第4話・前編 夢を信じられなくなった男 ― 恒一 ―
黒板に、チョークの音が淡々と響く。
数学B、三角関数の公式。
教師である神崎 恒一は、黒板に向かったまま、面白味のない声で説明を続けていた。
「……この公式を使えば、求められます。例題を、ノートに写してください」
教室は、静かだった。
生徒たちの多くは、話など聞いていない。
机の下でスマホに触れる者、ノートに落書きする者、眠気と戦う者。
それを見えていないふりをするのが、もう何年も続いている。
神崎は、四十四歳。
公立高校の数学教師。
かつて、生徒たちに向かって、熱く語っていた時期があった。
「夢は、努力を裏切らない」
「目指すものがあるなら、全力でぶつかれ」
そんな言葉を、心から信じていた。
だが――
現実は、夢の話など許さなかった。
努力しても、落ちる生徒は落ちる。
志望校に入れなかった生徒の涙を、何人も見送った。
塾や家計といった現実の差を、教師は、どうすることもできない。
気づけば、“夢を応援する言葉は、無責任だ”と思うようになっていた。
授業後。
職員室のデスクに腰掛け、コーヒーを飲む。
苦い味が、口に広がる。
「あの……先生」
声をかけてきたのは、三年生の女子だった。
「将来のこと、相談したくて……」
「……今忙しい。あとで」
無意識に、冷たく突き放してしまう。
――話を聞いたところで、何が変わる?
現実は、甘くない。
だから、夢を語るのは――残酷だ。
帰り道。
神崎は、一人、夜の街を歩いていた。
仕事は嫌いではない。
教師としての責任も、感じている。
だが――昔のような“熱”は、もうない。
歩きながら、不意に思い出す。
大学生だった頃、自分は教師になる夢を追っていた。
「生徒の人生の、少しでも支えになりたい」
本気で、そう願っていたのだ。
――今の自分は、あの頃の夢に、胸を張れるのだろうか。
答えが出ないまま、路地に足を踏み入れた。
すると――
胸をくすぐる、柔らかな匂い。
シチューだ。
煮込まれた野菜とバターの香り。
「……?」
見上げると、あの店があった。
レンガ造りの小さな料理店。
神崎は、足を止めた。
「……夢を、叶える料理店……」
噂話では、知っている。
教員の間でも、都市伝説めいた話題にのぼったことがあった。
「必要な人の前にだけ、現れるらしい」
馬鹿げている。
……はずなのに、香りに抗えない。
気づけば、扉を開けていた。
チリン――。
店内には、あの料理人が立っていた。
「いらっしゃいませ」
神崎は、困惑した表情のまま、カウンターに腰を下ろす。
「……噂の店、ですか」
「そう呼ばれることも、あります」
料理人の穏やかな声。
「注文は?」
「……お任せで」
鍋に火が入る音。
包丁が、静かに響く。
料理人が、問う。
「教師、ですね」
「……どうして」
「夢を語らない目をしています」
神崎は、息をのんだ。
「……夢なんて、語るものじゃありませんよ」
苦く笑う。
「信じさせて、裏切るくらいなら、最初から、現実だけ教えた方がいい」
料理人は、否定も、肯定もしなかった。
しばらくして、皿が置かれる。
出されたのは、ビーフシチュー。
深い皿に、柔らかそうな肉。
とろりと濃いルー。
湯気が、静かに立ちのぼる。
「“静かな情熱の料理”です」
スプーンを入れ、一口。
――胸が、熱くなる。
濃厚で、深い味。
脳裏に、長い時間をかけて煮込まれてきた記憶が蘇る。
初めて教壇に立った日の緊張。
質問に必死で答える生徒たちの表情。
「先生のおかげで合格しました」と言われた日の、足がすくむほどの喜び。
「……忘れてた」
ぽつりと、声がこぼれる。
「……俺、最初は……“生徒の夢を支えたい”って、本気で思ってたんだ……」
料理人は、静かに言う。
「夢を信じられなくなったのは、あなたが“何度も、生徒の涙と向き合ってきた証”です」
神崎は、うつむく。
「……だったら、なおさら……」
「?」
「夢なんか、語れない。叶わなかった時、あいつらを、余計に傷つける」
料理人は、穏やかに首を振る。
「夢を語ることは、必ずしも、“叶う約束”をすることではありません」
そして、神崎をまっすぐ見る。
「夢を語ることは――“希望を一緒に、歩く”という意思表示です」
神崎の瞳が、揺れた。
「……俺には、もう……そんな資格、ないですよ」
料理人は、静かに答えた。
「夢を語る資格は、“完璧な成功者”にしか、ありませんか?」
スプーンを持つ指が、震える。




