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第七話

飴色の陽光とねっとりと体にまとわりつく暑さの中を、片は一人で家路をたどる。

額から吹きだした汗がいく筋も頬を伝っていたが、彼はそれをぬぐうことなく足早に

歩き続けた。

「丈一郎君」

ふいに馬鹿にしたような呼びかけと共に、

前方に三人のクラスメイトが立ちふさがる。

「何?」

問い返した自分の顔はきっと怯えていたのだろう。

三人は顔を見合わせ、にんまりと笑い合った後

ほら、と一人が片のTシャツの胸元に両手を伏せた。

Tシャツの薄い布地ごしに感じる感触とじーっという嫌な音に背筋がぞわりとする。

「プレゼント」

手が放されると、そこには大きな蝉がしっかりとTシャツにしがみついていた。

「やだ、やだやだ、取ってーーーー!!」

三人が爆笑する中、片は悲鳴を上げてやみくもに走り回る。

蝉がTシャツから夕暮れの空へと飛び立つまでの僅かな時間が

永遠にも等しく感じられた。

「東京もんは弱虫だなあ、蝉がそんなに怖いんか」

路上に座り込んでしまった片をひとしきり笑った後、三人は駆け去っていく。

その足音が聞こえなくなった頃、

片の心中に猛烈な悔しさが湧きあがってきた。

「嫌だ、もう嫌だ」

叫びながら片は駆けだす。

どうして、虫が嫌いというだけで、

東京から来たと言うだけで馬鹿にされなければならない。

息を切らしながら自宅でもある村の診療所に辿りつくと、

住居の方ではなく診療所の古くきしむ扉を押した。

今の時間、父がいるのはこちらの方だ。

いつもは患者でごった返しているはずの待合室は、しんと静まり返っていた。

「お父さん、もう嫌だ。東京に帰ろうよ」

それを疑問に思う余裕もなく、片は叫びながら診察室の扉を乱暴に開ける。

「おとうさ……!!」

その瞬間目に飛び込んできたのは、飴色の陽光に照らされ

白衣の裾をまとわりつかせながら宙空でふらふらと揺れる二本の足だった。


                ※


じーっという耳障りな鳴き声に、片ははっとして目を開ける。

煌々と輝く蛍光灯に誘われたのか、大きな蝉が一匹、

網戸にした医局の窓に張り付いていた。

片は舌打ちすると、机の上に置いてあった

分厚い医療品のカタログを丸めて窓に叩きつける。

蝉はふらふらと闇の中に消えていき、片はため息をつくと時計を見上げた。

深夜0時まであと15分。座ったままうたた寝をしていた時間は10分程か。

短い間によくここまでの悪夢を見たものだと

苦笑しながら生ぬるくなってしまったコーヒーを啜った。

多分、蝉のせいだろう。夏が来てその声を聞く度に、

思い出したくもない記憶は必ず蘇ってくる。

医局に誰もいなくて良かったと、片はもう一度ため息をついた。

今日の当直は自分と別当医師だが、彼は急患が来たら呼べ、と

整形外科の医局へ引き上げてしまっていた。

中村が病院のトイレで再度自殺を図って半月が過ぎている。

あの後、中村は内科病棟に一度移動になった上で

精神科のある病院へ転院していき、

片の「生意気、傲慢」という評判にもう一つ「冷血漢」が加わった。

名付け親は言うまでもない。

もはや小鉢医師ですら、必要最低限のことしか彼と喋ろうとはせず

別当医師や看護師達に至っては、挨拶さえ返してくれない。

ここまで嫌われるといっそすがすがしい、と

片はまた屋上まで話をしに来てくれた小鉢女医と、

彼女から話が伝わったのか、電話をかけてきた姉にうそぶいて同じ言葉を返された。

「なに強がっているのよ、この馬鹿」

さすが友人同士、と感心するべきだろうか。

その後、ため息交じりに続けられた二人の説教もまたよく似たものだった。

「叱咤というのは相手が心身ともに健康であって、初めて受け入れられるものよ」

煙草をくゆらせながら小鉢女医はそう言った。

「たとえ正論だったとしても、あんたがやったことは

断崖絶壁に立った患者さんの背中を突き飛ばしたようなもんや」

電話越しでも渋い顔が容易に想像できるような声で、姉は語る。

「あんた、いくら外科医というても手技の腕だけ磨けばいいってもんやないで」

「片君」

ふっと紫煙を口から吐き出し、小鉢女医は片をじっと見つめて言った。

「君は外科医、いえ、医者という仕事を何か勘違いしてない?」

二人の言葉を交互に思い出すと、ちりちりと胸底を焦がすような苛立ちを覚える。

違う、俺は……ただ……。

突然鳴りだした電話が片の思考を中断させた。

受け入れ要請ではない、病院の代表にかかってきた電話がここに転送されてきたのだ。

しばらく放置していたが、電話が鳴りやむ気配はない。

仕方なく片は受話器を取った。

「もしもし、坪内総合病院救急外来科です」

不機嫌極まりない声に返事はない。

悪戯か。苛立ちのままに受話器を叩きつけようとしたその時

「……あの」

遠慮がちの小さな声が、ぽそりと聞こえた。

「もしもし、大丈夫ですか、もしもし」

片は慌てて再度受話器を耳に当てる。

まさか、急に具合が悪くなってとっさに病院に電話したのはいいが、

声が出ない状況になっているんじゃないだろうな。

「坪内総合病院、ですよね」

「はい、そうです」

「お医者さん、何人くらい勤めてるんですか?」

「はあ?」

片は思わず問い返した。電話の向こうの相手は一体何が言いたいのだろう。

「何人くらい勤めているんですか?」

もう一度問いが繰り返される。

「さあ、詳しくは判りません。悪戯ですか、切りますよ」

「まって、待ってくんださい」

慌てた声には聞き覚えのある独特の訛りがあり、片はぎくりと身体をこわばらせた。

「そちらに勤めているお医者さんをどなたか、村に、

仙沢村に派遣して頂けませんか」

不可視の氷の手に心臓を鷲掴みにされたような心地がして、

片は反射的に電話を叩きつけるように切った。


                     ※


「よう、丈一郎君。ひっさしぶりだなあー」

慣れ慣れしく名前を呼んで、バンバンと背中を叩く相手を

片は強張った笑みで見返した。

口元に強いひげが生え、体つきもがっちりとした固太りになっていたが

その顔つきには確かに片を東京もんと嘲り、虫をけしかけて笑っていた

意地の悪いクラスメイトの面影があった。

「どうした、そんな顔して。わかったあ、仕事が忙しいんだろう。

同じ県内と言っても若槻市は栄って(さかって)いるからなあ、

病院にも患者があふれてるんだろう。まあ、とりあえず一杯やろうや」

片の心中などまるっきり気付かぬ様子で、かつてのクラスメイトは上機嫌で

居酒屋の看板を指差す。

「そんな所で話なんかできるのか、ええと」

「何だよ、昨日改めて名乗っただろう。山田、山田雄一。もう忘れたのか

ボケるには早すぎるぞ、さあ、いこういこう」

忘れたんじゃなくて覚えたくないだけだ。と片は胸中で吐き捨てたが

それでも山田の後に続いて居酒屋のドアをくぐった。

「いやあ、世の中神や仏は確かにいるんだ。藁をもすがる思いでかけた

電話を丈一郎君が取ってくれるなんて」

生ビールの中ジョッキをあおりながら相変わらず上機嫌で喋り続ける

山田の言葉を、片は複雑な思いで聞いていた。

昨夜、仙沢村の名前を聞いた瞬間に切った電話は、

一分もしないうちに再びかかってきた。

鳴り続ける電話をさすがに不審に思ったらしく、医局を覗き込んだ看護師は

恐ろしい物でも見るような眼つきで電話を眺める片に

「先生、いるのなら電話を取って下さいよ。

急用かもしれないじゃないですか」

と冷たく言い放つ。

こんな時にかぎって急患の受け入れ要請がくる気配は欠片もない。

渋々電話を取った片は、相変わらず医師派遣をと

いい続ける相手をなんとかなだめ、

明日改めてかけ直してくれるように説得した。

「じゃあせめて、せめて先生のお名前を教えてくれませんか」

まるで壊れたテープレコーダーのように同じ言葉を繰り返す相手に

片はうんざりする、こんな輩に名前など教えたくないが、

このままではいつまでたっても電話を切りそうにない。

「……片、丈一郎です」

「片……、片と言うと仙沢小学校に4年生の時に

東京から転校してきた丈一郎君か?

診療所の自殺した先生のところの」

今、この瞬間にICUに入院中の患者が一人残らず全快したとしても、

これほど驚くことはないだろうと片は思った。

「はい」

と答える自分の声が他人の様に遠くから聞こえた。

「本当に丈一郎君か、なんて運がいいんだ。俺だよ、覚えているかなあ。

同じ学年だった山田雄一。ほら、よく一緒に遊んだだろう、放課後に」

片の脳裏に蘇るのは先ほどの悪夢。

片の胸元に蝉を押し付けたクラスメイトの名前が確か山田だった。

凍りついたように固まった片の耳に、丁度いい、明日会えないか。

20時に若槻駅の前でとまくしたてる山田の声が流れ込んでくる。

一方的に交わされた約束、守る義理など少しもないのに片は当直明けの次の日、

うわの空で勤めて、何度も小鉢科長に注意された勤務が終えると若槻駅に向かい、

そして二度と会いたくないと思っていたはずの級友と再会した。

「で、いつ村に来てくれるんだ?」

「おい、勝手に決めるな」

べらべらと喋り続ける山田の話を黙って聞いていた片だったが、

彼の中で勝手に自分が村に行く事が決定事項になっているようだと判ると、

慌てて口を挟んだ。

「え、だってその為に来てくれたんじゃないのか」

きょとんとした山田に片は

「医師は自分で好き勝手に職場を移れないんだ」

と噛んで含めるように説明を始める。

医師のほとんどが大学を卒業と同時にどこかの「医局」に入局する。

一応建前では個人の自由意思でとなっているが

医局に入局しない医師はよほどの変わりものか、問題があるとみなされてしまう為、

医局入局率はほぼ100%に近い。

そして、医師の人事権はこの医局が握っているのだ。

頂点に立つ教授がどこそこへいけ、といえば、それがたとえどんな場所であろうと

従わざるを得ないし、逆に医師個人がここにいきたいと申し出ても、

教授が首をたてにふらなければ希望がかなう事は難しい。

これが、戦後から今までほぼ日本全国に

医師をまんべんなく供給できたシステムである。

「じゃあ、何処に申し出れば村に医師を派遣してくれるんだ」

「さあ、役所の担当部署に申し出るしかないんじゃないか」

「そんなのとっくにやってるさ」

山田は乱暴にジョッキをテーブルに叩きつけた。

「何度足を運んでも「申請中」の一点張り、

なあ丈一郎君の方からその、教授に直接頼めないか」

「馬鹿言うな。俺はまだ大学を出て二年目の研修医だ。

教授にものを頼める立場じゃない」

「じゃ、じゃあ。名前だけでもかしてくれよ。

ほら、名前だけの会社役員とかよくいるだろう」

「できるか、そんな事」

今度は片が手にしていたウーロン茶のグラスを乱暴にテーブルに置く。

山田はビールを勧めたが、車だからと断っていたのだ。

研修医の分際で名義貸しなどした事がばれれば、

今度は懲罰人事どころではすまない。

「なんだよ」

山田の顔が怒りに歪んだ。よそ者を執拗に苛めていた意地の悪い小学生の頃と

その表情は不思議と全く変わりがなかった。

「元はと言えばお前の父親が自殺したから悪いんだろう」

その言葉は不可視の刃となり、片の身ではなく心を容赦なく切り裂いた。

「なん、だと」

「お前の父親が自殺して以来、村には碌な医者が来なくなった。しかも

皆1年と持たないんだ。そしてついに国道開通を理由に村から医師が消えた」

「それの何処が悪いんだ」

村に医師がいなくなっても、

若槻市までの交通の便が整備されれば問題はないはずだ。

「近いと言っても、歩いていける距離じゃない。

年寄りには行くだけで一仕事だ。

それを理由に近藤の一族は、県が提示したダム建設案に是と言ったんだ。

立ち退き料をもらって若槻市に移りすもうってな」

「ダムって……仙沢村が水の底に沈むのか」

「ああ」

忌々しそうに赤黒い顔で山田は頷いた。

「いくら人口が減って高齢化がすすもうと、

あそこは俺たちの生まれ故郷で

御先祖様が必死になって開墾した土地だ。

それをいくら金を積まれたからと言って

平気で水底にしずめようといいだすなんて、

近藤は性根が腐ってる」

片の見知らぬ人間への呪詛を吐きながら、

山田はジョッキに残っていたビールを飲み干す。

「だから村には医師が必要なんだ。医師さえ来てくれれば村の年寄りは

若槻市まで苦労して出かけなくて済む。

村に不自由なく住み続けられる。だから丈一郎。

お前来てくれよ。父親のしでかした事の責任を取ってくれ」

「ふざけるな」

怒りに声を震わせながら、片は持っていたカバンから

一冊の分厚い皮張りの冊子を取り出す。

父親が死の直前までつけていた、日記帳。

「どうして父親が自殺したか、ここに全部書いてある。読め」

目の前に叩きつけられた日記帳を山田は怪訝な顔をして取り上げる。

「16年前の日付からだ」

片の言葉に従って山田はページをめくる。やがて

「これは……」

呻くような呟きが、彼の口から漏れた。


続く







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