第五話
「若槻消防署ですが、患者の受け入れをお願いします」
救急外来の戦闘開始は、いつも一本の無線電話から始まる。
「患者の性別と年齢、容体を教えてください」
「69歳男性、薬物中毒の疑いです。意識レベルは1-3。
見当障害があるも、かろうじて会話は可能です」
片が受けた電話を背後で聞いていた小鉢科長が
「受けて」
と短く指示を下した。
「了解です、搬送をお願いします」
片は受話器を置くと、小鉢科長が何も言わないうちに医局を出た。
到着した救急車を迎えるのは、研修医の仕事だ。
時刻は一六時三〇分、搬送口の自動ドアをくぐると
外は鮮やかな夕焼けが空一面に広がっていた。
片は迷信深くもないしゲン担ぎなどもしないたちだが、毒々しいまでの
朱色に染め上げられた空を見ていると、これから運ばれてくる患者の運命を
暗示しているようで、重苦しい気分になってくる。
二次救急は、救命救急最後の砦と言われる三次救急ほどではないが
搬送されてくる患者の何割かは治療のかいなく亡くなってしまう。
心電図のモニターに描きだされる波線が平坦な直線となり、小鉢科長が
治療の終了を告げる。何度経験してもその瞬間は思わず歯ぎしりをしてしまうほど悔しく
逆に止まっていた心臓が動き出し、
三途の川を渡りかけていた患者がこの世に舞い戻ってきた時に感じる嬉しさは、
他の何ものにも代えがたい。
大学病院の外科手術が何度も練習を繰り返し、
完璧な仕上がりで聴衆に披露されるオーケストラの演奏だとすれば、
ここの救急外来は、酒場で演奏されるジャズだ。
基本の譜面はあるが客の様子を見て、
演者は自分の感性で曲を自在にアレンジしていく。
そして、オーケストラの奏者になる予定だった、
自分はいつのまにかジャズに魅せられ始めている。
そこまで考えて、片は苦く笑った。
あと二カ月で去る職場にそんな感情を抱いてどうする。
しかも自分のせいでそこの雰囲気は最悪になっているというのに。
救急車は中々到着しない。背後で自動ドアの開く音がした。
市川看護師が、首筋の後ろで一つにくくった
美しい黒髪を初夏の風になびかせながら片の隣に立つ。
「……そろそろ、意地を張るのはやめたらどうですか」
呟かれた声はまるで独り言のようで、
片は一瞬それが自分にむけられているとは判らなかった。
黙っていると、市川看護師の声が少し大きくなる。
「このままじゃ、片先生が辛いだけだと思うんです」
片が坪内総合病院に着任してほぼ一カ月がすぎた。
患者を独断で転院させた一件以来、救急外来のスタッフは
必要最低限の事以外片と会話を交わす事はない。
片の方も自分の態度を改めようとはせず、相変わらず
事あるごとに小鉢科長に反発しているため、
スタッフの彼への心証は悪化するばかりだ。
早く白鳳大学に戻ってくれないかしら、と
わざと片に聞こえるように呟く看護師まで出るほどである。
「俺は別に意地を張っているつもりはない」
やはり独り言のように、片は答えた。
「それに間違った事をしているとも思っていない」
その言葉に市川看護師が悲しげにため息をつく。その時
朱色に照り輝く世界の中に赤色灯を点滅させた純白の車体が現われた。
「おしゃべりは終わりだ」
片は目を細めて近づいてくる救急車を睨みつける。
高揚感が瞬時に全身を駆け巡るのを感じる。
さあ、こいよ。あの世に行きかけている患者さん。
襟首つかんでこの世に引き戻してやる。
救急車が搬送口に横づけになると同時に、後部の扉が開く。
「左右の瞳孔が縮小しているな」
「搬送中より血中酸素濃度低下」
ストレッチャーに乗っているのは白髪頭の男性。
救急隊に助けられながら泣きそうな顔で下りてきた
老婦人も同じ位の年頃だ、多分夫婦だろう。
「到着時、これが患者の脇に転がっていました」
ペンライトで素早く瞳の反射を調べる片に、
救急隊が小さな茶色の瓶を差し出す。
除草剤のラベルが貼られたそれを片は白衣のポケットに突っ込むと、
いくぞ、とストレッチャーを押し始めた。
「血中コリンエステラーゼも大分低下しているな。
もしもし、聞こえますか。返事をしてください」
処置室に運ばれた患者は速攻で血圧や脈がはかられ、血液検査が行われる。
待ち構えていた小鉢医師の問いかけに患者は薄目を開け、
はい。とかここはとか、不明瞭な声で返事をする。
腕に巻かれた血圧計が不快なのか外そうとするが、
左手の動きが右手に比べて明らかに鈍い。
「……脳疾患の疑いもあり、か」
「小鉢先生、この患者さんのカルテがありました。
半年前に脳梗塞を起こして白鳳大学病院で手術を
受けた後、こちらにリハビリの為に転院し四か月前に退院されています」
「自宅で転倒していた患者の脇に農薬の瓶が転がっていました。
奥さんに聞いたところガーデニング用に購入して
まだ封を切っていなかったそうですから、
飲んだ量は瓶を見れば判るでしょう、片先生に渡しておきました」
市川看護師と、救急隊員の報告に小鉢は頷くと片に向かって手を伸ばす。
片が黙って手渡した小瓶を小鉢は蛍光灯に透かした。
「ほぼ空だな。飲用量は100mlというところか。有機リン中毒で間違いないだろう
マーゲンチューブで活性炭を強制内服。
バルーンカテーテルも挿入、抹消ルートから輸液開始」
小鉢の指示で白衣の一団が一斉に患者に群がる。
十数分後、患者の口から活性炭が吐き出されたものの
容体は大分落ち着きを取り戻した。
「さてこれで諸検査をして、片君、これからこの患者をどう治療する」
小鉢からの問いかけに、片は一瞬考え込む。
その様子を看護師達が手を動かしながら好意的とは程遠い眼差しで見つめている。
「解毒剤としてパム20mlを2アンプル、
時間20mlの速度でシリンジポンプで精密持続点滴。
並行して硫酸アトロピン1mlを20アンプル、
時間0.5mlから同じくシリンポンプで精密持続点滴そして様子を見ます」
「ふむ、ほぼ正解、いいだろうそのオーダーで治療を開始しよう、ICUの方に移して
奥さんには病状を説明して」
どこか悔しそうな看護師たちに、片はにやりとした笑みを向けた後
朦朧とした患者に向き直る。
……あんたは不本意かもしれないが、そう簡単に死なせやしない……
と心中で呟きながら。
※
「どうだ」
二時間後ICUに患者の様子を見に来た片は、
ベッドの脇で真剣なまなざしでシリンジポンプのメモリを
確認していた市川看護師に短く尋ねた。
「今のところ落ち着いていますよ」
「そうか。面倒な点滴の指示を出して申し訳ないが、よろしく頼む」
市川が驚いたような表情をしたので、片は
「どうした?」
と再度尋ねる。
「あ、いえ、片先生がよろしく頼むなんて言うなんて思っていなかったので」
「なんだよそれは。俺はそんなに傲慢に見えるのか」
遠慮がちに頷いた市川に、片は気まり悪そうにぐしゃぐしゃと前髪をかきあげた。
「ああ、確かに俺はここの皆さんが敬愛する小鉢先生に事あるごとに盾つく
生意気な研修医だよ。だけどな、人としての最低限の礼儀まで知らない訳じゃない」
その言葉に市川はもう一度驚いたように軽く目を見開いた後、
「安心しました」
と小さく笑いながら言った。片が首をかしげると、
「私、昔から直感が鋭くて人の第一印象を外したことがないんです。でも片先生は
外しちゃったみたいで、ひそかにがっかりしていたんですよ」
と市川は続ける。
「へえ、俺の第一印象ってどんな感じだった?」
「不器用な人」
「……」
どう答えていいか判らず片は黙り込んだ。
「感情を言葉と態度で表すのが下手そうだなあって思ったんです。
憎まれ役になっちゃうこと、多かったんじゃないですか?」
市川の言葉は乾いた土の上に降り注ぐ恵雨のように、片の心に染み込んだ。
ふいに目の奥が熱くなった。
久しく感じていなかった涙が出そうな感覚に片は戸惑う。
「……さあな。安心した所で引き続きよろしく頼む。
命に別状はないだろうけど
自殺未遂だから、何をするか判らない」
それを白衣のポケットに突っ込んだ手をきつく握りしめる事で誤魔化しながら
片は努めてぶっきらぼうな口調で言った。
「判りました。先生、安心したついでに一つ言わせてもらっていいですか」
「?」
「自殺未遂で何をするか判らないと思うんだったら、
家族に抑制同意を取って下さいね。
さっきまでせん妄症状が出て、
点滴や尿道カテーテルを引き抜こうとして大変だったんです」
「悪かった、早速家族に同意を……」
「もうとりましたよ、ミトン抑制しているでしょう。
ついでにマーゲンチューブを抜いてもいいですか
患者さん、意識があるので苦しそうで」
慌てて部屋を出ていこうとした片に、市川は今度は苦笑しながら告げた。
見れば確かに、患者の両手には白く柔らかい布製のミトンがはめられている。
「ああ、いいよ」
市川の手がするりと細く透明なチューブを患者から抜き取る、
とたんくぐもった嫌な音が患者の喉奥から漏れた。
「離れろ」
片が市川を突き飛ばした半瞬の後、患者の口から勢いよく赤黒い活性炭交じりの
血液が吹きだされる。
「片先生」
「小鉢科長を呼べ、早く」
油性マジックのような凄まじい匂いのそれを片は頭からかぶりながらも、
患者の上にかがみこんで容態を診る。
駆けつけた小鉢は、片の姿を一目見た瞬間に何が起きたのか察したらしい。
手振りで片を患者から遠ざけると、患者を手早く診ると
新しいマーゲンチューブを挿入した。
「仰臥位だったから、誤嚥したんだろう。
マーゲンチューブを抜くのが早すぎたな。片君の指示か」
「いえ、私が」
「俺の指示です。すいません配慮が足りませんでした」
市川の言葉を遮って、片は髪の毛や白衣に
べったりと患者の吐血を張り付けたまま
謝罪する。その様子に小鉢は意外そうな顔をしたものの、
「意識レベルが落ちた。
一次的な物だと思うけど目を離さないで、意識が回復したら
僕を呼んで。片君はすぐにそれを洗い落としなさい。
あまり早まったことはしないように」
とだけ言って部屋を出ていった。
「すいません」
「抜けと言ったのは俺だ、市川さんが謝ることじゃない」
深く頭を下げる看護師に
、片はまたぶっきらぼうにそう言うとシャワー室に向かった。
本当は患者以外は使用禁止なのだが、
拭ったくらいではこの血は落ちそうにないので大目に見てもらう事にする。
だが、10分以上シャワーを浴びても
油性マジックのような匂いは一向に消えてはくれなかった。
馬鹿な事をしたなと自嘲しながら青いER着に着替える。
こういう日に限ってYシャツに白衣で治療に当たっていた。
多分、もう使い物にならないだろう。濡れ髪のまま医局に戻ると、
無人の室内にコーヒーの香りだけが漂っていた。
自分の机の上に湯気の立つマグカップと数枚のクッキーが置かれている。
そして添えられた「ありがとうございました」とだけ書かれたメモ用紙。
ブラックのはずなのに甘く感じるコーヒーを、
片はなぜかまた目の奥が熱くなる感覚と共に飲み干した。
続く