第六話
十日後、件の農薬を飲んで自殺を図った患者は話が出来る程度まで回復した。
「片君、心療内科の羽場先生が
中村さんを診察するそうだが、勉強の為に同席するかい?」
小鉢科長にそう言われて片は頷く。
この診察の結果しだいでその患者ーー中村は
内科病棟に移動になるか、それとも精神科のある
他の病院に転院になるかが決まると言う。
羽場医師は半分ほど白髪になった髪を
やや長めに伸ばした初老の医師だった。
小太りな体躯と救急外来科にはいるとひときわ目立つ、
ゆったりとした足取りは片に以前、
テレビで見たアフリカの草原で草をはむヌーを連想させた。
ちょうど空室だったICU特別室、通称ヘブンズドアに中村のベッドを移して
羽場医師の診察が始まった。
「私は定年後すぐから、住んでいる地区の町内会長を引き受けていました」
名前や年齢、さらに今日の天気や体調などの
何気ない話を羽場医師と交わしていた中村は
やがてとつとつと自らの事を語りだした。
若槻市はここ数年で宅地開発が進み
、他所から新しい住人たちの流入が盛んになってきている。
中村の住む地区も例外でなかった様だ。
「新しく入ってきた方全てがそうだとはいいませんが、
中にはここのルールになじめない方もいらっしゃるようで」
新しい住人と古い住人との間にトラブルが起きる度に、
中村は調停役として駆り出されていたらしい。
「百貨店に勤めていましてね。長年お客様係も務めていたので、
苦情処理には自信があったのですが」
それでも時間を問わず頻繁に持ち込まれるトラブルは、
解消しきれぬストレスとなって中村の心身を蝕んでいったのだろう。
そして、半年前彼は脳梗塞を起こした。
「こちらの病院にお世話になってから、
大分体は動くようになりましたが、それでも
以前と同じ、と言う風にはいきません。
私は退院したら町内会長を辞めようと決心していました」
だが、退院していた中村を待っていたのは、
こじれにこじれたご近所トラブル。
「やめる、と言い出せる雰囲気ではありませんでした」
その時の事を思い出したのか、中村の表情が暗く沈む。
最初は些細なきっかけで始まったそれは、
中村が介入したころにはすでに複数の家を巻き込んだ
中傷合戦にまで膨れ上がっていた。
「まいりましたよ、話し合いの場をもうけても
お互いの悪口を言い合うだけで……。
最後には旦那さん同士が殴り合いまではじめるんですから」
そのうち、中傷合戦は車や門扉を傷つけるなどの嫌がらせに発展し、そ
うなると地区の他の住民の非難は
もめごとを解決できない中村にも向けられるようになった。
「そのうち、呼び鈴や電話の音がする度に怖くなりましてね。外に出たら出たで、
道を歩く人が皆私を非難しているような気がして」
と中村は本人は笑顔だと思っているらしい、
唇が引きつれた奇妙な表情を浮かべた。
羽場医師は枕元の椅子に座って、
片は腕を組んで壁に寄りかかり口を挟むことなく中村の話を聞き続ける。
「相変わらずトラブルはちっとも解決しないし、で、ふと思ったんです。
私が死んだら、この人たちは責任を感じて争いをやめてくれるんじゃないかって。
そう考え始めたら、自殺が唯一の解決法のように思えてきて……」
「それで自殺を図ったんですね」
初めて口を挟んだ羽場医師に中村は小さく頷く、とその肩が小さく震えだした。
「私が悪いのです、もう少し私がしっかりしていればトラブルも解決しただろうし」
声を震わせてうわ言のように中村は呟き続ける。
「そんなことはありませんよ。よくがんばりましたね」
それを優しく慰める羽場医師。その両者を片は怒りにも似た表情で見つめていた。
※
「ったく馬鹿馬鹿しいにも程がある」
医局に戻るなり片が乱暴に吐き捨てた。
「何が、かな片君」
と訊ね返した小鉢科長の顔をイライラと睨みつけて、片は再度口を開く。
「中村さんの自殺に理由ですよ。自分が死ねば争いが解決すると思い込むなんて。
大体嫌がらせまでするような人間はそんなことぐらいで改心しませんよ」
「羽場先生からおおよその経過は聞いたが……、恐らく責任感が
強い方なんだろうな。お気の毒に」
「責任感が強い?ちがいますよ、自己犠牲の快感に酔っているだけです」
「片君、少し口を慎みなさい」
小鉢科長の口調が強くなった。だが、片はそれを無視して話を続ける。
「小鉢科長だって御覧になったでしょう、病状を説明した時の
奥さんの顔を。本当に責任感の強い人だったらまずトラブルが
持ち込まれた時に、第三者に解決を依頼して自分は身を引くべきだったんだ。
脳こうそくを患って、会長職を続けられないと自身で判っていたんだし、
町内会長なんて名誉職にすぎないのですから。それをなし崩しに
引き受けてしまったということは、見栄もあったんでしょうよ」
「だが……」
「それを手に負えなくなったからと、自殺でカタをつけようとするなんて
残された家族はどうすればいいんですかね。脳梗塞の手術をした
白鳳大学病院もいい面の皮だ。せっかく助けた患者が自分で命を絶とうと
したなんて、笑い話にもなりはしない」
「いい加減にしたまえ。ご家族かご本人の耳に入ったらどうするつもりだ」
その言葉に片は歪んだ笑みを浮かべる。
「聞かれたっていいと思いますがね。俺は間違った事をいっている
つもりはありません。なんだったら中村さんの目の前で同じことを
繰り返してもいい」
「片君」
小鉢は一瞬だけ怒りの表情を浮かべた後、直ぐにそれを消し、代わりに
諭す様な口調で話しだす。その様子が片の心を逆なでした。
「確かに君のいう事も一理あるかもしれない。だが、医師が患者を
責めてどうする」
「じゃあ、科長は患者を貴方は悪くない、と甘やかせと?
そんな事をすれば、患者は生涯自分の犯した過ちに気付かない」
「そんな事は言っていない」
小鉢は苦い表情で首を振った。
「いいか片君。中村さんの自殺を自己満足だと君が思い込むのは自由だ。
だがそれは君の主観にすぎず、それで患者を責めることは筋違いだ。
君は手技だけを見れば研修医のレベルを超えている。だけどね、もう少し
自分を客観的に見つめて、感情をコントロールしていかないと、
そのうち取り返しのつかない事をおこすよ」
その言葉に、片は頭が真っ白になるほどの怒りを覚えた。
「……現実を受け入れられないあんたに、言われたくない」
「なに?」
怪訝な表情で問い返す小鉢科長に、片は絞り出すような声で続ける。
「いくらここで他人の命を助け続けても、お子さんたちは
生きかえりませんよ」
小鉢の表情が、いや、全身が凍りついたように固まる。
それを見た片の心の奥底に、また昏い喜びが広がった。
「大学の図書館で調べものをしていたら、
偶然古い新聞記事を見つけたんですよ。
H大震災で最も早く怪我をした被災者の受け入れ態勢を整えた病院の医師が
科長だったんですね。他人の怪我を治療していたら、自分の子供達が自宅で
死んでしまっていた。不幸ですね。同情します」
そう思っていないことは丸わかりな口調で、しかも薄笑いさえ浮かべながら
片は言う。あの日、インターネットで見つけたのは、
震災で自分の子供二人を失いながら
被災者の治療を続けた小鉢医師を賞賛する記事だった。
「さぞ悲しみも深い事でしょう。しかし、それを仕事で紛らわすのは
いかがなものかと思います。科長の度を越した仕事への貢献は、いずれこの科の
破綻をも招きかねない」
「……」
小鉢は片を無言で睨みつけた。彼が握り締めた拳は皮膚が白くなり、
微かに震えてすらいる。
それが爆発しそうな怒りの前触れのようで、
それを見た片の背筋を恐怖と高揚、二つの相反する感情が同時に
駆けあがっていった。無言の時が流れる。
「俺、間違っていますか」
ついにしびれを切らした片が問いかける。
小鉢はそれに答えることなく、部屋を出ていった。
……逃げたか……
怒鳴られたら負けじと反論してやろうと身構えた分だけ、片は虚脱した。
崩れるように椅子に腰をおろし、そのままどのくらいたっただろう。
廊下のほうがやけに騒がしくなり、片は立ち上がった。
外に出ると、トイレの前に白衣を着た集団が
慌ただしく動き回っているのが見える。
「何があった」
片が駆けつけると、ぴたりと騒ぎが収まる。そして
「君は来るな。患者さんが興奮する」
集団の中心にいた羽場医師が怒鳴り、それを取り囲んでいた
看護師が一斉に恐ろしい表情でこっちを見た。
「行くぞ」
だがそれも一瞬、羽場医師の掛け声とともに、看護師達が一斉に動き出す。
その手が誰かが乗ったストレッチャーにかかっている事に片はようやく気付いた。
「片先生」
訳も判らずに、去っていく白衣の集団を見つめていた片がかけられた声に振り返ると
そこに立っていたのは市川看護師だった。
「市川さん、なにが……」
「最低!!」
叫び声と共に、ばしゃりと冷たい物が全身を濡らす感覚がある。
市川が手にしていた生理用食塩水を自分にぶちまけたのだと
理解するまで、しばらく時間がかかった。
「いっくら医局の中でも、あんな風に患者さんをけなす事ないじゃないですか。
中村さん、トイレに行く途中で聞いちゃったんですよ。先生の言葉。
もう一回死ぬって騒いで、鎮静させるまでが大変だったんです。
先生は小鉢先生につっかかるのに夢中で知らなかったみたいですけど」
「……それは」
「小鉢先生への言葉だって酷すぎます」
「でも、事実だろう」
掠れた声でようやく反論したとたん、
片の胸に空っぽになった生理用食塩水のボトルが投げつけられる。
「冷血漢!!早く白鳳大学に帰って下さい!!」
そう叫んで駆け去っていく市川看護師の後ろ姿が消えるまで、
片はその場から動くことが出来なかった。
続く。