005. 家族団欒とノアのアイデア
「ツムギ、そろそろ帰るぞ」
ふいにジンの穏やかな声が響き、ツムギははっと顔を上げた。
気づけば、工房の外はすっかり夕暮れ。窓から差し込むオレンジ色の光が作業台の上に影を落とし、工具や布が静かに照らされている。
「えっ、もうこんな時間……?」
ツムギは作業台を見回した。試作したミストスライムウール、ポシェットの修理に使う布、びっしりと書き込まれたメモ帳。まだやりたいことがたくさんあるが、ジンの言葉にツムギは迷う。
「あとちょっとだけ……」
「ダメだ。今日はここまでにしとけ」
ジンは腕を組みながらツムギを見つめる。
「夜更かしして明日ぼんやりしてたら、かえって作業の効率が落ちるぞ。それに、飯が冷める」
「うぅ……でも、せっかく流れに乗ってきたのに……」
ツムギは未完成のポシェットに目を落とし、針を手に取ろうとした。だが、その瞬間、ぽてがふわりと飛び上がり、ツムギの手の上にぽてんっと降り立った。
「ぽぺ!」
「……ぽてまで?」
「ぽぺぺ!(ごはん!)」
「……はぁ、仕方ないなぁ」
ツムギは観念したように針と糸を片付けた。ジンはくすっと笑いながら、ツムギの頭をぽんぽんと軽く叩いた。
「ほら、明日になったら、また違ったアイデアが浮かぶかもしれないぞ」
「……うん、そうだね」
名残惜しそうに作業机を片付け、ぽてを腕に抱えたツムギは、ジンと共に工房を出た。
扉を開けると、ひんやりとした夜風が肌を撫でた。町の通りには灯りがともり、夕飯の支度をする家々から、ほのかに煮込み料理の香りが漂ってくる。石畳の道を歩く人々の足音が軽やかに響き、遠くで子どもたちの笑い声が聞こえる。
「……なんだか、お腹すいてきたかも」
ツムギがぽつりと呟くと、ジンがニヤリと笑う。
「それならちょうどいい。今日はノアが何か張り切って作ってたぞ」
「えっ、またお母さんの“特別な料理”じゃないよね……?」
「さあな。俺もまだ知らんが……お前の母さんの料理は、たまに想像を超えてくるからな」
「ぽぺぇ……(ちょっとこわい)」
ツムギとぽては顔を見合わせ、小さくため息をついた。とはいえ、どんな料理が出てくるにせよ、家に帰って家族で囲む食卓はきっと温かいものになる。
「……とりあえず、帰ろっか」
ツムギは小さく微笑みながら、家へと足を進めた。
家の扉を開けると、ふわりと温かな香りが鼻をくすぐった。煮込んだスープの匂いに、焼きたてのパンの香ばしさ、何か特別なハーブの香りが混ざっている。
「ただいまー」
ツムギが声をかけると、奥からノアの朗らかな声が響いた。
「おかえりなさーい! ちょうどご飯ができたところよ!」
キッチンからひょこっと顔を出したノアは、エプロン姿のまま、大きな木のスプーンを片手にしている。
「今日はね、ちょっと特別なスープを作ったの!」
「……え? ‘特別’って……」
ツムギは一瞬、ジンと顔を見合わせる。ジンは微妙な表情を浮かべたが、「ま、座れ」と言いながら席についた。
「ぽぺ!(たべる!)」
ぽてはツムギの腕からふわりと飛び出し、テーブルの端っこにちょこんと座った。
ノアは笑いながら、ぽての分のスープを小さな木皿に取り分け、スプーンで細かく刻み始めた。
「うんうん、ぽてもみんなと同じごはんが食べたいもんね!」
ツムギが嬉しそうにぽてを撫でると、ぽてはちいさく「ぽぺ!」と鳴いて、嬉しそうにスープをのぞき込んだ。
「そういえば、ツムギは今日、どんなお仕事してたの?」
ノアがスープをすくいながら問いかける。
「うん、今日はね……初めて、一人で修理の依頼を受けたの!」
「まあ! それはすごいわね!」
ツムギは嬉しそうに頷きながら、今日あったことを順番に話した。ハルが工房に来たこと、大切なポシェットを直したいと言ったこと、ぽてが気に入った風紡草と交換で仕事を引き受けたこと。
「それでね、ポシェットの中身を守れるように特別な布を作ろうと思って……生地ができたんだけど、これなんだかすごく不思議な手触りなんだよね」
ツムギは作業用の布袋から、試作したミストスライムウールの生地を取り出し、ノアにそっと差し出した。
「わぁ、これがツムギが作った生地なのね!」
ノアは目を輝かせながら、手のひらに広げて軽く触れた。
「……ふわふわしてるのに、ちょっとだけしっとりしてる?」
「そうなの。スライムのジェルを混ぜたから、普通の布よりも柔らかいのに衝撃を吸収してくれるんだよ」
「へぇ~、なんだかお菓子みたいな手触りね!」
「……えっ、お菓子?」
ツムギが驚いた顔をすると、ノアはくすっと笑いながら続けた。
「ほら、よくお祭りで売ってる、ふわふにゃのグミ! それにちょっと似てる気がしない?」
「……うーん? まぁ、ふわふにゃな感じはわかるけど」
ツムギが首をかしげると、ノアはスープを口に運びながら、ぽんっと手を打った。
「じゃあね、いっそ、ポシェットの中でふわふにゃに包むようにしたらどう?
生地を袋状にして、その中に荷物を入れるの。そうすれば、中身が衝撃を受けにくくなるんじゃないかしら?
ほら、昔、おばあちゃんが大事な小物を包んでた巾着袋みたいに!」
ツムギはスプーンを持ったまま考え込む。
(ポシェットの中にそのまま生地を縫い付けるのではなく、小さなクッションみたいな仕切りを作っておく……? それなら、入れるものに合わせて形を変えられるかもしれない!)
「……やってみる価値はあるかも!お母さん、すごい! それ、試してみる!」
「ええっ、本当に!? なんとなく言ってみただけなんだけど……」
ノアは目を丸くしながら、くすくすと笑った。
「でもね、大事なのは発想力よ。何事も、やってみないとわからないもの!」
「うん、そうだね!」
ツムギは、とても美味しかった謎スープを飲み干し、すっかり気持ちを切り替えていた。今日の試作の失敗を踏まえて、新しいアプローチを試すことができる。明日はまた新しい挑戦が待っている――そう思うと、胸が弾んだ。
ぽても満足そうにスープの最後の一滴をすすり、「ぽぺぇ♪」と嬉しそうに鳴く。
家族との団欒の時間は、ツムギにとって、いつも新しいアイデアと温かさをくれる。
夕食をおなかいっぱい食べ、お風呂に入ったツムギは、湯気の立ち込める浴室から出ると、ほかほかの体をバスタオルで拭きながら大きく伸びをした。
疲れた体が温まり、心地よい眠気がじんわりと広がる。ぽてもお風呂の湯気をふわふわと浴びて、しっとりした毛をぶるぶると振るわせていた。
「ぽぺぇ~……(ねむい~)」
「うん、そろそろ寝る準備しよっか……」
そう言いながら寝室へ向かおうとしたとき、リビングの方からノアの困ったような声が響いた。
「ツムギー! ちょっと来てくれるー?」
不思議に思いながらリビングへ行くと、ノアがソファの前の小さな作業机で何やら布を広げ、苦戦している様子だった。手元には、ツムギが作ったミストスライムウールの生地があり、ノアは針を片手に困ったような顔をしている。
「ねえ、これ、針が全然通らないのよ!」
ツムギは近づいてノアの手元を覗き込む。確かに、ノアの指先には何度も刺そうとした跡が残っているが、針が生地に刺さる気配はない。
「もしかして、スライムのジェルが固まった部分が思ったより強いのかな?」
「かもしれないわねぇ……ほら、試しにやってみて?」
ノアから針を受け取ったツムギは、慎重に生地に針を押し当てる。しかし、ぐいっと力を込めても、布の表面にほんの少し食い込むだけで、奥まで通らない。
「……うわ、想像以上に硬い!」
「でしょ!? これじゃあ、ぽての寝床を作ろうと思っても、ちっとも縫えないわよー」
「え、ぽての寝床?」
ツムギが驚いた顔をすると、ノアはにこっと笑いながら頷いた。
「だって、さっきの布、触ったらすごく気持ちよかったんですもの。ぽてにもぴったりかなと思って、ちょっと作ってみようと思ったのよ」
「ぽぺぺ!?」
ぽては目を輝かせながら、生地の上でぴょんぴょん跳ねる。
「ぽぺぇ!(それつくる! ぽての!)」
「うーん、でもこのままじゃ縫えないから……何か方法を考えないとね」
ツムギは針を手にしながら、顎に指を当てて考え込む。
「スライムジェルの部分が硬すぎるなら、縫うんじゃなくて、何か他の方法で留めるとか?」
「例えば?」
「うーん、ボタンで留めるとか……あとは、カシメで止めるとか?」
「なるほどねぇ。でも、ボタンとかカシメだと金具が当たって寝心地が悪くなりそうじゃない?」
「たしかに……うーん、どうしようかな……」
ツムギとノアがあれこれ考えている間、ぽては興味津々で生地の上を転がったり、ツムギの袖を引っ張ったりしている。
「ぽぺぇ! ぽての! ぽての!」
「はいはい、わかったわかった。ちゃんとぽてのだから安心して」
「ぽぺ……(ほんとうに?)」
「ほんとうに!」
ぽては満足そうにふわりとツムギの膝に乗っかり、うとうとし始めた。
「うーん……とりあえず、明日もう少し試してみよっか?」
ツムギが言うと、ノアは笑いながら頷いた。
「そうね。これじゃあ、ポシェットの前にぽてのクッションを作ることになりそうね」
「ぽぺぇ!(うれしい!)」
「はいはい、ぽてはもう寝る時間でしょ?」
ツムギがぽてをそっと抱き上げると、ぽては小さく「ぽぺ……」と鳴いて、そのままツムギの腕の中ですっかり丸くなった。
「ふふ、なんだか赤ちゃんみたいね」
ノアが微笑むと、ツムギもくすっと笑った
ジンはそんな二人のやり取りを聞きながら、ランプの灯りを少し落とした。
「そろそろ寝るぞ」
「はーい」
ツムギはぽてを抱えたまま寝室へ向かい、柔らかい布団の中に潜り込んだ。ぽてはツムギの枕の横にちょこんと座り、目を閉じながら小さく「ぽぺ……」と囁く。
「おやすみ、ぽて」
「ぽぺぇ……」