043. 家族団欒と穏やかな夜
3月4日1回目の投稿です。
イリアは帳簿を閉じると、静かに椅子から立ち上がった。
「じゃあ、契約書は後日用意するわね。」
ツムギはまだ少しふわふわした気持ちのまま、イリアを見上げた。
「……はい、よろしくお願いします!」
「ええ。しっかり準備しておくわ。」
イリアはディープグリーンの瞳でツムギをじっと見つめ、満足そうに頷いた。そして、工房の入り口へ向かう前に、一度振り返る。
「ツムギ。」
「はい?」
「今日のこと、しっかり噛み締めておきなさい。」
イリアは静かに微笑む。
「あなたの技術と発想が、商売として本当に価値のあるものになった。それを実感するのは、まだ先かもしれないけれど……あなたが思っている以上に、これは大きな一歩よ。」
ツムギは、言葉の意味を噛み締めながら、小さく息を呑んだ。
「……はい。」
「それじゃあ、また。」
イリアはそれ以上何も言わず、工房の扉を開ける。外の光が差し込み、彼女のワインレッドの髪がふわりと揺れた。
「ぽててー!」
ぽてがころんと転がりながら、小さく手(?)を振る。
「また。」イリアは目を細めて、それに応えると、軽やかな足取りで歩き去っていった。
ツムギは扉が閉まる音を聞きながら、まだぼんやりとした気持ちでその場に立ち尽くしていた。
「……なんか、すごいことになった気がする。」
現実味がまだ追いつかない。
契約の話も、商標登録のことも、専門店の話も、すべてが急展開すぎて頭が追いついていない。
ふわふわとした気持ちのまま、ツムギはぼーっとしていた。
その隣では、ぽてがツムギ製のクッションの上で、気持ちよさそうに丸まっている。
「ぽてぃ……(つかれた……)」
ぽてはツムギが作ったふわふわのクッションにすっぽりと埋まり、静かな寝息を立て始めた。
そんな様子を眺めながら、ツムギは深いため息をつく。
(……落ち着こう。)
けれど、ぼーっとしたまま、気持ちの整理がつかない。
そんなツムギを横目で見ていたジンが、くっと笑いながら腕を組んだ。
「今日は早めに帰るか。」
「え?」
ツムギはぽやんとジンを見上げる。
「今日はもう仕事どころじゃねぇだろ。頭の整理がつかねぇうちは、いいもんは作れねぇ。」
ジンはそう言って、工房の窓の外を見る。日はまだ完全に沈んではいないが、柔らかな夕焼けが街並みを包み始めている。
「……たしかに。」
ツムギは、未だにふわふわしている自分を自覚しながら、クッションで眠るぽてをそっと抱え上げた。
「帰ろっか、ぽて。」
「ぽてぃ……(おうち……)」ぽては半分寝ぼけたまま、ツムギの腕の中で丸くなる。
ジンは工房の明かりを落としながら、ツムギの横に並んだ。
「たまには、仕事を忘れてのんびりするのもいいもんだ。」
ツムギはふっと笑い、そっと工房の扉を閉める。
「……うん。」
二人と一匹は、そのまま家へと歩き出した。
外はすっかり夕暮れの色を濃くし、紫がかった空には、ちらほらと星が瞬き始めている。
工房の灯りが背後に遠ざかるにつれ、ツムギの胸の中には、じんわりとした温かさが広がっていった。
ぽてはツムギの腕の中で、小さな寝息を立てている。
ふわふわとした体を抱きしめると、ほんのりと温かくて、まるで安心感そのもののようだった。
――カツン、カツン。
石畳を踏む足音だけが、静かな道に響く。
しばらく無言で歩いた後、ツムギはそっと隣を歩くジンを見上げた。
ぽてを抱えたせいで片手しか自由がなかったけれど、ツムギはそのまま深く頭を下げる。
「お父さん、ありがとう。」
ジンは少し驚いたように足を止め、ツムギを見下ろす。
「……ん?」
「アタッチメントのことも、指輪のことも……全部、お父さんが手伝ってくれたから、こんなにすごいものができたんだよ。だから、ありがとう。」
ツムギがまっすぐな瞳でそう言うと、ジンは一瞬目を細め――そして、ぽりぽりと頭を掻きながら、ゆるく笑った。
「……ったく。礼を言うのはこっちの方だろ。」
「え?」
「久々に夢中になれた。本気で考えて、試作して、試して――それが形になったんだ。」
ジンはふっと夜空を仰ぎ、しみじみとした声で続ける。
「ものづくりが楽しくて仕方なかった。久々にそう思えたよ。」
ツムギはその言葉を聞いて、目を瞬かせた。
ジンがここまで率直に「楽しかった」と言うのは、珍しいことだった。
「だから、お前こそ、こんな機会をくれてありがとうな。」
ジンはそう言って、大きな手でツムギの頭をぽんぽんと軽く叩いた。
ツムギは思わず笑ってしまう。
お父さんの手は、ずっと変わらない。
どんな時も温かくて、力強くて、優しい。
「えへへ……お父さんが楽しんでくれたなら、よかった。」
ツムギが嬉しそうに微笑むと、ぽてがむにゃむにゃと寝ぼけた声を漏らした。
「ぽてぃ……(すごいことに……なった……)」
「だよねぇ。」
ツムギはぽての寝顔を覗き込みながら、小さく笑った。
そうしてまた、二人と一匹は歩き出す。
工房から家へと続く、いつもの道。
でも、今日はなんだか特別な道のりに感じた。
「お父さん。」
「ん?」
「私、もっと頑張る。」
ジンはその言葉に、わずかに目を細める。
「……そっか。」
それだけ言って、また前を向いた。
ツムギも、それ以上は何も言わずに、ただ夜空を見上げる。
気づけば、家の前までたどり着いていた。
ジンがポケットから鍵を取り出し、扉を開けると、
中からふんわりとした温かな空気と、美味しそうな夕飯の香りが流れてきた。
「おかえりなさーい!」
ノアの明るい声が、台所の方から響く。
ツムギは、玄関の温かさに包まれながら、自然と笑顔になった。
「ただいま!」
ノアの明るい声が、台所の方から響く。
ツムギは、玄関の温かさに包まれながら、自然と笑顔になった。
「ただいま!」
ぽてもふわふわと揺れながら、「ぽてぃ!」と元気よく続く。
「ご飯もうすぐできるわよ〜。先に手を洗ってきてね。」
ノアがくるりと振り向くと、エプロン姿の彼女の周りには、湯気の立つ鍋や、おいしそうな香ばしい香りが漂っていた。
ジンは「おう」と短く返事をしながら、ツムギと一緒に洗面台へ向かう。
ぽてはツムギの腕の中でくるくる回って、「ぽてぃ~(ごはん~)」と嬉しそうに揺れた。
「はいはい、すぐ食べられるからね。」
手を洗い終え、食卓につくと、そこには湯気を立てたスープと、焼きたてのパン、たっぷりの野菜が並んでいた。
今日のメインは、ハーブの香るローストチキン。じゅわっと肉汁があふれ、ツムギのお腹がぐぅと鳴る。
「いただきます!」
家族そろって手を合わせ、食事が始まった。
最初はみんな無言で食事を楽しんでいたが、ノアがふと思い出したように顔を上げた。
「そういえば、イリアさんと何を話していたの?」
「えっとね……実は、アタッチメントのアクセサリーがすごく評価されて、大きな話になっちゃって……」
ツムギが少し照れくさそうに、今日の出来事を話し始めると、ノアは興味津々といった様子で耳を傾けた。ジンもパンをちぎりながら、黙って聞いている。
「それに、透輝液のアクセサリーも、一点物だから価値が高くなるんだって。」
「へぇ~! すごいじゃない!」
ノアは感心したように頷きながら、アタッチメント付きのアクセサリーを思い浮かべるように指先を動かした。
「でもね、アタッチメントのよさは、それだけじゃないのよ。」
「え?」
ツムギが首を傾げると、ノアは楽しそうに指を立てる。
「まずね、お洋服に合わせてパーツを変えられるっていうのが便利よね。今日はカジュアル、明日はフォーマル……なんて時に、簡単に付け替えられるのは素敵だわ。」
「たしかに!」
「それからね、指輪って、手を洗ったり料理をしたりする時に外すことが多いでしょ? でも、そのままポンと置いちゃうと、どこかに行っちゃうことがよくあるのよね。」
ノアはくすっと笑いながら、ジンをチラリと見る。
「ね、お父さん?」
「……まぁな。」
ジンは咳払いをしながら、気まずそうに視線を逸らす。
ツムギは驚いたように目を瞬かせる。
「えっ、お父さん、指輪なくしちゃったことあるの?」
「うるせぇ、昔の話だ。」
ジンがごまかすようにパンを口に押し込むと、ノアはくすくす笑いながら続けた。
「でもね、アタッチメントなら、指輪をイヤリングやネックレスに付け替えられるでしょ? そうすれば、なくす心配も減るのよ。」
「なるほど……! そういう使い方もできるんだ!」
ツムギは目を輝かせた。
アタッチメントは「おしゃれの幅を広げるもの」だと思っていたけれど、こういう実用的なメリットもあるなんて。
「ねぇ、ツムギ。今度、お母さんにも何かプレゼントしてくれる?」
ノアが甘えるような声で言うと、ツムギは嬉しそうに微笑んだ。
「うん! お母さんにぴったりのアクセサリー、考えてみる!」
「わぁ、それは楽しみだわ~!」
ノアは満面の笑みを浮かべ、ぽてまで「ぽてぃ~!(プレゼント~!)」と小さく跳ねた。
こうして、楽しい食卓は笑いと温かい会話に包まれたまま、ゆっくりと過ぎていった。
食事を終え、家族で片付けを済ませた後、ツムギはぽてと一緒に自室へ戻った。
ぽてはツムギが作ったふわふわのクッションの上に飛び乗り、ころんと丸まる。
「ぽてぃ~……(つかれたぁ……)」
「私も……」
ツムギはふぅっと息を吐きながら、ベッドにごろんと横になる。
天井をぼんやりと見つめながら、今日一日を振り返る。イリアとの契約、大きな取引、商標登録の話……まるで夢のようだった。
「……なんだか、すごいことになっちゃったなぁ。でも、頑張らなくちゃね。私のものづくりを、もっともっと広げていくために。」
そっと拳を握ると、ぽてが小さく跳ねた。
「ぽてぃ!(がんばる!)」
「ふふ、ぽても一緒に頑張ろうね。」
ツムギがぽてのふわふわの体を優しく撫でると、ぽては満足げに丸まり――そのまま、ぽふっとツムギの布団の中に潜り込んできた。
「ちょ、ぽて!? そんなに冷えてたの?」
「ぽてぃ……(ぬくぬく……)」
ぽてはツムギの腕のあたりにぴったりとくっついて、小さく震える。
ツムギは思わず笑いながら、そっと布団をかけ直した。
「もう、仕方ないなぁ。ほら、あったかくして寝ようね。」
ぽては嬉しそうに「ぽてぃ♪」と鳴き、ツムギの腕にぴたっとくっついたまま、小さな寝息を立て始めた。
「……おやすみ、ぽて。」
ツムギも安心したように目を閉じる。
温かさと、心地よい疲れに包まれながら――静かな夜が、ゆっくりと更けていった。
ツムギが寝静まった後、家の中はしんと静まり返っていた。ノアはふっと微笑みながら、食器棚の奥からワインの瓶を取り出した。
「今日は特別だから、開けちゃいましょうか」
ワインのコルクを抜くと、ふわりと芳醇な香りが広がる。ジンはそれを見て「おっ」と小さく驚きながら、グラスを手に取った。
「たまにはこういうのもいいな」
二人は小さく乾杯をして、ゆっくりとワインを口に運ぶ。ほのかに甘みのある果実の味が、今日一日の疲れをそっと癒してくれるようだった。
「本当にお疲れ様、ジン」
ノアは優しく微笑みながら、労うようにジンのグラスに目をやる。
「ツムギのために、ずいぶん頑張ってたわね」
ジンはグラスを片手に、ふっと鼻を鳴らした。
「いや、頑張ってたのはツムギの方だな。……あいつ、凄かったぞ」
そう言うと、彼は窓の外をぼんやりと見つめた。
「集中してる時のツムギは、まるで鬼気迫るものがある……いや、もう止められねぇな」
「ふふっ、あなたにそっくりね」
ノアが楽しそうに目を細めると、ジンは一瞬驚いたような顔をして、すぐに苦笑した。
「ははっ、オレも昔はそうだったか?」
「ええ、あなたも夢中になると周りが見えなくなるでしょう?」
ノアはくすくすと笑いながら、グラスを揺らした。ジンはそれを聞いて、少し昔を思い出したような顔をする。
「まぁ……そうだったかもな。でも、ツムギはオレよりずっとすごいぞ。あの子の創術は、ただの技術じゃない。何て言うか……誰かを喜ばせることに全力になれるんだ」
「確かに」
ノアはそっとグラスを置きながら、静かに呟いた。
「これから、どうなるのかしらね」
ジンは少し考えるようにワインを傾け、窓の外の星空を見上げる。
「ツムギが本当に商売として大きくなったら……工房を広げることも考えないとな」
「この家も、もっと人の出入りが増えるかもしれないわね」
ノアは、未来を思い描くように、楽しげな表情を浮かべる。
「そうなったら、忙しくなるな」
ジンはワインを飲み干しながら、小さく笑った。
「まぁ……今はただ、頑張ったツムギをゆっくり見守るだけだな」
ノアは「ええ」と優しく頷き、またグラスを傾けた。
穏やかで、心地よい時間が、静かに流れていく――。
ツムギの世界図鑑にツムギの実験ノートを公開しました
今日も22時までにもう一度投稿します




