第4話・中編 教師である前に ― 恒一 ―
ビーフシチューの皿は、半分ほど空になっていた。
神崎は、スプーンを握ったまま、湯気の向こうを見つめている。
胸の奥で、長い年月、重ねてきた記憶がゆっくりと溶け出していた。
「……夢を語るってさ」
独りごとのように、呟く。
「無責任なんじゃないかって……ずっと思ってた」
料理人は、静かに耳を傾けている。
「頑張っても、結果が出ない生徒はいる。家庭の事情で、進学を諦める子もいる。いくら努力しても、届かない場所がある」
神崎は、苦く笑った。
「そんな現実を知ってるのに、“夢を見ろ”なんて言えます?」
料理人は、すぐには答えなかった。
鍋の火を弱め、タオルで手を拭いてから、ゆっくりと口を開く。
「夢を、叶えることばかりを、“夢だ”と呼ぶから、苦しくなるのです」
神崎は、首を傾げる。
「人は――」
料理人は続ける。
「夢を持つことで、未来に進む“理由”を得るのです。叶わなかったとしても、“進んだ時間”は、決して無駄になりません」
「……慰め、じゃないですか」
「違います」
料理人は、静かな声で否定した。
「教師であるあなたが、いちばん知っているはずです。結果が出なくても、過程が人を成長させることを。」
神崎の脳裏に、何人もの顔が浮かぶ。
大学入試に失敗し、涙を流した生徒。
けれど後年、地元で就職し、家庭を持ち、同窓会で穏やかに笑っていた姿。
――本当に、“不幸”だっただろうか。
皿のスプーンが、かすかに震える。
「……俺は」
神崎は、ゆっくりと口を開いた。
「生徒が挫折する姿を見るのが、怖くなったんです」
料理人は、目を細める。
「期待を持たせなければ、失望も見ずに済む」
神崎は苦笑言った。
「……逃げてたんでしょうね」
料理人は、穏やかにうなずいた。
「逃げは、悪ではありません。それも、人が心を守る方法のひとつです」
「……だったら……」
神崎は、視線を上げる。
「俺は、また“夢を語っていい”んでしょうか」
料理人は、微笑んだ。
「はい。むしろ――」
一拍おいて、続ける。
「あなたのような人こそ、語るべきです。夢を“無条件に信じる人”ではなく、“現実を知った上で、希望を手放さない人”だから。」
神崎の胸が、詰まった。
――そんな資格、どこにある?
そう思いつつも、胸の奥で、小さな光が灯る。
料理人は、最後にひと言、添えた。
「教師ある前に、あなた自身も、かつて“夢を抱いた人”だったことを、忘れないでください」
その言葉は、深く、静かに、刺さった。
ビーフシチューを食べ終える。
神崎は、長いため息をついた。
「……ありがとう」
立ち上がる。
扉の前で、足が止まる。
「……なあ、ひとつ、聞いていいですか」
「どうぞ」
「この店、……なんで、俺みたいな人の前に現れたんだろう」
料理人は、やさしく微笑む。
「それは――」
一瞬、言葉を区切り、
「あなたが、“もう一度、夢の話をしたい”と、心のどこかで願っていたからです」
チリン――。
扉が鳴り、外は闇に戻った。
路地には、いつも通りの静けさだけ。
店は、跡形もない。
翌日の授業。
神崎は、黒板の前に立ち、生徒たちを見渡した。
「……今日はな」
思わず、言葉が途切れる。
――また、同じ無味乾燥な授業に戻るのか?
胸に、昨夜の言葉が、やさしく灯る。
「……“公式を覚える意味”の話をしよう」
生徒たちが、少し顔を上げた。
「数学は、答えが一つしかない学問です」
チョークを走らせる。
「けど、人の人生は、答えが一つじゃない。ここで身につけるのは、“問題を考え抜く力”だ」
教室が、わずかに静まり返る。
「それは――君たちが、それぞれの夢を探す武器になる」
言い終えて、ふと気づく。
――ああ。
久しぶりに、“教師になれた気がする”。
神崎の唇が、かすかに笑った




