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最終話

「片君、重傷者の容態を説明」

小鉢科長のその一言に、片の一瞬緩んでいた心がぴしりと引き締まる。

そうだ、まだ何も終わっちゃいない。

「17才、女性。バスの座席に下肢全体を挟まれ、骨盤骨折の疑い。

多分骨盤内で大量出血しています。

出血性ショックの初期症状を確認しています」

「絵里子」

小鉢女医が頷いて、患者は何処、と尋ねる。

「俺の車の中です」

答えたとたん小鉢女医は身を翻して車に駆け寄った。

「片君の診断で間違いないわ。一刻も早い手術が必要ね。このまま病院に搬送するわ

私の方を連れてきて正解だった」

「ああ、別当君に連絡して病院についたら即検査、

そして手術が出来るようにしておいてもらってくれ」

小鉢女医は頷いて同乗していたらしい

救命隊員たちと協力して美香を担架に乗せる。

「このまま坪内総合病院まで搬送し、治療を行います」

簡潔な小鉢の説明に、片よりもあっけに取られた表情で

突然ヘリコプターでやってきた医師達を見つめていた山田は、我にかえって

「美香は、美香は助かるんですか」

と小鉢の体に縋らんばかりの勢いで尋ねた。

「全力を尽くします。絵里子頼む」

そう言って小鉢科長はヘリコプターに乗り込もうとする

妻の手を強く握りしめた。

一瞬小鉢女医は酷く驚いた顔をしたが、

すぐに任せてと力強く頷くと

美香を乗せた担架に続いてヘリコプターに乗り込んだ。

細長い翼がゆっくりと回転を始め、

やがて銀色の機体がふわりと浮きあがり

暗い空に飛び立っていく。

「先生は、い、一緒に行かないんですか」

それを見送る大きなバッグを抱えた小鉢に、山田が尋ねた。

「大丈夫です、彼女は僕より優秀な外科医ですから。

それに、まだここには治療に必要の患者さんが大勢いる。市川君いこう。

片君患者さんたちはどこにいる」

小鉢科長にそう言われて、片は初めて彼の脇に

市川看護師がいるのに気がついた。

片の視線を感じたのか、彼女は小さく頭を下げる。

「公民館の一室にいます」

片は答えて二人をそこに案内する。

「ありがとう、市川君始めるぞ」

「小鉢科長、俺も」

そう言った片の肩を小鉢はそっと叩く。

「まず腕の泥を落としてずぶぬれの服を着替えてくるんだ。

とてもそのままで患者さんを治療させる事が出来ない」

指摘されて片は初めて自分の酷い格好に気がついた。

「先生、これをどうぞ」

市川看護師が傍らに置いた大きなバッグの中から

真新しい白衣と青いER着を取り出して手渡してくれる。

「もしかして、と思っもってきてよかったです。早く着替えてくださいね

人手が必要なんですから」

淡く微笑する彼女から着替えを受け取ると、

片はすぐ戻ります。と洗面所に飛び込んだ。

手を洗って濡れた服を着替え、白衣を羽織ると

先ほどまでの絶望感が霧消していくのが判る。

患者のいる部屋にかけもどると、

小鉢科長が片の全身を一瞥し、短く告げた。

「よし、頼むぞ」

「はい!!」


                  ※


命に別条はないとはいえ、怪我をした乗客の大部分が

高齢者で持病を抱えていた為、

診察と治療は慎重におこない、

全てが終わった時には真夜中を過ぎていた。

「御苦労だったね」

最後の患者が部屋を出ていったとたん、

どっと疲労が押し寄せて壁に背中を預ける形で

座りこんでしまった片の前に缶コーヒーが差し出される。

「……科長」

呟いておずおずと缶コーヒーを受け取ると、

小鉢科長は微笑して隣に腰を下ろした。

「片君がここにいてくれて本当に良かった。

お陰で怪我人の様子が正確に把握できて

防災用ヘリコプターの出動を要請する事が出来た」

ちなみに、この防災用ヘリコプターが

「ドクターヘリ」と名前を変えて

全国に配置されるようになるのは、この二年後の話である。

「科長は、どうして俺がここにいるとわかったんですか」

コーヒーを一口すすって片は尋ねた。

いつもなら甘過ぎると感じる砂糖とミルクのたっぷりとはいった

それが、今はこの上なく美味に感じる。

「お姉さんに行き先を告げていただろう」

そう返されて、片はああ。と納得がいった。

「今日は珍しく僕と絵里子、両方とも休みで家にいたんだ。

彼女は長い事君のお姉さんと電話をしていたよ」

「そうですか」

きっと姉は何度も自分の携帯にも連絡をくれたのだろう。

だがここは圏外で電話は通じない。

彼女はきっと友人の小鉢女医に愚痴る事で、

苛立ちとそして不安を紛らわせていたのだろう。

「だから、仙沢村から救急車の出動要請が来たが、

道路が不通で到着不可能。ヘリを出動させる必要があるか

怪我人の様子を電話で聞いてほしい、と僕に消防署から依頼があった時、

絵里子がそこに片君がいると

すぐに教えてくれたんだ。いや、本当に助かった」

「それは、よかったです」

心の奥底がじんわりと暖かくなっていくのを片は感じた。

怪我をした人達には悪いがこの一件のお陰で

自分は今日この村に来た事を生涯後悔していかずに済みそうだ。

「……お父さんの名誉は、回復できそうなのかい」

しばらく黙って自分と同じように

コーヒーを啜っていた小鉢科長がぽつりと尋ねた。

「姉が……喋ったのですか」

「多分、ね。絵里子が教えてくれたから。

僕は学生の頃片敬一郎先生が医学雑誌に寄稿した

緩和ケア病棟の構想についての記事を読んで、

とても感銘を受けたんだ。臨床実習で

殆ど効果のない治療を苦しみながら受け続ける患者さんを何人も見たのでね。

直接お会いした事はなかったけれど、夭折を知った時はとても悲しかった。

まさか、この村でそんな辛い目に遭われていたとは」

沈痛な面持ちの小鉢科長に、片は寂しげな笑みを向けた。

「人が、自らの考えを改めるには十六年という時間は短すぎる」

「そうか」

小鉢はそれ以上何も言わず、二人は市川看護師が

遅すぎる夕飯を届けてくれるまで

消毒薬と血の匂いが微かに漂うがらんとした部屋で、

無言のまま並んで座り続けていた。


                   ※


仙沢村と若槻市を結ぶ道路は翌日の昼すぎに復旧した。

「別にこんなことを予想してこの車に乗っていた訳じゃないんですがね」

片は苦笑しながら自分の愛車に小鉢科長と市川看護師を乗せる。

復旧したとはいえ、まだ土砂を取り除いた程度の道路でも

ランドクルーザーなら走行に支障はない。

そして、前を行くのは二台の救急車。それには昨日治療した怪我人の内

病院での検査が必要と小鉢が判断した人達が乗っている。

行き先はもちろん坪内総合病院だ。

「片君……これは」

助手席に乗ろうとした小鉢科長が、そこに置かれた分厚い日記帳を手に取る。

「父の、日記です。書く事が好きだったみたいで、

緩和ケアについても色々と記してあります。

よかったら、お読みになりますか」

いいのかい、と訊ね返した小鉢科長に片は頷く。

父の考えに感銘を受けたと言ってくれ、

そして同じような行動をとり続けるこの人にこれを読んで欲しいと思った。

「父も、自分の考えに感銘を受けた人に読まれるなら、喜ぶでしょう」


                     ※


山間部を抜けるまで、片達は車中からブルーシートに覆われたがけ崩れの痕や

崩れないまでも、土砂を固めてあるコンクリートに入った大きな罅を何度も見た。

「随分とずさんな工事をしたみたいですね。昨日の雨くらいで崩れるなんて」

二人の後ろに座っていた市川看護師がポツリと呟いた言葉が印象的だった。

坪内総合病院に帰ると、早速別当医師と小出女医が

一行に昨日の手術の結果を報告してくれた。

「やっぱり骨盤を骨折していて、骨盤の中に血だまりができていたわ。

片君が診たててくれていた

お陰でヘリの中である程度処置が出来ていたから、

塞栓術は成功して、命は助かった。でも」

そこで小鉢女医は少し顔を曇らせて、言葉を切った。

「両足が座席の重みで粉砕骨折していてな。

それだけだったら温存できたんだろうが

やはり骨盤骨折を同時に起こしていては、無理だった。

多発性外傷は本来うちの領分を超えているんだが

白鳳大学病院は昨日満床だったらしくてな」

隣に立っていた別当医師が説明を引き継ぐ。

「そうか」

「そうですか」

片と小鉢は同時に頷く。両足と命、天秤にかければ

傾くのはどちらの方であるかは明らかなのだが

それでも四人の間に悔しさと落胆が入り混じった空気が流れる。

「しかし、片の判断は正しかった。ヘリが到着するまで救出をしていなかったら

命が危なかっただろう。よく救出したな、彼女を」

「どうして……それを」

「ヘリの中で意識を回復した患者さんが教えてくれたの、片君、よくやった」

小鉢女医と別当医師から口々に褒められて、片は一度深く頭を下げた後、言った。

「俺のせいじゃないです。あの時小鉢科長があそこに来てくれたから……

俺一人じゃ、何も出来なかった。本当にありがとうございました」

片以外の全員が目を丸くする。

「随分と殊勝になったな、何があったんだ」

別当がそう呟いた時、廊下の向こうから山田が駆け寄ってきた。

彼は道路復旧した直後に、村を出て病院に駆けつけていたのだ。

「どうして、美香は両足を失ったんだ」

荒い息をつきながら怒鳴る山田に、医師達は痛ましげな顔を向ける。

「全力を尽くすと言ったじゃないか」

「全力は尽くしました」

小鉢女医が静かに答える。

「しかし、美香さんの両足は損傷があまりにも激しかった。

骨盤内の出血もひどく

命を助ける為にはそうするしかなかったのです」

「丈一郎君、酷いじゃないか」

小鉢女医の説明を無視して、山田は片に詰め寄った。

「昨日の事に対する意趣返しが、これか。美香は関係ないだろう」

「……っな」

片は唖然とした。昨日の一件で腸が煮えくりかえったのは事実だ。

だからと言ってそんな事をするはずがない。

第一山田は彼女の救出から搬送、そしてその後の軽傷者への

治療まで全て見ていたはずだ。

「陰険な野郎だな、所詮はよそもんだ。

美香の足をぶったぎって平然としていやがる」

「山田さん」

怒鳴り続ける彼に、さすがに小鉢が口を挟んだ。

「小鉢先生の説明したとおりです。

妹さんは足を切らなければ命が危なかった。

我々は全力を尽くしました。これが、最善の処置です」

「同感です。それどころか、片医師の診断がなかったら処置が遅れ、もしかしたら

足を切り落としても助からなかったかもしれない」

別当医師がそれに続く。

三人の医師にそういわれて、さすがに山田は数瞬黙りこんだ後

「これだけ医師がそろっていて、

美香の足を助けられなかったのか。つかえねーな。この病院は」

と捨て台詞を残して去って行った。

「つかえない、か」

その後ろ姿を見つめながら片は呟く。

身体が砂になって崩れ去ってしまいそうな空しさが襲ってきた。

自分達は必死だった。その姿をずっと見ていて、尚そう言うか。

「俺達は、道具じゃない」

呟きが口から零れおちる。

「道具じゃない、人間だ」

だから、全力を尽くしても限界がある。

なぜ、それを判ってくれない。

どうしてそこまで医者に完ぺきを求める。

「判ってる。君と……そして我々は全力を尽くした」

小鉢医師の言葉は、深くうなだれる医師達の頭上を空しく通過していった。


               ※


「先生、色々ありがとうございました。

あの、兄がぶつぶつ言ってますけど

私は先生に心から感謝しています」

あの事故から二カ月が過ぎ、

美香は仙沢村に近いリハビリ専門の病院に転院が決定した。

最後まで山田は片達を責め続けたが、

彼女の一言に随分と救われた気持ちになる。

そして、あの日以来片はぴたりと小鉢科長への反抗をやめた。

当然職員たちの間では憶測が乱れ飛び、結果的に

「仙沢村まで遊びに出かけた片医師が、

偶然土砂崩れに巻き込まれ怪我人を目の前に

にっちもさっちも行かなくなった所に、

小鉢科長が駆けつけてくれたので頭が上がらなくなった」

という説が採用され、片と小鉢を含め誰もそれを否定しなかった。

晶子は、後日電話をして事の顛末を報告したところ

「なんであんたは考えなしの事をするん?」

と一しきり怒られた後

「もう、全て忘れてしまい。それが一番の復讐や。

あんたの話からするとあの村はもう長くないんやろ」

まるで自分に言い聞かせるように慰められた。

そして、夏が終わると共に、片の派遣期間も終了した。

「今までありがとう。本当に助かったよ」

そう言った小鉢科長に、片は唯頭を下げた。

多分二度とこの病院に来る事はないだろうが、

一生忘れられない日々になることは間違いない。

「長い間、借りていて悪かった。隅々まで読ませてもらったよ」

そっと差し出された日記帳を片は頷いて受け取る。

「片君は僕をずっと諌めていてくれたんだな」

理由はどうあれ、心身の限界を超えた努力は

結局最悪な結果しか生み出さない。

「そんなんじゃないです」

片は苦笑して首を振る。

「俺は科長にもう少し器用に賢く立ちまわって欲しかった。それだけです」

心身、家族、全て犠牲にして医療に貢献する。

一見美談に見えるそれはそれを享受する側を増長させてしまう。

いつ、いかなる時でも最高の治療を一刻も早く受けさせろ。

失敗は、許さない。

「俺達は、道具じゃないですから」

「そうだな」

二人の医師は誰もいない医局でそっと寂しそうに笑いあう。

「余計なお世話かもしれないが、これを」

ひとしきり笑った後、小鉢医師がもう一度差し出したものは

電話番号と住所が書いてあるメモだった。怪訝な顔をした片に

「自殺や突発的な事故で突然家族を失った人々が集う会だ。

悲しみは一人で抱え込むより、皆で分かち合った方が早く薄れる」

「御自分も、そうなさってください」

そう言いながらも片はメモを受け取った。そして

「ご指導、ありがとうございました」

最後に深く一礼をし、片は医局を後にした。


               ※


秋が過ぎ、冬が来た。白鳳大学に戻った片は

非人間的な研修医のスケジュールをこなしながら

やっとある場所を訪れた。

小鉢医師のメモに書かれていた住所。そこは小さな教会。

葉を散らせた植え込みの中に建てられた小さな看板には、確かに

「突然家族を失った方々の集い、会場」と書かれている。

入ろうか、どうしようか迷っていると、いきなり背中をぽんと叩かれた。

「君は」

「片先生、お久しぶりです」

ぺこりと頭を下げたのは、市川看護師だ。

少し髪が伸びて女性らしさがましている。

「やっと、来てくれたんですね」

「君も、この会に来ているの?」

こくりと彼女は頷いた。

「私、学生時代に両親を交通事故で亡くしているんです。

自分ではもう乗り越えたつもりなんですけど

時折無性に寂しくなるんです。そんな時、ここにきています。

小鉢えっと、絵里子先生の方も

よく来ていますよ。小鉢科長は一回来ただけですけど」

そこまで一気に言いきって、市川看護師はあ、と何かを思い出したようだった。

「そういえば、私まだ、先生に生理用食塩水をぶつけた事、謝ってなかった」

「いいよ、もう時効だ」

片は苦笑した。

「でももし、市川さんがちょっとでも申し訳ないな、と思っているんだったら

会の間、その、隣に座っていてもいいだろうか」

その言葉に市川看護師は少し目を見開き、そして微笑する。

「お安いご用です、大丈夫です。皆いい人達ばかりですから」


                 ※


春が来た。後期研修も間もなく修了する。

片が母親から呼び出しを受けたのはそんな時だった。

「久しぶりね、元気?」

家ではなく、片美容整形外科の院長室で久しぶりに会った母は

姉と同じように年よりずっと若々しく見えた。

「ああ、お陰さまで。病院も相変わらず繁盛しているみたいだね」

どこかぎこちなく答えながら、片はイタリア製の

高級ブランドのソファに腰を下ろす。

ここはまるで病院と言うより一流のホテルのような内装だ。

スタッフも医療従事者というより

サービス業の躾けられた愛想の良さがあり、

そして訪れるのは疾患を抱えた人ではなく

美の為に多額のお金を支払える人たち。

「研修が修了した後のことは決めているの?」

首を振った片に、母は小さく頷く。

「アメリカに行く気はある?」

「アメリカ?」

「そうよ。受け入れ先と話はついているから、医局を通す必要はないわ。

最新の美容外科を学んできて欲しいの」

「そして、この病院を継ぐ」

もう一度母は頷いた。

片は黙り込む。多分、これ以上ないほど幸運な話だ。

他人が血がにじむような努力をして切り開くような道が、

自分の前にはすでに出来ている。

しかし……。

片の脳裏に坪内総合病院で過ごした日々が鮮やかによみがえる。

戦場のような現場、一瞬で下さねばならない重要な判断。命を救う現場で

自分達は命を削るような思いをしていた。しかし、三途の川を渡りかけていた患者が

再び息を吹き返した時の充実感。

ああ、だめだな。と片は心中で苦笑した。俺はジャズの虜になっちまってる。

もう、お上品なクラシックじゃ満足しないんだ。

「母さん、すごく恵まれた話をありがとう」

そう言った片の表情で、母全てを察したらしい。

「いいわ、無理やり留学させてもしょうがないから。

貴方は貴方の信じた道を行きなさい私には、晶子がいる」

ソファと同じブランドの高い背もたれのついた回転いすに

沈みこむように座りながら母は告げた。

「ごめんね、そしてありがとう……母さん」

「なに?」

少し黙った後、片は先日新聞の地方版の片隅に乗っていた記事の内容を告げる。

「仙沢村、ダムの底に沈むんだって」

あのがけ崩れがきっかけで、道路の手抜き工事が

発覚した事が決め手になったらしい。

残った数少ない住民たちは、立ち退き料をもらって村を出て行く。

井戸を壊された怯えるカエルのように。

「そう」

短く呟いたっきり、母は黙った。

その全身から徐々に力が抜けて行く。まるで鎧を脱ぐように。

「随分と休んでいないわね」

それが、私は、いや、私たち家族はあんた達に見下されるような存在じゃない。

と言外に訴え続けてきた母の静かな終戦宣言だった。

「少し、休んだらいいよ。病院は姉さんがいるんだろ」

「そうね、丈一郎、久しぶりにお父さんのお墓参り、一緒に行こうか」

片は頷いた。

「もうじき父さんの好きだった桜が咲くし、丁度いいよ」


              ※


同じ季節。坪内総合病院救急外来、医局。

さき始めた桜が硝子窓の外で揺れている。

「ついに救急救命医の指導医の資格をとったのか」

「ああ」

別当医師のどこかあきれたような物言いに、小鉢は短くうなずいた。

「これである程度経験を積んだ医師が、

認定医になる為に来てくれるかもしれない」

「お前なあ、患者を治療しながら後輩指導までするのか。体が持たんぞ」

「わかっている、楽をしたいからこの手を使うんだ。優秀な後任が育てば

僕は科長室でのんびりできる」

「そううまくいくかねえ」

ため息をつく別当医師に、小鉢科長は軽く笑って

実はもう一人希望者がいるんだと告げた。

「誰だよ、そんなモノ好き」

「先生もよく知っている人ですよ、口は悪いけど腕はぴか一だ」

「……本当にお前はモノ好きだな!!、上手く調教しろよ。

とんでもない暴れ馬だからな、あの馬鹿は」

もう一度大きなため息をつく別当医師に小鉢はわかっています。

と笑いながら頷いた。


              ※


桜が満開になった春半ば、坪内総合病院救急外来科に

一人の専門研修医が入ってきた。

「お久しぶりです」

頭を下げた片に、小鉢は

「おかえり」

と答える。

「今度は少なくとも四年。よろしくお願いします」

「今回は前のようなお客さん扱いはしない。覚悟はいいかな」

指導医の言葉に片は力強くうなずいた。

「はい」



エピローグ



半年後、クリスマス。

「どうも、色々とありがとうございました」

両頬に目立つ傷のある青年は、

そう言って深く頭を下げると葬儀社の用意した

黒塗りの大型車に乗り込んだ。

坪内総合病院には、幾つかの出入り口がある。

その中でこれから青年が出て行こうとする

出入り口は、最も目立たぬ場所にあり、笑顔でそこを出て行く者は誰もいない。

無言の帰宅、病院で死亡した患者を送り出す専用口。

片は何度もそこから去っていく患者だった人たちを見送ってきた、

だが、これほど

悔しく、やるせない思いを抱いたてここに来たのは初めてだ。

「繭、帰ろう」

シーツに包まれた骸に優しく青年は声をかける。

死者と彼は昨日、病室で夫婦となったばかりだった。

片は無言で青年に頭を下げる。

数日前、繭と言う名前だった死者が搬送されてきた時、

この馬鹿野郎、命を粗末にしやがってと腹がったった。

まだ一七才、人生に絶望するのは早すぎる

だが、その理由を知ったとき、愕然とした。そして何とか救ってやりたいと思った。

しかし、その願いはかなうことなく、彼女は彼岸に渡ってしまった。

命を救えなかった医師は、何も言えない。

青年の乗った車が完全に見えなくなった後、片は屋上に上った。

一人になりたい。だがそこには先客がいた。

「すいません」

給水塔の下で、真っ赤になった目を

ハンカチで押さえながら市川看護師は震える声で言った。

「もう新人でもないのに、何人もみとっているのに、なんでか今日は

涙が、とまらなくて」

そう言って彼女はもう一度ハンカチで目頭を押さえる。

その華奢な両肩を、彼はすっぽりと両腕で包み込んだ。

「片先生?」

「悪い……何もしないから、少しだけこのままでいさせてくれ」

その耳元で、片は囁く。

「俺も同じ気分だから」

ややあって返された、

はい。と言う返事に片は彼女を抱く手に力を込めた。


                  ※

それから七年後の、秋

「今日から内科と外科の研修医がいれかえですか。

せっかく使えるようになったのに」

「しょうがない、新研修医制度でうちに

研修医が来てくれただけでも恩の字なんだから」

「今度は使える奴だといいんですけどね」

「指導医しだいだろう。あんまり喧嘩をするなよ」

「わかっています」

片は頷いた。認定医の資格をとっても、

彼は相変わらずこの病院でそして小鉢科長の下で

働き続けていた。指導される立場から、する立場になってすでに二年。

相変わらず自分の後に続く常勤医はなし。

その現実に苦く笑いながら、片は新しくやってくる研修医を出迎える。

「佐々木、兵衛です」

自己紹介をして頭を上げた研修医の顔を見て、片は息を飲む。

その両頬をはしる酷い傷痕には、はっきりと見覚えがあった。

七年前のクリスマス、自分が救えなかった患者の、夫。

あの時、まだ少年の面影が色濃く残った青年であった彼は今目の間に

白衣を着て立っている。

……医者に、なったのか……

「片、先生ですよね。ずっと昔にお会いした事があるんですが、

覚えていらっしゃいますか」

「……ああ」

久しぶりとは言わなかった、言えなかった。

あの時自分は敗北者だったのだから。

なぜ医者になったのか、聞く必要はないだろう。

「御指導、よろしくお願いします」

もう一度頭を下げた佐々木に片は頷く。

頭を下げたいのは俺の方だ。俺は君の大切な人を救えなかった。

その代わり、限られた時間ではあるが俺のもっている技術を可能な限り教えてやる

「よし、まずは一通りここを案内してやる。そして後は実戦で覚えろよ

覚悟しろよ、戦場だから」

勢いをつけて、片は椅子から立ち上がった


終わり。



どうも、長いお話をお読みいただきありがとうございました。

有志企画「職業小説」に「医師」をテーマに投稿させていただく

予定で書きあげた小説です。

スーパードクターなんか絶対に書かない。

今日本が抱えている医療問題を書いてやれと

素人ながらに勢い込んだ結果が随分と暗い小説に仕上がりました

後味が悪いでしょうが、これが現実の一部です。

テレビや雑誌では救急車の受け入れ拒否が問題になっています

医師バッシングもひどいです。しかし、本当に悪いのは医師だけですか

医療を受ける私たちの方に問題はないのですか?

この小説の中で、片敬一郎医師が受けた仕打ちは、実際に秋田県の

ある村の医師に対して行われた出来事です。

お医者さん達は限界を超えて頑張っている それを伝えたかった。

尚、この小説を書くにあたり、現役の医師及び看護師の方に

数多くの助言を頂きました、この場を借りて御礼申し上げます

本編はこれで完結ですがあまりにも暗すぎるので

外伝を一つつけようと思います

ご感想いただければ大変うれしいです

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