エピローグ〜絵里香の日記〜
その夜、河合絵里香は自室に戻り、重厚な扉を閉めた。部屋はいつものように豪華で、クリスタルのシャンデリアが柔らかい光を落とし、金箔の装飾が壁を飾っている。
彼女はドレッシーな制服を脱ぎ、シルクのガウンに着替えてベッドサイドの机に座った。
普段なら高級な万年筆で日記を書くところだが、今日はなぜか引き出しの奥にしまっていた普通のボールペンを取り出した。手触りが少し粗く、懐かしい感じがした。
彼女は深呼吸をして、ノートを開いた。
「今日、階段裏で出会ったあの男——たー君。最初はただの変わり者だと思った。品がなくて、ダンスも微妙で、ジュースをねだってくるなんて、下賤な人間だと軽蔑さえしたわ。
でも、あの自信たっぷりの態度と、突然のダメ出し…『お前は全部お金で買ってる』って。胸が痛くなった。いつもお金で周りを動かしてきた私に、そんな言葉を投げかけるなんて、誰もしたことがなかった。
信頼売買、なんて妙な言葉。
でも、確かに心に響いたの。あの瞬間、父の会社で学んだビジネスみたいに、人間関係も『売買』なのかもしれないって思ったわ。
形のないお金——優しさや面白さで交換するもの。たー君の目が本気だったから、ただの戯言じゃなかったのよね。」
絵里香はペンを止めて、窓の外を見つめた。外は夜の闇に包まれ、遠くの街灯がぼんやりと光っている。
彼女の心の中では、今日の出来事が渦を巻いていた。
「ラーメン屋に行くなんて、普段の私なら絶対に拒否するのに…あの脂っこいスープ、普段食べないものなのに、不思議と嫌いじゃなかった。
たー君の隣で箸を持つのが、なんだか新鮮で、自由な感じがした。財閥の娘として、いつも完璧を求められてきたけど、今日だけは違う自分になれた気がするわ。
あのダンス、笑えるくらい下手だったのに、なぜか放っておけなかった。勇気?それともただの好奇心?次は、私から何か面白いことをしてみようかしら。荷物持ちじゃなく、ちゃんと対等に。」
ノートに書く文字が、少しずつ柔らかくなっていく。絵里香は小さくため息をつき、続きを綴った。
「たー君…あなたは本当に変な人。でも、私の心を揺さぶったわ。信頼売買の意味、もっと知りたくなる。明日は学校でまた会えるかな?今度は私が奢るわ。ジュースじゃなく、何か特別なものを。あなたにだけ、特別なものを。」
日記を閉じ、絵里香はベッドに横になった。ボールペンを机に戻し、シャンデリアの光が天井に反射するのを眺めながら、微笑んだ。今日の出会いが、彼女の日常に小さな変化をもたらした。
財閥令嬢としてのプライドと、新たな好奇心が交錯する中、眠りにつく。明日が、少し楽しみになった。




