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第1話:完璧主義の呪縛

東京・吉祥寺の路地裏に、心地よいドラムの音が響く一軒家がある。そこは、ドラム講師と心理カウンセラーという異色の顔を持つ星野奏ほしの かなでが営む、音楽教室兼カウンセリングルームだ。


鮮やかなグリーンのカバリングが施されたドラムセットと、歴史を感じさせる木目の美しいアップライトピアノが並ぶ空間。そしてその一角には、使い込まれた座面が心地よい布張りソファと、どこか懐かしい雰囲気の素朴な木製ローテーブルが静かに置かれ、ほのかに木の香りが漂う。


長年ドラム講師として活動してきた奏は、音楽を通じてありのままの自分を受け入れることの大切さを学んだ。その経験から、生徒たちの悩みに寄り添ううちに、彼らの内なるリズムを整えるカウンセリングの世界へ足を踏み入れたのだ。


今日も、来訪を告げるチャイムの音が静かに響く。


---


「こんにちは、森山と申します」


そう言って入ってきたのは、黒のシックなスーツに身を包んだ、一切の隙を感じさせない女性、森山詩織もりやま しおり、28歳。大手広告代理店に勤めているという彼女の端正な顔立ちには、知的な輝きが湛えられていた。


「森山さん、いらっしゃいませ。星野奏です。どうぞおかけください」


奏は温かいハーブティーを差し出しながら、ソファに座るよう促した。


「今日はどのようなことでお困りですか?」


詩織は、少し躊躇した。


「最近、どうにも疲れが取れなくて……。特に、仕事でのことが原因だと感じています」


彼女の声は静かで、どこか事務的だった。


「なるほど、お仕事で大変お疲れになっているのですね。具体的にどのような時に疲れを感じますか? よろしければ、もう少し詳しく教えていただけますか?」


詩織は、わずかに視線を動かし、ゆっくりと口を開いた。


「そうですね……資料作成の時などでしょうか。一度気になり始めると、もう止まらなくて……。例えば、先月担当した大きなプレゼンの資料作成では、徹夜が続きました。誤字脱字はないか、グラフの色使いやフォントの種類やサイズは適切か。何十回と見直しているうちに夜が更けてしまうんです」


彼女は自嘲するように、乾いた笑みを浮かべた。


「作業を終えていざ寝ようとしても、目が冴えてしまって。ベッドに入っても、もっと良い表現があったんじゃないかとか、見落としている部分はないかとか、つい資料のことを考えてしまうんです。結局、夜中に何度も起きて確認し直したり……。いつも寝不足で休まる暇がない、というのが正直なところです」


「なるほど。お仕事の資料を作る時に目が冴えてしまうとのこと、とてもお辛い状況だとお察しします。ちなみに……」


奏は、わずかに体を詩織の方へ向け直した。


「森山さんのお話を聞いていると、一つ一つの作業に『完璧』を求めていらっしゃるのかなと感じたのですが、いかがでしょうか?」


詩織は一瞬、言葉に詰まった。


「完璧、ですか……」


「はい、完璧です。もしもそうだとしたら、その完璧とは、森山さんにとってどのような状態を指すのでしょうか?」


詩織は顔を上げた。その瞳には驚きの色が宿る。完璧主義という言葉が、まさか自分に当てはまるとは、これまで一度も考えたことがなかった。


「そうですね……とにかく、一点の曇りもなく、誰からも文句のつけようがない最高の状態、でしょうか。少しでも不完全な部分があると、どうにも気になってしまって。だから、どんなに小さなことでも、妥協することができないんです。例えば、企画書のレイアウト一つにしても、ミリ単位のズレが気になって何時間も費やしてしまったり……。自分でも、そこまでする必要があるのかって思うこともあるんですけど」


奏は優しく問いかける。


「なるほど。最高を目指すあまり、ご自身がクタクタになってしまうほど作業に集中されるのですね。お仕事以外ではいかがですか? 例えば、プライベートな人間関係や、ご自身の趣味の時間などでも、同じような状況を感じることはありますか?」


奏がそう尋ねると、詩織は視線を落とし、小さく息を吐いた。


「プライベートでも……割と同じかもしれません。友人との食事でも、私がお店選びをする時は、全てにおいて抜かりなく完璧に準備しておきたいと思ってしまうんです。お店の予約、座席の配置、メニューの選び方まで、全て完璧に準備しないとどうにも落ち着かなくて。結果、いつもクタクタになってしまって、楽しむどころか苦痛に感じることもあったりして……」


彼女の声が、ほんの少し弱くなった。


「正直、何のためにそこまで頑張っているのか、自分でもよくわからなくなっているんです。もう、疲れ果ててしまって、それでも手を抜くことが、どうしてもできない。完璧にしないといけないという思いが強くて……」


奏は、じっと彼女の話に耳を傾けていた。詩織の言葉の一つ一つから、彼女が抱える深い苦悩が伝わってくる。


「森山さんが、そこまで完璧であろうとされるのは、何か理由があると思われますか? 例えば、これまでの経験の中で、そうせざるを得なかった、と感じるような出来事はありましたか?」


詩織は、少し考え込んでから答えた。


「そうですね……特に意識したことはありませんでした。ただ、昔から『できる子だね』と言われることが多くて。学校の成績はもちろん、習い事でも、常に一番であるべき、というようなプレッシャーをいつも感じていました」


奏は、詩織の言葉に静かに耳を傾け、優しく問いかけた。


「『できる子』であること、そして『一番であること』が、森山さんにとって、どのような意味を持っていたのでしょうか?」


詩織は、わずかに視線を落とした。その問いは、彼女がこれまで明確に言葉にしてこなかった感情に触れるものだった。


「それが……普通だと思っていましたし、同時にそれが私の存在価値だと思っていました。テストで99点を取れば、『なぜ100点じゃないの?』と聞かれるような環境で、その期待に応えるために努力を続けてきました」


奏は、ゆっくりと、しかし確かな言葉で語り始めた。


「なるほど。『できる子』であることを求められる環境で育ったんですね。そして、その期待に応えることが、森山さんにとって普通であり、ご自身の存在価値と深く結びついていた。森山さんにとって、完璧であることは、もしかしたらご自身の『価値』や『存在意義』を証明するための唯一の手段だったのかもしれませんね」


「自分の価値を証明する……」


詩織はハッと目を見開いた。心の奥底に封じ込めていた感情が、突然目の前に現れたかのような衝撃と混乱が、彼女の瞳に宿っていた。


「そう、かもしれません。今まで、言葉にはしていなかったけれど、心の奥底でずっとそう思っていた気がします。もし完璧じゃなかったら、誰からも認められないんじゃないかと、ずっと心のどこかで怖かったんです」


「完璧でなければ認められないかもしれない、というお気持ち。私にも経験があるので、とてもよく分かります」


奏は、詩織の言葉に深く共感した。


「仕事で成果を出せなくなったら、誰も私を必要としなくなるんじゃないかと不安で……私には、完璧でいることしか取り柄がないんじゃないかとさえ思えて……。もし完璧でなくなれば、自分には何の価値もなくなってしまう。そう思うと、どんなに疲れていても手を止めることができませんでした。完璧こそが、私の全てであり、唯一無二の存在証明だったんです」


彼女の言葉には、長年抱えてきた切実な思いが込められており、瞳にはうっすらと涙が滲んでいた。奏は部屋の隅のドラムセットに座り、彼女の涙に寄り添うように、スローテンポの優しいリズムを刻み始めた。


「私、ドラムのレッスンをしていて、特に初心者の生徒さんによく言うんです。『完璧なリズムを目指すより、まずは音を出すこと、楽しむことから始めよう』って。最初はみんな、完璧なリズムを刻もうとするあまり、腕や肩に力が入り、体がガチガチになってしまうんです。でも、完璧な演奏ばかり求めると、リズムが硬くなり、音楽の楽しさが失われてしまう。本来、音楽はもっと自由で、心が感じるままに奏でるものなのに、その本質を見失ってしまうんですよね」


詩織は、奏の言葉に静かに耳を傾けた。


「音楽も、そうなんですね……。なんだか、私の仕事と同じような気がします。完璧を追い求めるあまり、本当に大切なものを見失っていたのかもしれない……」


奏は、そんな詩織の反応をじっと見つめ、優しく微笑んだ。


「そうですね。私自身も、駆け出しの頃は『理想のドラマー像』に囚われすぎて、どんなに練習しても思い通りの演奏ができない時期がありました。完璧を求めすぎた結果、ドラムを叩くのが苦痛にさえ感じてしまって。そんな時期に、ある先輩ミュージシャンから『奏はもっと自由に音を出していいんだよ。完璧じゃなくても、君のありのままの音が一番大切なんだ』と言われて、ようやく肩の力が抜けたんです」


詩織は、奏の言葉に、同じような苦しみを経験した者への共感を抱いていた。


「もちろん、今でもたまに、昔の癖が出て『完璧にしなきゃ』って肩に力が入りそうになることもありますけどね。そんな時は、先輩の言葉を思い出して深呼吸するようにしています」


奏は、過去の自分を懐かしみながら、少し照れたように笑った。そして、再び詩織の目を見て穏やかな口調で語りかけた。


「森山さん。アドラー心理学には、『自己受容』という大切な考え方があります。これは、自分の長所も短所も、成功も失敗もひっくるめて、ありのままの自分を受け入れることを言います」


「ありのままの自分を……受け入れる、ですか。」


詩織は、その言葉をゆっくりと心の中で反芻した。


「ええ。森山さんが今感じている『疲れ』や『落ち着かない気持ち』は、もしかしたら、その完璧であろうとする意識から来ているのかもしれません。完璧ではない自分を許し、ありのままの自分を認められたら、もっと楽になれると思うんです。それは、決して『諦める』ことではなく、自分を『受け入れる』ことなんです」


奏の言葉を受けた詩織の表情には、まだ納得しきれないような戸惑いと、わずかながらも興味が浮かんでいた。


「でも……、不完全な自分なんて、誰からも認められないんじゃないでしょうか。もし私が完璧じゃなくなったら、人からも見放されてしまう。私の周りには、いつも完璧を求める人が多かったから……。そんな不完全な自分に、価値なんてあるんでしょうか。それじゃ、私は、何の価値もない人間になってしまう気がして……」


彼女の声には不安や恐れがにじんでいた。奏は、静かに首を振った。


「本当にそうでしょうか? 私たちは、完璧だから価値があるのでしょうか? もしそうなら、完璧ではない人は誰も価値がないということになってしまいます。私たちの周りを見れば、完璧ではないけれど、それでも愛され、尊敬されている人がたくさんいますよね。むしろ、完璧ではないからこそ、人間味があり、助け合い、支え合えるのではないでしょうか。完璧を目指すことと、自分自身の価値を結びつける必要はないんです。詩織さんの価値は、完璧であるかどうかで決まるものではありません」


完璧ではない自分にも価値がある、という奏の言葉は、これまで詩織が固く信じてきた価値観に、わずかながらも確かな亀裂を入れるものだった。だが、長年の習慣はそう簡単に手放せない。彼女の指先が、無意識にスカートの裾を握りしめた。


「それは……頭ではわかるような気もします。でも、感情がついていかないんです。もし、私が完璧でなくなったら、これまでの努力が全て無駄になる。完璧を手放すことは、これまでの私を否定することになるんじゃないかって……。そう思ってしまうんです……」


不安と困惑に揺れる声で、詩織は絞り出した。その瞳は、まだ迷いの色を強く宿していた。奏は、そんな詩織の反応をじっと見つめ、ゆっくりとより深く語りかける。


「そうですね。常に完璧を目指してきた人にとって、完璧ではない自分を認めるというのは、確かにとても勇気がいることです。それは、これまで積み上げてきたものを手放すかのような怖さを感じるかもしれません。アドラー心理学では、不完全な自分を認め、その上で一歩を踏み出すことを『不完全であることの勇気』と呼んでいます。完璧ではない自分を恐れず、ありのままの自分を受け入れ、前に進む勇気を持つことです」


「不完全であることの勇気……」


詩織は、その言葉を反芻するように呟いた。その響きは、彼女の心の奥底に、じんわりと確実に染み渡るようだった。完璧ではない自分を許し、受け入れること。それは、これまで蓋をしてきた感情と向き合うことでもあった。


「私に、そんな勇気があるんでしょうか……。ずっと、そうやって生きてきたから、完璧であることが私の全てだと思って生きてきたから、今さらどうすればいいか、わからなくて……」


彼女の言葉には、迷いと、それでも何かを変えたいという微かな希望が複雑に絡み合っていた。奏は、優しく問いかける。


「そのお気持ち、とてもよく分かります。すぐに全てを変える必要はありません。では、試しに少し想像してみましょう。もし、その完璧であろうとする意識を少しだけ手放し、ありのままの自分を受け入れられたとしたら、どんなことができると思いますか? たとえ小さな一歩でも構いません。例えば、資料作成でいつもより少しだけ早く切り上げてみる、あるいは友人とのお出かけで誰かに任せてみる、といった、どんなことでも構いません」


詩織にとって、これまで考えたこともなかった問いだった。完璧でなくてもいい、と考えること自体が許されないと思っていた。その問いは、彼女の心を柔らかく解きほぐすようだった。


「もし……もし、そう考えられたら……」


詩織は、言葉を選びながら、ゆっくりと話し始めた。


「もしかしたら、もっと肩の力を抜いて、仕事に取り組めるかもしれません。資料作りも、いつもギリギリまで粘ってしまうけれど、もう少し短時間で済ませられるようになるかもしれない……。それに、友人と会うときも、お店選びのプレッシャーから解放されて、もっと心から笑えるようになるかもしれない……。だけど、本当にそんなことができるのか……。私に、できるのだろうか……」


詩織は、不安と期待が入り混じった表情で答えた。奏は静かに微笑んだ。


「そうですね。すぐに全てが変わるとは限りません。でも、少しずつでいいんです。完璧を求めすぎるあまり、本来の目的、つまり『楽しむ』ことや『喜びを感じる』ことを見失ってしまうのは、もったいないことです。それは、まさにドラムも同じで、完璧な演奏を目指すことが目的ではなく、音楽を通して楽しさや感動を分かち合うことが真の目的なんです。完璧な演奏を追求するあまり、音楽が苦痛になってしまっては本末転倒ですよね」


奏は続ける。


「それは、詩織さんの仕事にも言えることなのではないでしょうか。完璧な資料を作ること自体は手段であって、本当に大切なのは、その資料を通じて誰かに何かを伝え、感動を与えること、あるいはクライアントの問題を解決することなのでは? 完璧な資料を作ることに囚われすぎて、本来の目的を見失っていませんか?」


詩織は、静かに目を閉じ、深く息を吸い込んだ。


「……そう、かもしれません。今まで、完璧な資料を作ることが目的になっていたような気がします。それ自体が、私の価値を証明する唯一の手段だと、心のどこかで信じ込んでいたから……」


彼女はゆっくりと目を開け、奏の目を見つめた。


「でも、先生のお話を聞いて、もし、本当に大切なものが、資料の完璧さそのものではなく、その先に誰かの心を動かすことだとしたら……。それは、決していい加減になることではないのですね?」


奏は優しく頷いた。


「ええ、決してそうではありません。むしろ、本当の意味で大切なものに集中し、より良いものを生み出すための『自由』だと言えるでしょう。ありのままの自分を受け入れ、不完全である勇気を持つというのは、完璧を求めることでがんじがらめになっていたご自身を解き放つことなんですよ」


「自由……」


詩織は、その言葉をゆっくりと反芻した。長年、心の奥底で重くのしかかっていた何かが、ふっと軽くなったような感覚に襲われる。それは、頭では理解できても感情がまだ追いつかないような、かすかな変化だった。


「私……少しずつでも、変わってみようと思います」


詩織の声には、まだわずかな戸惑いが残っていたが、それでも確かな決意が宿っていた。


「すぐに完璧を手放せるようになるかは正直、分かりません。これまでの生き方を変えるのは、とても怖いことだから。でも、先生のおっしゃる『完璧でなくても大丈夫な自分』を、少しずつでいいから信じてみたいです。まずは資料作成の時間をいつもより早く切り上げてみるとか、友人との食事のお店選びを一度完全に任せてみるとか、そういうところから始めようかなと思います」


彼女の瞳に、かすかな光が宿る。


「今日、先生とお話できて、本当に良かったです。少しだけ、息ができるようになった気がします」


詩織は、はっきりとそう言った。その声には、明らかに、来た時にはなかった、前向きな響きがあった。


---


カウンセリングを終え、詩織が部屋を出ていくのを見送った後、奏は一人ソファに座り込んだ。今日のカウンセリングで、彼女自身もまた大切な気づきを得ていた。


奏は、自身の経験が詩織の苦悩に共鳴し、大きな力になったことを改めて感じていた。カウンセリングは、相談者と共に、自分自身を深く見つめ直す機会を与えてくれる。そして、ありのままを受け入れる「自己受容」は、決して一度きりの学びではなく、日々育み続けるものなのだと、奏は改めて心に刻んだ。自分の中に潜んでいた「完璧でないと価値がない」という思い込みと向き合い、それを受け入れたからこそ、今の自分がある。その経験が、誰かの光となる。


奏は、再びドラムスティックを手に取った。明日のレッスンでまた新しい生徒が来る。その子にも、まずは自由に、楽しんで音を出すことの素晴らしさを伝えよう。完璧な音を出すことよりも、心が感じるままにリズムを刻む。その方が、ずっと心地よく、豊かな音を生み出すことができる。

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