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第十話

建物中に響き渡るような足音をたてて階段を駆け下り、降り続く雨の中に

傘もささずに飛び出しても、片を追って来る者は誰もいなかった。

全身を濡らしながらランドクルーザーの運転席に乗り込み、ドアを閉めると

ふいに笑いがこみあげてきた。

忍び笑いのような笑い声は、すぐに自分でも耳障りなほど大きなものになる。

悔しくて、情けなくて、消えてしまいたいほど自分が愚かしい。

そんな時でも笑いたくなるのだと、初めて気づいた。

目尻から転がり落ちた涙が頬を伝う。

それをぬぐった濡れた指先で、片は助手席に置いた父の日記帳にそっと触れた。

「帰ろう、父さん」

こんな村、二度と足を踏み入れるべきでなかった。

微かな期待を抱いてやってきた山道を、

重すぎる失望を抱いてのろのろと逆戻りする。

本当はアクセルをめいいっぱい踏んで

、一分一秒でも早くこの村が見えない所まで行きたかったが

振り続く雨とうねうねと曲がりくねる道が、それを許さなかった。

そしていくらも行かないうちに、

こちらに向かってやってくる車影を認める。

「……バス、か」

悪天候のせいだろう、昼間でもライトをつけていてくれたのが幸いした。

そうでなければ、ぎりぎりまで接近に気付かなかっただろう。

道路の幅からすれば、すれ違えないわけでもなかったが、片は安全を考え

車を路肩ぎりぎりまで寄せた。

村の方を見ていたくなかった、

それだけの理由で崖の方を向いていると

ピシリと今まで聞いた事のない妙な音と共に、

大きな罅がコンクリートの表面に奔った。

と、同時にエンジンの振動とは微妙に異なる揺れを足元に感じる。

なんだ、と思うのと車の鼻先を茶色の濁流が

轟音と共に流れていくのは同時だった。

「……な」

何が起きたかようやく理解できたのは、

腹の底を揺さぶるような轟音がやんだ頃。

雨のせいで地盤が緩んだせいなのか、がけ崩れが起こったのだ。

あのまま走り続けたら、きっと巻き込まれていた。

どっと全身から汗が噴き出し、安堵の長いため息が漏れた。

バスのお陰だ、と考えてハッとなった。

慌てて車から降りると、

目に飛び込んできたのは完全に道路をふさいだ

土砂と、それに押し流され、

まるで大型動物の死がいのように道路に横倒しになったバスの姿。

片は慌ててポケットから携帯電話を取り出す。

一刻も早く消防に通報しなければ。

だが、液晶には無情にも圏外の文字が記されている。

「おい、大丈夫か」

雨に濡れながら片はバスに駆け寄った。

「……乗客が、怪我を……」

か細い声で答えたのは、こめかみから血を流し

ハンドルにしがみつくような格好をした運転手だ。

片が手を伸ばすと夢中でそれにしがみついてきた。

硝子が割れた窓から彼を引っ張り出し、手早く傷の具合を確認する。

「私は大丈夫ですから、他のお客さんを」

「何人ぐらい乗っていたんだ」

「たしか、15人ほど」

片は頷いて先ほど運転手を引っ張り出した窓から上半身を突っ込む。

幸運にもバスは土砂の上を滑るような形で横転したらしく、

車内が土が流れ込んでいると言う事はなった。

「皆さん、大丈夫ですか」

片の呼びかけに乗客たちがか細い返事を上げながら、

よろよろと立ち上がった。

どうやら歩けないほど重症者はいないようだ。

安堵しながら、片は乗客たちの脱出を手助けする。

「貴方で最後ですか」

その問いに、足から血を流しながらバスから引っ張り出された中年の女性は首を振った。

「まだ、後一人……中に。声をかけても、動かなくて」

片は女性が外に出るのと入れ替わりに、横倒しになったバスにもぐりこんだ。

割れた窓ガラスが散乱し、ぐらぐらと不安定に揺れるバスの中を注意深く進む。

「もしもし、大丈夫ですか」

残された乗客は一番損傷が激しい後部付近に座席に腰を挟まれる形で倒れていた。

まだ若い、十代後半と思える女性で、何度か大声で呼びかけると

うっすらと目を開いた。

……JCS2-20……

余り状態はよくない。挟まれている個所を指で触るとじっとりと湿った感覚があり

女性が痛そうに顔をゆがめ、小さな声でうめき声を上げた。

下肢に出血あり、さらに骨盤骨折の疑いがある、やっかいだな。

腸骨翼が骨折していた場合、腰動脈が傷つき骨盤内に大出血をしている

可能性がある。

とにかく自分ひとりで救助は無理だ。早く助けを呼ばなければ。

「すぐに助けるから、まっていろ」

聞こえているかどうか判らないが、女性を励ますとバスからはい出る。

他の乗客たちは運転手と一緒に雨に濡れながら路肩に呆然と座り込んでいた。

こちらもいくら軽傷とはいえ、このままではまずい。

一度村に戻り、そこから通報すべきか。と考えた時

村の方から数台の自動車がやってくるのが見えた。

「大丈夫か」

どうやら村からもがけ崩れの様子が見えたらしい。

やってきた十数名の村人は、恐らくバスの乗客の家族なのだろう。

口々に名前を呼びながら怪我をした人々の元に駆け寄っている。

片はその中に山田の顔を見つけた。彼は一瞬気まずげな顔をしたモノの

すぐに誰かを探しているのかきょろきょろとあたりを見回した。

「おい、これで乗客は全部なのか」

「まだ中に一人取り残されている。10代後半の女性で

骨盤骨折の疑いがあり重症だ。消防に通報はしたのか。

一刻も早く救出して病院に搬送しないと手遅れになるぞ」

矢継ぎ早な片の説明に、山田の顔色がみるみる青ざめていく。

「通報したんだろう」

「通報は、した。だが救急車はいつ来るか判らない」

「どういう事だ」

訊ね返した片に、別の村人が

がけ崩れはここだけではなく、実は三か所同時に起こっていて

若槻市との交通は完全に遮断され、村は今孤立状態にあると泣きそうな顔で

説明した。

「……丈一郎君、中にいるのは女子高生で間違いないんだな」

「十代後半の女性なのは間違いない。知り合いか」

「妹の、美香だ」

山田は呻いた。

片は唇をかみしめる。先ほど見た限り彼女にはいつ来るかわからない

救急車を待っている時間はない。

「……彼女を助け出す、手伝え」

数十秒考えて片は決心した。

「助け出すって、俺達は素人だ。怪我人は動かさない方がいいんじゃないのか」

「それは頭を強く打っていた場合だ。俺はさっきバスの中にもぐりこんで

彼女を診た。頭は打っていないが骨盤を骨折している疑いがあり、危険な状態だ。

いつ来るかわからない救急車など待っている余裕はない」

片は居並ぶ村人を睨みつける。仙沢村の人々への憎しみは消えたわけではないが

今は目の前で消えようとしている命を助けるのが先決だ。

「ば、バスから引っ張り出せば助かるのか。美香は」

震える声で問いかける山田に、片は即答した。

「全力は、つくす」


                   ※


幸い残された乗客――山田美香を挟んでいた座席は梃子でも動かない、

といった類のモノではなく数人がかりでそれをどかし、

彼女をバスの外に出す事に成功した。

「俺の車に乗せて村に戻ろう」

ランドクルーザーの後部座席を倒し、彼女と山田、そして軽傷者も二人ほど乗せると

片は車をUターンさせた。他の乗客たちも家族の車に乗せられて後に続く。

「村に医療設備や医薬品はあるのか?」

片の問いに、山田は強張った顔で首を振る。

「診療所は1年前に閉鎖されて、医薬品は何も残っていない。

医療設備は、レントゲンくらいはあったと思うが詳しくは知らない。

各家庭の救急箱に包帯と消毒薬くらいはあると思うぞ」

……最悪だ……

ハンドルを握っていなければ片は両手を挙げて天を仰ぎたい気分だった。

骨盤骨折と腰動脈出血は疑われる場合、

すぐに腹部大動脈と下部腰動脈の造影を行い

出血が確認できれば輸血をしながら塞栓術を行う必要がある。

「助かるのか、なあ。美香は助かるのか」

繰り返される問いに片は答える事が出来ない。

これから行く先がもし坪内総合病院だったなら、

どんなに良かっただろう。

例え自分が研修医なのではなく、

10年修業を積んだベテランの外科医であったとしても

設備も何もない場所で、患者を助けることなどできない。

焼けつくような敗北感が胸を焦がしていく。

「さっきまで我々がいた公民館、あそこを臨時の診療所にしてくれ」

「わかった、村に着いたら各家庭から包帯や消毒薬を集めてくれ、ないよりはましだ」

しかし、諦めるわけにはいかなかった。

村に戻ると、片は美香だけは車に残し他全員を公民館の一室に集めた。

集められた貧弱な医薬品で治療を開始しようとした、その時

「片先生、お電話です。坪内総合病院の小鉢って人から」

事務員らしき中年の女性の言葉に片は驚く、

なんで科長が俺がここにいる事を知っている。

「もしもし」

「もしもし、片君 今君は仙沢村にいるこのか」

一瞬自分の願望故の空耳かと思った

だが手渡されたコードレスタイプの電話から聞こえてきたのは紛れもない

科長の声だ。

「小鉢科長、なんでそれを」

「詳しい話は後だ。1時間ほど前に仙沢村から119番通報があった。

がけ崩れにバスが巻き込まれたとか。

しかし若槻市から村へ通じる道路は複数のがけ崩れで

寸断された状態だ。片君、事故の様子や怪我人の有無は判るか」

「怪我人は15人。うち一人は重傷です。

JCS2-20、骨盤骨折で腰部大動脈損傷の疑いが濃厚です」

受話器の向こうでなにごとか話し合う声がする。

「医薬品や医療設備は」

「ほぼ皆無です。このままでは重症者は助かりません」

悲鳴のような声で片は報告した。

「わかった。10分待て」

……なんで、と問う前に電話は切れた。それと同時に

「丈一郎君、美香が、美香が」

山田の絶叫が聞こえた。

「どうした」

「様子が、急におかしくなって」

片が車に駆け戻ると、後部座席に寝かせられた美香の顔色は

真っ青で額にうっすらと汗がにじんでいる。

首筋で脈拍を測ると。かなり早い。

出血性ショックの初期症状だ。

「たすかるのか、なあ、助かるのか」

片の厳しい表情を見て、山田が地面にへたり込んでただそれだけを繰り返す。

患者の症状は瞬きをするごとに悪化していく。

片は唇を切れるほど噛みしめた。

設備と物品がなければ、医者なんて何の役にも立たない。

このまま患者がこん睡し、

そして死に至るまでただ黙って見ているだけなのか。

「ちくしょう」

呻くように呟いた時、突風が巻き起こった。

「なに?」

慌てて片が上を見上げると、

暗さを増したそらに銀色の機体が浮かび上がって見えた。

「防災用ヘリコプター」

それはまるで何かを探すように片達の上空を二、三回旋回すると、

公民館と道を挟んだ駐車場に静かに着陸する。

そこから大きなかばんをたすき掛けにした小鉢科長と

その妻が駆け下りてくるのを認めた時、

片は驚きとそれを上回る安堵感で、腰が抜けそうになった。



続く




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