第四話
「片君、内科病棟に入院予定だった例の患者さんはどうした?
病棟の方から早く移動してきてほしいと催促が来ているんだが」
「ああ、あれですか?」
小鉢科長の問いに、片はかつて所属していた医局のトップ、
田村教授に向けたのと同じ
嘲るような薄笑いを浮かべて答える。
片が仙沢村への道をたどりかけた休日から7日が過ぎた、
「入院は中止になりました」
「中止になった?どういう事だ」
朝八時半の坪内総合病院救急外来科医局。
共に当直明けの医師二人は寝不足による
疲労がこびりついた顔を突き合わせていた。
ええ、と片は頷いて小鉢医師を睨みつけたまま、
出来の悪い生徒にことさら丁寧に説明をする教師のような口調で話を続ける。
「患者は肺気腫によるCOPD(慢性呼吸不全)で
白鳳大学病院がかかりつけだったにもかかわらず
そこの救急救命センターは受け入れを断った。
救急隊が現場到着時、患者はCPA(心肺停止)状態、
救急隊によりCPR(心肺蘇生)を受けながら当院に到着」
「そしてエプネフリンを投与しながらCPRを続行し、
患者は心肺回復が見られたが自発呼吸微弱の為
気管内挿管し、酸素を流しつつジャクソンリースにて
用手換気実施。その間内科の方では
レスピエーター(人工呼吸器)を用意して患者の受け入れ態勢を整えた」
横柄な口調で昨日の深夜搬送されてきた
患者の容態や治療内容を語り続ける研修医に
流石に苛立ちの表情を浮かべた小鉢がその言葉を途中から引き継ぐ。
「そこまではいい。僕は片君より年上だが
数時間前に行った治療内容を忘れるほど
もうろくはしていないつもりだ。
なぜ入院が中止なんだ。患者はどこに行った」
「白鳳大学病院です」
「はい?」
ぽかんとした表情で聞き返した小鉢に、
片は馬鹿にしたようなため息をつきながら
もう一度同じ言葉を繰り返す。
「救急救命センターに大学の同期が研修中なんです。
昨日は丁度当直だったようで
明けがた大学病院へ電話したらそいつが出たんから、
自分の所の患者はそっちで引き受けろと怒鳴りつけたんですよ。
担当医が不在だとか散々渋ってましたが、蘇生したと伝えたら
掌を返したように受け入れを承諾しました。
患者の家族もかかりつけの病院への入院を希望していたので、
救急車を呼んで俺が付き添って用手換気をしながら大学病院へ
再搬送をしたんです」
「……誰の許可を得てそれを行った」
小鉢医師の口調に怒りが籠った。だが、それでも片の薄笑いは消えない。
「おや、俺は報告しましたよ。ただ、科長は大変お疲れだったようで
宿直室のベッドに横になったまま目も開けようとなさいませんでしたが」
「おい、それは本当か片」
口を挟んだのは、二人が言いあっている最中に
医局に戻ってきた別当医師だ。
「お前確か俺に小鉢科長の許可を得たといったな。嘘をついたのか」
「嘘じゃありませんよ、よろしいですかと尋ねた時に
科長は確かに頷いておられました。
ただ、俺の言葉になのか、御自身がご覧になった
夢なのにかは判りませんがね」
「片、それは嘘をついたのと同じだ。
研修医の分際で勝手に患者を転院させるなんて
思い上りにもほどがある」
「思い上り?俺は最善の方法を取ったまでです」
片は微塵もひるむことなく言い返す。
「この一件で誰が損をしたんですか。
俺達は患者を助け、大学病院に貸しを作った
家族と患者はカルテもあり、病状も把握している
かかりつけ医に診てもらえて安心できる。
内科病棟もめんどくさいレスピエーターの管理をしなくて済む。
強いて言えば、二度
患者を搬送しなければならなかった救急隊がちょっと可哀想だったかな」
「そう言う問題か。貴様」
ついに激高した別当が片の白衣の襟元を掴む。
ばん、と鈍い音が狭い医局いっぱいに響き渡った。
「やめたまえ、二人共」
掌を思い切りスチールの机に叩きつけて、二人の動きを止めた小鉢医師は
片が初めて見る厳しい表情で再度口を開く。
「片君、搬送中患者の容態は安定していたのか?」
「もちろんです。そして白鳳大学到着後すぐにICUに入れられ、
レスピエーターを挿入されました」
よどみない片の答えに小鉢は頷いた。
「ならばいい、この一件はこれで終わりだ」
「おい、小鉢。いいのかそれで」
不服そうな別当医師を宥めるように小鉢医師は
「片君の言うとおり、この件で被害をこうむった人間は誰もいない。
それに片君の報告に気付かずに眠っていた僕にも責任はある」
と説明を続けた。それに不承不承別当医師は頷く。
「科長がそれでいいと言うのなら、俺はもう何も言えない
だがな、いくら最善の方法とはいえルールを無視して勝手な暴走を
続けるような奴と一緒に仕事をするのは俺はごめんこうむりたいね。
さっさと白鳳大学に連絡してこのくそ生意気なひよっこを回収して、
有能でなくていいからチームワークを乱さん医師を改めて派遣してもらってくれ」
足音も荒く別当医師が医局から退出すると、小鉢はため息をついて
改めて片の方に向き直った。
「どうして、起こさなかった」
「起こしましたよ、何度もね。だけど科長は起きてくださらなかった。
まあ、三日連続で当直なんて無茶をやっていれば当然だと思いますが」
片の指摘に小鉢の顔に苦渋の色が広がる。
どうやら痛いところをつかれたらしい。
その様子を見た片の心の奥底に、昏い喜びがジワリと広がった。
「御自身の体力に自信があるのは結構なことだと思いますが、
あまり過信なさるのもどうかと思います。これが患者搬送ではなく
急変だったらどうなっていた事やら」
「……以後注意する」
しばしの沈黙の後、絞り出すような声でそう言った小鉢医師に
片はそう願います。とそっけなく答えて医局を出た。
とたんに突き刺さってくる幾つもの攻撃的な視線。
朝の申し送りを終えたらしい、白衣姿の女性達は視線以上に冷たい
表情を数十秒片に無言で向けた後、一斉にまた業務に戻る。
……看護師達を、敵に回したか……
苦笑と自嘲がないまぜになったような複雑な笑みをリノリウムの床に向け
片は心中で呟く。看護師に高圧的な態度を取る医師達も多い中、
誰に対しても物腰柔らかで優しい小鉢科長が彼女たちに人気があるのは、
今までの勤務で判っていた。
そんな彼にたてつくような真似をしたのだから、当然と言えば当然なのだが
無論心楽しいわけではない。
……まあ、いいさ……
どうせ仮の職場だ。それに自分は間違った事を
しているわけではないのだ。と片は思う。
七日前、インターネットで見つけた記事から推測すると、
小鉢がここまで献身的に勤務に打ち込んで
いるのは患者の為でも医療従事者としての使命感からでもない。
自分の過去を忘れたくて仕事に逃げ込んでいるだけだ。
……かつての父親と同じように。
小鉢医師には現実を突き付ける必要がある。
手前勝手な自己満足の行きつく先は周囲を巻き込んでの
自滅しかないのだから。
ふと新たな視線を感じて片が顔を上げると、
こちらを見つめる市川看護師と目があった。
他の看護師のような冷酷な無表情ではなく、
怒っているような泣いているような複雑な顔をした
彼女に思わず苦笑を返した瞬間、
市川はプイと顔を背けて業務に戻ってしまう。
受け取り手を失った笑みは、
片の心にやけどのようなひりついた痛みを残した。
※
「ふーん、君が片君だったのか」
ふいに背後から聞こえた声に片が振り返ると、
ソバージュに近いきついパーマをかけた髪を無造作に首筋の後ろで
一つにくくった女性がまるで珍しい動物を見るような眼つきで
こちらを見つめていた。独断で患者を
白鳳大学病院に搬送した一件から三日が過ぎた。
その間に生意気で傲慢な研修医の噂は病院中に広まり、
職場は無論のこと職員用食堂などの公共スペースもかなり居づらいものとなって、
片は探し回った挙句休憩時間のほとんどを
人気ない屋上のベンチに座って過ごすようになっていた。
「小鉢先生」
「いい、隣?」
片が返事をする前に小鉢女医はさっさと彼の隣に腰を下ろすと、
白衣のポケットから取り出した煙草を咥えて火をつける。
薄荷のような匂いが片をふわりとまとわりついた。
「瑠架とやり合ったんだって?」
怪訝そうな顔をした片に、女医はああと苦笑を浮かべる。
「君の所の科長の名前。君も珍しいね、
瑠架に感心する人はいても反発する人なんて
めったにいないのに」
「そうですか」
そっけなく答えながら、片はこの女医がやってきた理由を考える。
まさか夫にたてついた研修医に
説教をしにきた訳じゃないだろうな。
「そんなに警戒しないでよ、別に文句を言いに来たわけじゃないから」
もう一度苦笑して、顔の前で片手をひらひらとふった小鉢女医に、
片はじゃあ、何の用ですかと問い返した。
「晶子ちゃんがいつも気にかけている弟君と一度話をしたかった。それだけよ」
「晶子ちゃんって……姉を知っているんですか」
「私ね、計都医大を出てるの。晶子ちゃんは二年後輩。
女性で外科医を志す子はそんなに
いなかったから自然と仲良くなったのよね」
「ああ、それで姉さんは坪内総合病院の事をよく知っていたのか」
手こずっていたパズルの解き方をようやく見つけた時のような表情で頷いた片に
小出女医は
「そうね、今でもメールはちょくちょく交換しているわ」
と続けた。
「そんな風に見えないけど、君はトップに立たないと満足できないタイプ?
だとしたら、外科医の世界は経験と実力が大事だからあと十年は我慢しないとね」
「そんなんじゃないです」
片は首を振った。
「俺は唯、科長の仕事への献身ぶりが度を越していると思っただけです。
まるで何かから逃げたいみたいだ。
本人は満足しているだろうけど、見ていてイライラするんですよ」
「ふうん」
女医は少し意外そうな顔で、紫煙を吐いた。
「放っておけばいいのに、片君は案外お節介なんだ」
「ちがいますよ」
片はさっきよりも激しく首を振る。
「おれは、自己満足のとばっちはもうこりごりなんです」
そこまで言って片ははっとして口をつぐんだ
「もうこりごりって前に何かあったの?」
「いえ、大したことじゃないです……あの、お子さん方、その御愁傷さまでした」
父の事を喋りたくなくてとっさに口走った言葉に
片は心中で青くなった。
「……知ってるんだ。この病院で誰かから聞いたの?」
ややあってぽつりと返された女医の言葉に、片はおそるおそる
雑誌の件をはなす。人違いだと言われたら謝り倒すしかない。
「そっか、小鉢って名字も珍しいからね」
だが女医はそう言っただけだった。
黙りこんだ女医に、片は思いきってもう一歩踏み込んでみる。
「小鉢科長のお気もちは理解できます、でも、悲しみを紛らわすんだったら
他の方法を取った方がいいと、俺は思うんです」
「片君の言う通りかもしれないね」
「じゃあ」
「でも」
再び喋りはじめた片を小鉢女医は遮る。
「人は人を変えられない」
酷く寂しげな顔で彼女は言った。
「瑠架の馬鹿が自分で気付くしかないの。だから片君がもうこれ以上悪人に
なる必要はない」
「いえ、だから」
片が再び喋りはじめた時、小鉢女医のポケットから電子音が鳴り響いた。
「呼び出されたから、行くわ。ありがとう、話せてよかった。片君はいい子だ」
まるで子供のようなほめられ方をして憮然とした片に小鉢女医は
寂しげな表情のままで笑いかける。
「だからもう、瑠架の事は放っておきな。君の評判が落ちるだけだから」
そう言って踵を返した女医の後ろ姿が消えるまで、片はその場に立ちつくしていた。
「そんなんじゃ、ない」
と口の中で呟きながら
続く