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第三話

「もう決めたって、子供達の学校はどうするんですか。晶子は今年受験なのに」

「何もついて来いと行っている訳じゃない。私一人が行けばいい事だ」

「何でそんなに軽々しく……貴方はいつもそうやって

何でも一人で決めてしまうんですから。こんな山奥……」

「誰かが行かなければならないのなら、私が行くしかないだろう」

言いあっている父と母。姿は見えないがその口調から二人が怒っている事は判った。

「どうしたの、こんな時間にトイレ?」

後ろから囁きかけられて、びっくりして振り返るとそこには姉がたっていた。

「ううん、声が聞こえたから気になって下りてきた。

どうしたんだろう。お父さん、お母さん」

「さあねえ」

困ったように呟いて、姉は自分の肩をそっと叩いた。

「たまには喧嘩する事もあるでしょう。

夫婦だっていつも仲よしってわけじゃないんだから。

心配しないで寝なさい。午前二時は小学生が起きている時間じゃないよ」

その言葉に頷いてベッドに戻ったものの、

眠気はなかなか訪れてくれず翌朝ぼうっとした

頭を抱えて一階のリビングに下りると、

目の周りを赤く腫らした母親がいつものように

ミルク入りの紅茶を持ってきてくれた。

「ねえ、丈一郎。お父さんのお仕事の都合で

学校を変わることになるかもしれないけど、大丈夫よね。

新しい学校は自然がいっぱいある所だし、お友達だって……」

「いっちゃだめだ!!」

目を見開いて固まる母親。それに向かって自分はもう一度叫ぶ

「いっちゃだめだ!!」

夢の中の自分の叫び声で、片は目を覚ました。

鈍く痛む頭に顔をしかめながらソファから起き上がると、ネクタイを取っただけの

ワイシャツ姿で眠っていた事に気がつく。

なぜだと、しばらく痛みのせいでぼんやりとする頭で考えていたが、

テーブルの上に乗った中身が殆どなくなったボンベイサファイアの瓶と、

チーズの欠片がこびりついた皿を見て

年下の、しかも女性である市川看護師に八あたりした罪悪感から、

昨晩家に帰ってからやけ酒と言うにふさわしい

飲み方をしてそのままソファに寝ころんだ事をようやく思い出した。

せっかくの休みなのに二日酔いか、と乾いた笑いがこみあげてくる。

胸の奥のざわざわとした苛立ちも、少しも静まっていなかった。

昨日帰った時は明日こそ部屋の掃除と思っていたのだが、

今はそんな気力は欠片も残っていない。

結局一時間ほどぼうっとした後、重い体を引きずるようにして浴室に向かう。

シャワーから迸る熱い湯を頭から浴びると、少しは身体がしゃんとした。

今日もいい天気のようで、窓からは今年初めての入道雲が青い空にそそり立っている。

散らかった家の中にいると余計に気がめいってしまいそうで、

片は財布をジーンズの尻ポケットに突っ込むと愛車のカギを片手に家を出た。

目的など特にない。ただ気の向くままにランドクルーザーを走らせていると、

山の方へと続く真新しい国道にでた。

こんな道、何時の間に出来たんだろうと思いながらも

自分の他にはすれ違う対向車すらまばらで、真新しい道を

独り占めにしているような子供じみた喜びを感じ、片はアクセルを踏み続けた。

半分ほど開けた窓から、初夏のさわやかな風が吹きこんでそれが

胸に巣食った苛立ちを吹き飛ばしてくれるような気がする。

だが、1時間ほど走った所で頭上に現れた案内標識を見たとたん、

片はぎょっとしてブレーキを踏んだ。

軋むような音をたててランドクルーザーは急停車する。

前方を走る車がいたら確実に追突していただろう。

慌てて車から降り、改めて標識を見上げる。

青地に白色でくっきりと描かれた文字は「仙沢村 30キロ」

「……この道が、あの村に続いているなんて」

手繰り寄せた古い記憶は、酷い車酔いに苦しみながら険しい山道を進んだというもの。

そういえば、前方に道を吸いこむようにそびえ立っている山には微かな見覚えがあった。

あの山を越せば、仙沢村。父が使命感と熱意を持って医師として赴任し、

そして自ら命を絶った場所。

呆然と案内標識を見つめ続けていた片の耳に

激しいクラクションの音が飛び込んできたのは、どれくらいの時が流れたあとか。

「兄ちゃんどうした。車が故障したのか?」

対向車線に止められた車にのった日に焼けた肌をした中年男性が、

心配そうな表情で窓から首を突き出してこちらを見つめている。

「い、いえ大丈夫です」

千切れるほどの勢いで首を振ると片は運転席に飛び乗り、

かなり強引なハンドル操作で車をUターンさせた。

「危ないなあ、そのうち事故るぞ!!」

中年男性の呆れた顔と声から逃げるように、片は思い切りアクセルを踏んだ。


                     ※


「どうしたの、片君。久しぶりに来たと思ったら

そんな真っ青な顔して。まるで幽霊でも見たみたいだ」

驚いた顔をするマスターに、片はそんなようなもんだ。

と独り言のように口の中で呟くとカウンターの一番端の席に

崩れるように腰を下ろした。

白鳳大学近くの古びた喫茶店。四半世紀近く

医学生や職員たちのたまり場であったそこに片もまた、学生時代は

よくレポートを書く為にコーヒー一杯で随分と長居をしたものだったが、

卒業して以来忙しさも手伝ってとんと御無沙汰だったそこに、

片は追われたものが助けを求めるように飛び込んだのだった。

「まあ、まずこれ飲んで落ち着きな」

マスターが手渡してくれたお冷を一気に飲み干してから、

片は初めて喉が焼けつくほど乾いていたことに気付く。

「本当にどうしたんだい?まさか手術で失敗して人を殺しちゃったとかじゃないよな」

笑えない冗談を口にするマスターに、片は引きつった笑みを向ける。

まだ手術ミスなどしたことないが、

受けたショックの度合いは同じような物かもしれない

「そんなんじゃないよ。悪いけど最新版の道路地図があったら見せてくれないかな」

マスターは頷いて、ミルクだけをつけたアイスコーヒーと一緒に

大判で分厚い本を渡してくれる。

この店では常連にいちいち注文を聞いたりはしない。

「ああ、その道は去年出来たんだ。お陰で仙沢村へ行く時間が前の半分以下になったよ」

開いたページを覗きこんだマスターの言葉に、片は

「仙沢村にいったことあるんですか」

と尋ねた。

「ああ、あの村に流れている川に絶好のアユ釣りのポイントがあるんだ。

昔は行くだけで半日近くかかったけどね」

「あそこに今、病院はありますか?」

うーんとマスターは首を傾げた。

「どうだったかなあ。私は釣りが目的だから

、村には食料や氷を買う為に立ち寄るだけだけど、なかったんじゃないかなあ。

年寄りが殆どの寂れた村だし」

そうですか、と片は頷いてぐしゃりと髪の中に手を突っ込んだ。

8年前、白鳳大学に合格した時「

仙沢村と同じ県内の大学で本当にいいのか」と最後まで母親は気にかけていた。

それに「県内言っても遠く離れた場所だから大丈夫」と答えた自分の後頭部を

思い切り殴りつけたい気分だ。

年月がたてばこの国の道路事情はたいてい、よくなる。

マスターの言う通りあそこに病院がなかったとしたら、

村人が坪内総合病院まで来院してくることは十分に考えられる話だ。

十年以上の年月がたっているのでもうあった所でお互いの事などわかりっこないが

それでも、あの一帯の独特の訛りがある喋り方を聞けば、

自分はきっと忘れようと努力してきた仙沢村で過ごした日々を思い出してしまうだろう。

「後、半年か」

マップ帳を閉じて片は呻くように呟いた。後半年経てば二年の研修期間が終了する。

そうしたら、この市、いや県からとっとと出ていこう。

そう自分に言い聞かせると、動揺しきっていた心中が少しづつ落ち着いてきた。

「本当に大丈夫かい?」

尚も心配そうなマスターに片は先ほどよりもましな笑顔を向けて頷いてマップを返すと、

代わりにマガジンラックから医療専門誌を取ってくる。

特に読みたい記事があるわけでもなかったが、

今はなんでもいっからあの村以外の事を考えられる材料が欲しかった。

ぱらぱらとページをめくっていると、

整然と印刷された文字の中から突如現れたたどたどしい手書きの文字が

目に飛び込んできた。

どうやら表紙に書かれている「子供のPTSDの症例とその治療」という特集記事の

資料らしい。脇に小さくH大震災を経験した小学生児童の手記と書かれていた。

二年前の冬、関西の港街でおこったM7.8の大震災は多量の死者を出し、

日本の高速道路の安全神話を崩壊させ、そして

PTSDという新しい病名を国民に浸透させた。

『その時僕は、国立病院の官舎に住んでいました。

地震で家がめちゃくちゃになってお父さん、お母さんと避難所に

行くことになりました。隣の家の小鉢君にも

「一緒に行こう」と言いましたが、小鉢君は「お父さんと約束したから

ここにいる」と言って妹と官舎に残りました。

そして、余震で崩れた壁の下敷きになって死んでしまいました。

もしあの時、僕がもう少ししつこく誘っていたら、

小鉢君は死ななくて済んだかもしれません。その事を考えると

心臓がどきどきして、よく眠れなくなります』

「……小鉢」

その中に上司と同じ名前を見つけてどきりとする。単なる偶然か、それとも……。

何故かは判らないが、真相を確かめたいという欲求が沸き起こった。

「御馳走様」

アイスコーヒーを一気に飲み干して、

ポカンとするマスターの前に小銭を置いて店をでる。

向かった先は大学の図書館だ。

学生や大学病院に勤務する研修医の為にここは基本日曜日でも空いている。

片は身分証と引き換えにカウンターからログインカードを受け取ると、

閲覧室の片隅に並んだパソコンの前に腰を下ろした。

ログインカードを差し込むと、微かな電子音と共にインターネットが接続される。

何度か語句検索を繰り返し、片はようやく自分が求めていたものを探し当てた。

震災で負傷した多くの人々の命を助けた勤務医を賞賛する、二年前の新聞記事。

「そういう、ことかよ」

記事を読み終えて、片は呟く。

その頃には危うくあの村への道をたどりそうになった

驚きと動揺はいつのまにか消え去り、

代わりに彼の心を塗りつぶしていたのは、

柔和な表情を絶やさない献身的な勤務を続ける

救急外来科長に対する今まで以上の怒りに酷似した反発心だった。



続く




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