第二話
「よう、片。少しはこの病院に慣れたか」
病院の廊下で問いかけと共にいささか強く背中を叩かれ、片は顔をしかめながら
後ろを振り返る。そこには彼より頭一つ背の高い別当医師が豪快な笑みを浮かべていた。
全てがおおぶりに作られている彼の眼鼻立ちは、真面目な表情をしていると子供ならば
後ずさりしてしまいそうなほど厳めしいものだが
一反破顔するとなんとも愛きょうたっぷりな顔つきになる。
「ええ、まあなんとか」
「ふんふん、初日に気絶した時はどうなる事かと思ったが」
にやにやと笑い続ける別当医師から、片は不覚にも頬を赤らめて顔を背けた。
彼は本来整形外科が専門なのだが、本人いわく「人手が足りないと院長に泣きつかれて」
1年の約束で救急科の方に出張中らしい。
「どうやら耐性はついたらしいな」
もう一度片の背中をばんと別当に叩かれ、片は痛みと恥ずかしさが
ないまぜになった何とも言えない表情になった。
思い出したくもない話だが、勤務初日歓楽街として
全国的にも有名な猿若町から腹部にかなり深い切創をおった患者が運び込まれてきた。
日雇いのような条件で働いていたその患者は無論保険証もなく、
ここに担ぎ込まれるまでかなりの日数市販の薬で痛みをごまかしながら、我慢していたらしい。
赤黒く変色し異臭すら放つ包帯を切り裂くと、
膿み腫れた傷口から米粒のようなものがぽろぽろと落ちてきた。
何だろうと手でつまみあげ、ウジ虫だと判った瞬間で片の記憶は途切れている。
実は子供のころから「虫」と名のつくものは
それが美しい蝶であれ、子供達に人気のカブトムシであれ大の苦手なのだ。
知らなかったとはいえ虫、しかも腐肉にたかるようなグロテスク極まりないそれを
薄いビニル手袋ごしにつまみ上げてしまった衝撃に、神経の何処かがショートしたらしい。
次に目を開けた時片は宿直室の狭苦しいベッドに寝かされ、
呆れかえった表情の別当医師に覗きこまれていた。
「こんな役立たずのひよっこをよこしやがって、白鳳大学は何を考えているんだ」
独り言のように呟かれた言葉は、今でもぐっさりと片の胸の中に五寸釘のように突き刺さっている。
が、失敗にいつまでも落ち込んでいるようなやわな神経の持ち主ならば、
そもそもこんな所に派遣されてはいない。
翌日から片は、別当医師や看護師たちの冷やかさが7割ほど増したような視線や、
「気絶する時は処置室から出てからにしてくださいね」
という皮肉を何も感じない風を装って受け流し、黙々と勤務に励んだ。
医師と言ってもまだ研修中の身分で経験の浅い片の主な仕事は、
患者を運んできた救急隊員から症状や現在の状態を出来る限り詳しく聞きだし、
自らも患者の診たてをおこない、それを処置室で
待ち構える小鉢医師らに正確に伝える事である。
その要領とコツさえ呑み込んでしまえばその他、縫合のアシスト等の雑務は、
彼を嫌っていた教授すら「優秀」と認めざるを得なかった片にとっては
お手のもので、着任して20日を過ぎた今、
初日に失った信頼は別当医師に「慣れてきたな」と言われるほど回復してきた。
「今何をやっていた?」
「昨日運ばれてきた交通事故にあわれた患者さんの容体が安定してきたので
救急科ICUから外科の一般病棟に移し、その引き継ぎをしてきたところです。
しかし、別当先生」
「どうした?」
笑顔を収め、怪訝そうな顔で問い返してきた別当に、片
はここに来て以来ずっと疑問に思っていたことを尋ねる。
「あの患者さんは外傷位置は頭部でした。これは普通三次救急の領分ではないのですか」
「建前はな」
と別当は今度は厚い唇に苦笑の影を刻む。
この国の救急医療は一次、二次、三次と別れている。
ドラマで有名なアメリカのERのように歩いてくる患者から、
CPA(心肺停止)状態の患者まで一手に引き受けるというわけではないのだ。
ちなみに一次救急は「夜間、休日診療」などであり、
二次救急は入院を必要とする重症患者を、そして
救急救命の最後の砦と呼ばれる三次救急は、二次救急では対応できない
多発性外傷、頭部外傷重度心筋梗塞や脳疾患などを扱う。
「この病院は私立で、脳外科はないが人間ドック用に
MRIやCTなどの診断機器だけは充実しているからな。
診察だけという条件で引き受ける場合が多いのさ。
まあそのうちの9割がそのまま受け入れになるがな。
なにせ白鳳大学救急救命センターは、10回中3回は受け入れ拒否をして下さるからな」
ああなるほど、と片は頷いた。同じ病院内で働きながら
医局が違う為あまりよく知らないのだが、
一度たまたま救命センタ―で研修中の大学の同期と
大学病院の職員食堂で相席になった時
「今度教授になった先生が、異常なまでの慎重派でさ。
しかも梅林大学の割り箸事件が裁判になっただろう。
それでさらに慎重に拍車がかかって、めんどくさそうな患者は断れっていいだして
現場はいい迷惑だよ」と愚痴っていたのを思い出した。
梅林大学の割り箸事件とは、夏祭りで綿あめを咥えたまま
転倒した男子児童の喉の奥に割り箸が折れて突き刺さっていたのだが
運ばれた梅林大学高度救急医療センターで、診察した医師がその旨を説明されず、一通り
検査をしたが異常がなかった為喉奥に軟膏を塗っただけで治療を終え、
帰宅後男子が死亡した一件である。
司法解剖した時に、初めて小脳に長さ7.6センチの割り箸が
突き刺さっている事が発見されたのだが
遺族は医師の過失だと民事裁判を起こし、
マスコミも大体的にこれを報じ、医師のバッシングを繰り広げた。
「大体俺たちだって全力は尽くすが万能じゃない。
どれほど注意を払っても過失が絶対にないとは言いきれないんだ。
その度に訴えられちゃたまんないよ」
当直続きなのか目の下にどす黒いクマを作った同期は、
そう言って力なく笑うと半分以上中身が残ったままの
食器がのったトレイを持って足を引きずりながら去って行った。
「……で、誰なんだ片」
「え?」
「だからうちから出した患者を引き受けてくれた担当医師は誰なんだ?」
物思いの淵に沈んでいた片がその問いに我に帰ると、
目の前にいぶかしげな表情をした別当医師の顔があった。
「す、すいません。小鉢医師です、あの、女性の」
この病院には外科にも小鉢という名字の医師がいる。
栗色がかった長い髪にソバージュに近いきついパーマをかけた中々の美人だが、
その表情にはいつも寂しげな影がおちていてそれが片には気にかかっていた。
「ああ、絵里子さんか、なら安心だな。旦那より数十倍丁寧な治療をする」
「……小鉢先生の奥さんなんですか」
「そうだ、知らなかったのか?」
「ええ」
同じ病院に夫婦で医師として勤める事は、珍しくはあるが皆無ではない。
だが、何度か救急科の方に女性の方の小鉢医師がやってきた時、
科長の小鉢は酷くそっけない態度だった。
それは仕事にプライベートを持ちこまないようにという配慮というより、
出来る限り彼女と顔を合わせたくないという心の現れのようであり、
小鉢という姓もまた珍しい事もあって、片は仲の良くない兄妹かと思っていたのだ。
「彼女の専門は消化器官だ。機会があったら一度手術を見学させてもらえ。
多分大学病院にも中々お目にかかれないレベルの手技が間近で見られる」
なぜか得意げに言う別当に片ははあ、と曖昧な返事を返して救急科医師控室のドアをくぐった。
「やあ、御苦労さん。患者さんの引き継ぎは」
「はい、滞りなく。小鉢絵里子先生が担当になるそうです」
柔和な笑みを向けてきた小鉢医師に、片は今やってきた業務の報告をする。
女医の名を聞いた時、小鉢の顔がほんの一瞬強張ったような気がするのは
気のせいだったろうか。
「そうか、絵里……いや小鉢先生が引き受けてくれるなら問題はないな。
じゃあ片君急患が来ないうちに夕方の回診をやってしまおうか。ついて来て」
と立ち上がった小鉢の後ろに片は続く。
救急科に置かれたベットは15床。その大半がICUの中にある。
ベッドの周りに置かれた様々な機械が規則正しい電子音を響かせ、
看護師達がきびきびとした足取りでそれらをチェックしている中、
二人の医師は患者達の順番に診ていく。
小鉢は常に柔和な笑顔を絶やすことなく、喋る事が出来る患者からは
丁寧に容体を聞き、意識がなかったり、
人工呼吸器に繋がれている患者には励ますように何かを耳元で
囁きながら手を握ったり、体をさすったりしている。
その献身的な様子を見ていると心の中に微かな苛立ちが沸き起こるのを片は感じた。
部屋の半ばまで来た時、片の耳に微かな泣声が聞こえた。
外界と隔てられたICUの中のさらにたった一つの個室からそれは聞こえてくる。
アイボリーに塗られた扉で区切られたそこは特別室と言う名前があるのだが、
職員達は皆ヘブンズドアと呼ぶ。
そこに入れられるのはもう手の施しようがなく、
命が尽きるのが時間の問題という患者達。
最後の時間を家族水入らずで過ごせるようにと言う病院側の配慮だ。
だから、普通は10分が限度の面会時間が、この部屋に限っては無制限なのだ。
当然この部屋の回診はなしだと片は思っていた。
この中にいる患者に医師が出来ることはもう何もない。
だが、小鉢は当然のように部屋に入るとすでに意識のない患者と、
枕元に座る憔悴しきった家族両方に何事か囁きかける。
そして小鉢医師が患者の手をそっと握ると、感極まったらしい家族がわっと泣き出す。
その様子をじっと見ていた片はますます苛立ちが募った。こんなことをして何になる。
自分たちの仕事は患者の治療であり、慰めを与えることではない。
死を待つばかりの患者の前での
醜悪な猿芝居、自己満足の極みじゃないか。
「ふむ、特に急変しそうな患者もいないな。片君御苦労さん今日は上がっていいよ」
「先生、俺は当直の回数をもう少し増やしてもかまいませんが」
再び医師控室に戻り、本日の業務終了を告げられた片は小鉢にそう申し出る。
戦場と例えられる職場。しかも地方都市でありながら日本屈指と揶揄されるほどの歓楽街
猿若町をカバーしているので、夜間であっても救急車が到着しない日はない。
片は最悪月10日以上の当直を覚悟していたのだが、今までの当直日数は大学病院で働いて
いる頃より少ないくらいだ。
「いや、片君はまだここに来て日も浅い。今でも十分役に立っているのだから
もう少し慣れるまで今のままでいいよ」
普通通なら喜ぶべき小鉢医師の返事は、しかし余計に片を苛立たせる。
片が着任してから今日まで、目の前の医師が家に帰ったのは僅かに五回。
殆どの夜を小鉢医師は病院で過ごしていて、
宿直室のベッドの内の一つは彼の私物が山積みになっている。
トップでありながら率先して宿直を引き受け、
患者はもちろんの事下っ端の研修医にすら気を使う理想的な上司であり、医者。
……ふざけるな……
片は胸中で吐き捨てた。小鉢医師は既婚者だ。
それなのに家よりも病院で夜を過ごす事が多いと言う事は
家族と不仲であるか、自分の理想とする医療にのめり込むあまり
家族を顧みていないかのどちらかだ。
外科の小鉢女医の顔にこびりついた寂寞の影を見る限り、
科長は後者のタイプなのだろうか。
自分の憶測に、ますます小鉢医師への苛立ちが募る。
すでにそれは怒りといってもいいレベルに達していた。
「どうしたんだい?怖い顔をして。何か気になる患者さんでもいるのかい?」
不思議そうに小鉢に問いかけられて、片は慌てて首を振る。
いくらなんでも憶測で目の前の医師に文句を言うわけにもいかない
だが、お疲れさまでしたと控室を後にしても苛立ちは消えない。
更衣室で乱暴な動作で白衣を脱ぎ、青いER着からスーツに着替え険しい表情のまま
再び外に出ると、隣の女子更衣室から出てきた市川看護師と鉢合わせした。
看護学校を今年出たばかりの彼女は、
救急科に配属されている職員の中では最も片と年が近く
同じ新米同士ということで、もっとも気安い間柄だった。
「あれ、小鉢先生今日は当直じゃないんですか」
「ああ、明後日までないよ」
今時珍しい手入れされた肩までのまっすぐな黒髪をさらさらと揺らし、
屈託なく問いかける彼女に片は無愛想に返事をする。
「そうなんですか。じゃあ今日も小鉢先生一人で当直ですか。
えらいですね、科長自ら。
中々出来ることじゃないです」
市川の口調も表情も小鉢に対する尊敬と感心に満ち溢れている。
「そうでもないぜ」
え、と驚いた市川に、片は意地わるい笑みを向ける。
「小鉢先生は傍から見ればそりゃあ理想的な医者だろうよ。賞賛を一身に浴びて
本人も嬉しいだろう。だけどそれを支えてる人間はたまったもんじゃないぜ」
「支えているって」
怪訝な顔をして問い返す市川に、片はさらに喋り続ける。
「たとえば家族。めったに家に帰ってこない夫や父親なんて何の存在価値があるんだ。
それに、トップがそんなにしゃかりきに頑張っていちゃあ部下だって、帰りにくいし
休みだって取りにくい。結局みんなが限界を超えて頑張り続け、いつかは共倒れだ。
と、言うわけで俺は小鉢医師が自己犠牲に陶酔している独善的な奴にしか見えないよ」
途中から、この新米看護師にここまで言う必要はない、八あたりだ。と心の片隅で己の声で
警告が上がったが、一度迸り出た言葉と感情は今更止めることはできなかった。
「そんな、片先生。そこまで言う事は、ないじゃないですか」
小鉢の代わりに片の苛立ちの砲火を浴びて眦に涙すら浮かべ、立ちつくす市川看護師に
片は後味の悪い思いを抱えながらも、今更かける言葉もなく足早にその場を立ち去った。
続く