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第一話

1990年代末、地方都市若槻市の白鳳大学病院で働く 外科の二年目の研修医

である片丈一郎は、口の悪さと不遜な態度で指導教授との摩擦が絶えることは

ない。ある日ついに懲罰的な意味で、坪内総合病院救急科へ派遣される。

そこで科長として働く小鉢医師の献身的な態度に、片は過去のある経験から

激しい反発を抱くのだが……

Introduction


医師国家試験に合格したと判った時、片丈一郎《かたじょういちろう》は

まず真っ先に一冊の蔵書をバラバラに分解した。

「シュバイツアー」

数十年前に発行された児童向けの本は、何度も読み返したせいで手あかで薄汚れていたが

装丁はまだまだしっかりとしている。

力を籠めてページを引っ張ると、文庫本の数倍の厚みのあるそれは

悲鳴に似た音をたてて背表紙から引き剥がされる。

胸に湧き上がった僅かな罪悪感を唇をかみしめる事で押し殺し、片は黙々と作業を続けた。

やがて全てのページを分解し終わると、紙の束を片手にシュレッダーのスイッチを入れる。

唸り始めた低いモーターの音を聞いていると、

片の脳裏に鮮やかに父親を荼毘に付した時の様子が蘇ってきた。

自殺、ということで大っぴらな葬儀は行う事が出来ず、母と姉、そして自分だけが見送る中

父の棺は古びた台車に乗ってゆっくりと火葬炉の中に運ばれていく。

その時ずっと聞こえていた台車の軋む音に、このモーターの音はそっくりだ。

苛立ちと怒りが同時に腹の底から湧きあがり、

ぶつけるような激しさで紙の束を投入口に押し込む。

モーター音にガリガリと刃が紙を切り刻む濁った音が混じり、

受け皿に細切れになったページが積み上がって行く。

さらに片は机の引き出しを開けると、実習で使っていたメスを乱暴な動作で取り出し

それを思い切り表紙だけになってしまった「シュバイツアー」に突き立てた。

衝動のままにメスを表紙に叩きつけていると、やがて刃が折れた。

その軽い衝撃と、乾いた冷たい音にようやく片は我に返る。

切り裂かれた表紙に描かれた老人は、相変わらず柔和な笑顔で片を見つめ返していて、

いつのまにかモーターの音は止まっていた。

受け皿に山盛りになった細切れの紙クズと表紙を纏めてゴミ箱に突っ込むと、

本棚からもう一冊、皮張りの表紙の分厚い本を取り出す。

剥げかけた金色の箔押しで「日記帳」と書かれたそれのページを、

片は先ほどと同じように力を籠めて引き裂こうとした。

だが、ページを埋め尽くす群青色のインクで書かれた父親の繊細で几帳面な文字を見たとたん

ページを引っ張る指から力が抜けていく。

それを引き裂く代わりに、片は微かに震える指先でページをめくっていった。

象牙色の紙を埋め尽くす群青色の文字は、十四年前の春のある日で終わっている。

片は日記帳を閉じるとそれが聖書であるかのように、革表紙の上に右手を

置き宣誓をするような小声ではあるが、きっぱりとした口調で呟く。

「俺は、親父のような医者にはならない」


Chapter 1


「片君、私は君が優秀な研修医であることは理解しているよ」

 白鳳《はくほう》大学病院第一外科、医局。浅く椅子に腰かけて、

組んだ両手の指を一瞬の落ち着きもなく動かしながら言葉を紡いでいく田村教授を、

片は薄笑いにも似た表情を浮かべて見つめた。

「ありがとうございます」

明るく、朗らかにすら聞こえる口調で礼を言った片に、

教授は癇性にこめかみをひくつかせながら

それでもかろうじて笑みらしきひきつりを口元に浮かべる。

生意気なひよっこをそれでも優しく教え諭す指導者を気取りたいのだろうな、

と片は冷やかに胸中で分析した。

「だがね、医者は技術だけじゃ駄目なんだよ」

「判っていますよ」

「判っているのなら、なぜ君は態度を改めない」

「誰に対して、のですか」

「患者さんにきまっているだろう」

律義に問い返していく片に、ついに教授は声を荒げた。

時刻は午後の四時。今日は大きな手術の予定もなく

医局にはいつもに比べて多くの医師や研修医達が詰めていた。

その誰もが息をひそめながらも、好奇心旺盛な視線を怒鳴る教授と

対象的に薄笑いを浮かべる片に向けていた。

「この間の喫煙所での一件は何だね」

「あれですか」

片の唇がはっきりと笑いの形に歪んだ。

「いくら術後の経過が良く、退院間近とはいえタバコを吸うようながん患者に

当然の事を言ったまでですが」

「モノには言いようがあるだろう、よりによって手術は時間の無駄だったなどとだねえ」

「その通りじゃありませんか」

小さくため息をつくと片は再び口を開く。

「我々は病の元を取り除き、患者の治癒に全力を尽くします。ですが

患者本人が自らの意思で再び病院の原因となるような物質を接種しているなら、

我々のしたことは時間の無駄以外なんだというのですか」

「君がそう思っていたとしても、言い方を考えたまえ」

「自分の癌の手術をした医師の一人に向かって『何をしようと俺の勝手だ』と叫ぶ患者に

優しく諭した所で聞き入れてもらえるとは思いませんがね」

「むむむ」

田村教授は顔を赤黒くさせて黙りこむ。

周囲の医師達がつばを飲み込む音さえ聞こえそうな張り詰めた沈黙は

「所で、片君は他の研修医達に比べて当直の回数が大分少ないね」

怒りにかすれる教授の声に破られた。

どうやらこれ以上問答をしても自分の不利と悟ったらしく、強引に話題が替えられる。

「皆無ではありませんし、勤務は真面目に取り組んでいますよ」

「私が研修医の頃は給料すらでなかったよ。、それでも勉強させてもらっているのだから

という自負があったから、指導医に言われれば、何でも「はい」と引き受けたものだが

時代は変わったねえ……」

「失礼ですがそれは教授自身の主観にすぎませんよ」

不敵な表情のまま、片は教授の嫌味に真っ向から立ち向かう。

「研修医は修業中の身ですが、奴隷ではありません。それに俺は

体がぼろぼろになるまで働き続けることに喜びを感じるような

マゾヒスティックな趣味はあいにく持ち合わせていないのですよ」

「口を慎みたまえ!!」

ついに教授は椅子を蹴倒す勢いで立ち上がり、両手を机に叩きつけた。

それでも片は表情を変えることさえせず、

「お話は以上ですか、では回診の時間ですので失礼します」

慇懃に一礼した。

「お母上の白衣の下に逃げ込めると思って小僧っこがずいぶんと増長したものだ。

お父上が今の君を見たらさぞかし嘆くだろうよ。やはり血より教育だな。

私は長生きをして、自分の子供をしっかりとしつけたいものだ」

部屋を出ていこうとする片の背に投げつけられた教授の精一杯の皮肉の反撃に

ぴたりと彼の足が止まった。

瞬時に又張りつめた沈黙が部屋の中に落ちる。

部屋の誰もが片が再び教授の前に引き返して、嫌味と皮肉の砲火を浴びせるだろうと身がまえたが

片は、無言のまま医局を出て行った。


Chapter 2


「姉さん、来るならもう少し早く連絡してよ。俺が当直だったらどうするつもりだったのさ」

「ごめんなあ」

日曜日の夕刻、人と車で混雑し始めた駅前で姉の晶子《しょうこ》

は迎えに来た片に謝りながらも、

「でも休みやったんやから、結果オーライってことで」

と次の瞬間にはにっこりと笑って彼の運転してきたランドクルーザーの助手席に乗り込んだ。

「休みでも、予定があったかもしれないぜ。デートとかさ」

「そんときは遠慮してまっすぐ帰るで。でもあんたの事やから

休日はデートよりもドライブか料理やろう、ちがった?」

と、あっけらかんと言い放つ姉に片はハンドルを握りながらため息をつく。

「ま、そうだけどさ」

この五つ上の姉にはどうにも敵わない。

「一日中海岸沿いをドライブしてたよ。姉さんはどうして急にやって来たのさ」

「東京で開かれた学会に出席してたんよ。本当は泊まりの予定やったんやけどな」

大阪で美容外科を開業している晶子は、しばらく会わないうちに

怪しげな関西弁を喋るようになっていた。

「隣の席に座っていたおっさんがそりゃあ熱心にアフターのお誘いをかけてくれはって。

会場にはピチピチのお姉ちゃんたちもぎょうさんおったのに、わざわざ三十過ぎの

おばはんを御指名してくれたのはありがたいんやけど、どうひいき目に見ても

好みやなくてなあ。学会が終わってもぴたーっとくっついて離れる気配がないもんやから、

すぐに帰りますぅって、新幹線に飛び乗ってしまったんよ」

時折身ぶり手ぶりを交えながら喋り続ける晶子は、二十六歳の片と同い年に見える位

若々しい容姿をしている。双子ですかと尋ねられた事も一度や二度ではない。

まあ、美容外科医ともなれば、自分の容姿を一定のレベル以上に

保ち続ける事も仕事の一つなのだろう。

「久しぶりの東京やったのになあ、ってがっかりしてたら、ふとあんたの事

思い出してね。一昨年の正月にあったきりやから、元気かなあと思って途中下車したんよ。

ついでに最近美味しいご飯と御無沙汰してるし」

「というか、目的は飯で俺の方がついでだろう。時間が時間だから、あまり凝ったもんは

作れないぞ。ドライブの途中で寄った漁港で鯛を買ったから、

刺身と……後は兜煮くらいだ」

「十分や。外食は続くと疲れるんよね。あ、ついでに粗でうしお汁も作って」

「はいはい」

片は呆れたように呟いてハンドルをきった。

彼が住む若槻市は東京から新幹線で一時間半の所にある特徴はないが、

地方都市の中では活気のある街だ。そこにある白鳳大学の医学部に進学したのを機に

都内の実家を離れ、一人暮らしをはじめて八年が過ぎようとしている。

ランドクルーザーが止まったのは、二〇階建ての高層マンションの駐車場。

フロントに二十余時間常駐しているサービススタッフの意味ありげな視線を浴びながら

二人はエレベーターに乗り込んだ。

                  

                       ※


「相変わらずキッチン以外はすごい有様やなあ」

医学書や着替えが所構わず散乱し、殆ど床が見えない

リビングダイニングを見回して、晶子は呆れたように言った。

「しかも寝室があるのにソファで寝てるん?母さんが知ったら嘆くで」

「研修医の生活を知らないわけじゃないだろう。昼夜関係なく

体力の限界まで雑用に追いまわされて、部屋を移動する暇があったら

その分長く寝ていたいんだ。母さんが目くじら立てるなら

この部屋をでていくよ。雀どころか蟻の涙ほどだけど一応は給料をもらっているんだし」

「出来もしない事を言わんの」

姉は苦笑しながら、ソファの上にだらしなく広げられた毛布を

畳んで隅に置いてから、そこに腰を下ろす。

「二十畳のリビングダイニングに寝室、システムキッチンはドイツ製。

そんな部屋に住んでいた人が、今更六畳一間の風呂なしアパートには住めへん

大人しく親のすね齧っとき」

「だったら文句はその位にしてくれよ」

「はいはい」

すっかりくつろいだ様子でテレビをつけた姉の後ろ姿にやれやれと肩をすくめて、

片はリビングダイニングとは対照的に整頓され、磨きたてられたキッチンに

今日の収穫が入れられたビニル袋をぶら下げて入った。

染み一つない真っ白のまな板の上に乗った黒みがかった桜色の真鯛を

男性にしてはほっそりとした長い指が握る包丁が、無駄のない美しいとさえいえる動きで捌いていく。

「うわ、相変わらず美味しそうやなあ。新幹線下りて正解やったわ」

四十分後、無垢材のテーブルの上に並べられた刺身や兜煮などの料理を見て、

晶子が子供のような歓声を上げる。

冷酒を満たした薩摩切子のグラスで乾杯をして、久しぶりの姉弟二人の夕飯が始まった。

「で、あんた何をやったん?」

晶子が尋ねてきたのは、皿がほぼ空になった頃だ。

相変わらずの軽い口調だが、表情は酷く真剣だった。

「何やったって言われてもなあ」

姉から目をそらし、気まり悪げに骨ばかりになった鯛の頭を箸先でつつきまわす片に、

「心当たりはあるんやろう?何もやらずに大学から追い出されるわけないんやから」

さらに晶子は畳みかける。

「追い出されたわけじゃない。医師不足の病院に手伝いと勉強を兼ねて三か月ほど

派遣されるだけだよ」

「阿呆」

片の鼻先に、白と紫の色彩が突き付けられる。綺麗にマニキュアを塗った晶子の指先だ。

「坪内総合病院の救急科といえば、二次救命施設の中でも忙しさは戦場なみや。

常勤医は二名しかおらんのに、歓楽街で有名な猿若町から一番近い病院やさかい、

患者はひっきりなしに運ばれてくる。

研修医二年目のあんたが現場に入った所で、勉強どころか足手まといになって

役立たずの烙印を押されて、返されるのがオチや」

「……あの陰険な性格の教授がやりそうなことだな、でも姉さん何でそこまで知っているんだよ」

苦虫をかみつぶした表情で、片は驚く。医局で教授とやりあった日から二週間がたっている。

片自身もこの一件を知らされたのは三日前の事だ。

「片君の優秀な腕前をぜひ現場でいかしてほしくてね」

と言った時の教授の歪んだ笑みと猫なで声は、今思い出しても背筋におぞ気がはしる。

「外科医の世界の狭さを甘く見ない。規格外の人事や噂はすぐに広まるんよ。

片なんてめったない名字だし、母さんが良くも悪くも目立つ人だから、余計、ね」

「へえ」

片は自分の唇に笑みが浮かぶのを感じる。鏡が目の前にあるわけではないが、

酷く歪んだモノであるという確信はあった。

「儲け主義で有名な片美容整形外科の院長の息子がってか。医者って人種は

他人の成功を妬む奴が多いと思っていたけど、

息子の人事まで母さんの誹謗中傷のネタにするなんて流石だねえ

で、どんな尾ひれがついているんだい」

「丈一郎」

会って初めて晶子はため息交じりに弟の名を呼んだ。

「いくらなんでもそこまで性格のねじくれた医者はおらんよ。

まあ、蔭口の一つや二つは聞こえてくるけど、今更そんな事で傷つく私や母さんやあらへん。

私が心配なのはあんたの事だけや。で、本当に何やったん?」

再三尋ねられて、やっと片は渋々二週間前の医局での出来事を姉に話した。

「丈一郎、あんたなんで臨床医になったん?研修医制度が不満なら、

厚生省の技官にでもなればよかったのに」

「俺は別に、今の研修医制度を変えたいなんて大層な事を考えちゃいない」

グラスの底に残った僅かな冷酒で唇を湿らせて、片は答える。

体の奥から酔いとは別の熱が、苛立ちを伴ってゆっくりと湧き上がってきた。

「ただずっとそうだったという理由だけで、

研修医が碌に休みも給料もなく奴隷同然の扱いを受けるのを当然だと思う空気と、

苦しい時だけ医者に泣きついて、痛みが取れれば医者の忠告に怒鳴り返すような病人が

我慢できないだけだ」

「あのなあ」

吐き捨てるようにそう言って、指が白くなるほどテーブルの上で拳を握りしめる弟に、

姉は宥めるように語りかける。

「丈一郎の言っている事は正しいし、理解もする。

でもな、世の中には正論でつっかかっていってもどうにもならん事があるんよ。

あんたがぼろぼろになるだけや……それに」

「それに?」

「いくら今あんたが突っ張って正論を叫んでも、お父さんは戻って来んよ」

「何でそんな話になるんだよ」

ついに片は声を荒げた。

「俺は唯、黙って耐えるなんて馬鹿げた行為が出来ないだけだ。

医者に……外科医になったのはせっかく母さんがあそこまで大きくした病院に、

後を継ぐ人間が必要だと思ったからだよ」

「そう」

静かに頷いて晶子は立ち上がり、リビングダイニングの片隅に置かれた本棚から

古びた革表紙の冊子をとってきた。

「お父さんの日記、実家をいくら探してもないと思っていたらあんたが持っていたのね」

「……」

姉がこの日記の存在を知っていた事に驚きながらも何も言えない片に、

晶子は仄かな苦笑を向ける。

「おぼろげな記憶だったけど、さっきこれを見てはっきりと思い出したわ。

お父さんはよく夜遅く書斎の机でこれに万年筆をはしらせてた」

と懐かしげに晶子は革表紙をなでる。片は怖々と尋ねた。

「中を、読んだことはある?」

「ないよ」

晶子は小さく首を振る。

「人の日記なんて読むもんやないやろう。それに私はあの時、一人で東京に残っていたから

あの村で何があって、お父さんがどうして自死を選んだか、判らないし知りたくもないんよ。

真実を知った所で、もう過去は替えられないんやから」

「そうか」

今度は片が頷いて、晶子の手元から日記帳を引き寄せる。

二年前、医師国家試験に合格した時破り捨てようとしたために、

ほんの少しであるが装丁が歪んでしまっている。それを姉が気付いたかどうか。

「丈一郎が違う、言うんならそれでいいんやけどな。面従腹背って言葉があるように

一人前になるまでは納得できない事には目をつぶって、気にいらない事は受け流すっていう

技術も必要や。あんたは変な所で不器用やから難しいやろうけど、技術は日進月歩でも

それを使う人間の心は化石。あんたが飛び込んだ世界はそう言う所なんやから」

「判っているよ姉さん。俺もそこまで馬鹿じゃない。派遣先の病院では猫を被って

一刻も早く島流しが解けるようにするさ。

そして、研修期間が終わったら日本に見切りをつけるって選択肢もあるし」

努めて明るく答える片に、しかし晶子は不安げな表情を変えようとはしなかった。

「……限界やと思ったら、やめてもいいんやで。病院には私がおるし、

あんたが別の道を進みたいと言うても、母さんは喜んで賛成してくれるとおもうわ」

「姉さんには、大阪の支院があるじゃないか。関西進出は母さんの念願だったんだろう。

それになって二年だけど、俺は医者という仕事が好きなんだ」

「そう、ならさっきも言ったけどもう少し鈍感で器用になり。

……でもあんたが思ったより元気そうで安心したわ」

やっと再び笑顔を見せると、晶子はごちそうさまと軽く一礼して立ち上がった。

「帰るの?」

手早く荷物をまとめながら、晶子は頷く。

「今から駅に行けば最終の新幹線に間に合う。明日朝から手術が三件はいってるんよ」

「じゃあ駅まで送るよ」

「飲酒運転はあかんよ。そこらへんでタクシー拾うから気にせんで」

小走りで玄関に向かいながら晶子は言った。

「あ、そうそう。来年の正月には実家に帰ってくるんやで

今日のお返しに灘の生一本用意しとくから。じゃ、体に気をつけて」

靴を履きながら、最後に早口で告げると、来た時と同じように姉は

あわただしく去って行った。

空になった二人分の食器と一緒に部屋に残された片は、日記帳を触りながらポツリとつぶやく。

「泊まりの予定なんて見え透いた嘘、つくなよ」

忙しい時間を割いて自分の様子を見に来てくれた姉に感謝しつつも、

ほんの僅かでも規格外のことが起こると疾風の速さで話が伝わるこの世界に、

改めて嫌悪感を覚えた。

外見上は強固、堅牢を装いながら、内部には不満と矛盾が渦巻き、

隙あらばお互いの足を引っ張り合おうと虎視眈々とお互いを監視し合っている。

そしてそれを指摘し、改善しようとする者に対しては賞賛ではなく懲罰をもって報いる。

これが二年間かけて片が学んだ彼が生きていこうとする世界の真実だ。

ずっしりとした疲労が両肩にのしかかるのを感じながら、片は二年ぶりに日記帳を開く。

開いたページは十六年前の春の日付が記されている。そこから後は空白のページだ。

「私の死が、多くの医師とそれを必要としてくれる人達に何かを考えさせ、

気付かせてくれる事が最後の願いだ」

父が最後に記した文章には、赤い二重線が小刻みに震えながら引かれている。

これを引いたのは、多分父ではないだろう。

「願いは、叶いそうにないよ。父さん」

片の呟きに、答えなど無論返ってくるはずがなかった。


                            ※


「やあ、よく来てくれたね。僕は小鉢瑠架。肩書きは救急科長だけど、

実はまだこの病院に来て二年目でスタッフの別当医師の方が勤務歴は長いんだ。

君の優秀さは田村教授から窺っているよ。短い期間だがよろしく頼む」

一週間後、坪内総合病院に初出勤した片は、科長と名乗る医師の愛想のよい挨拶に軽く面食らった。

大学病院では、なんであれ長と肩書きがつく人間は例外なく研修医に高圧的だったからだ。

今片の目の前で笑いながら立っている医師は、一つの科を任される立場にしては随分と若く

そして、黒髪黒瞳でありながらエキゾチックな雰囲気を感じさせる不思議な容姿をしていた。

「実は祖父がクロアチア人でね。こんな顔立ちに生まれついた。ええと」

「片です、片丈一郎。外科の二年目の研修医です」

慌てて自己紹介をした片に、小鉢がおやという表情になる。

「片……というともしかして」

ほら、おいでなすったと片は心の内で軽く苦笑する。

佐藤や鈴木という平凡な姓がこういう時は本当にうらやましい。

「片美容整形外科の院長は、俺の母ですよ」

こういう氏素性はさっさと白状しておくに限る。黙っているとあとでばれた時にいつまでも

ちくちくと嫌味を言われるという前例を片は大学病院で嫌と言うほど味わっていた。

「そうか、じゃあ片敬一郎先生はお父上なんだな。人道主義の立派な先生だった。

夭折されたのが本当におしまれる」

小鉢が喋る言葉一つ一つが、片の心の奥底に不快に響く。

人が語る父は、いつ惜しまれつつ夭折した人道主義の立派な医師。それだけだ。

その父がなぜ夭折したのか。その理由を推し量る者など誰もいない。

「お母上の噂もよく耳にしているよ」

黙ったままの片に小鉢は喋り続ける。

「儲け第一で、エステと区別がつかないようなド派手な広告を所構わず垂れ流し、

金持ちの顧客をあの手この手の美容施術で囲い込み、一方では優秀な医師を方々から

札束で横っ面をひっぱたくようなやり方で引き抜く、と言う噂ですか?」

今度は小鉢が面食らったような表情で黙りこむ。

まさか息子の口から、母を誹謗中傷するような言葉が出てくるとは想像もしなかったのだろう。

「まあ、大分誇張されていますが事実には違いありませんから。

どこの世界でも目立つ者は叩かれますからね」

自嘲的な笑みを浮かべながら喋り続ける片に、小鉢はうん、とかまあとか曖昧な返事をして

「スタッフの紹介をしたいからついて来て」

と言ったっきり後は黙り込んでしまった。

こいつも同じか。と後をついて歩きながら、片は心の中で吐き捨てる。

裏でこそこそ陰口を叩きながらも、面と向かっては愛想笑いでごまかし続ける。

本当にこの国の医者には碌な人間がいない。

すでに片の頭の中からは、姉の忠告など跡かたもなく消え失せていた。


続く








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