ちる。
料理人が、そっと言った。
「あなたの夢は、他人との“勝ち負け”で、壊れるものではありません」
紬は、震える声で尋ねた。
「……才能なかったら、夢見ちゃ、だめですか?」
料理人は、すぐに首を振った。
「夢は、“才能がある人のもの”ではありません」




