002. 初めての依頼
そのとき、工房の奥から低く穏やかな声が響いた。
「……ツムギ、お前さん、もうお代はもらったのか?」
振り返ると、ジンが立っていた。作業着のエプロンの端を軽く払いながら、片手には組み立て途中の木製スツールを抱えている。
「お父さん……」
ツムギが声を漏らすと、ジンはゆっくりと歩み寄り、ハルとポシェットに目を向けた。
「お前さん、そのポシェットは、大事なもんか?」
少し驚いたように、ハルがジンを見上げる。けれどすぐに、小さく──けれどしっかりと頷いた。
ジンは、擦り切れた端をじっと見つめる。
「ふむ……確かに、よく使い込まれてるな。これだけ大事にされてりゃ、ただの布袋じゃないってことか」
ツムギはそっとポシェットを抱えながら、父へ視線を向けた。
「ねえ、お父さん。このポシェット……私が、直してみたい!」
ジンの眼差しが静かに向けられる。
「ツムギ。お前は、この仕事をどう思ってる? ただ縫い直すだけじゃない。ツムギの仕事を──できるのか?」
その言葉に、ツムギの心がぴたりと止まった。
ジンは、ただ形を戻す職人じゃない。使う人の想いごと受け取って、それをかたちにする。ツムギはずっと、それを見てきた。
ポシェットを抱く腕に、そっと力がこもる。
「……私は、このポシェットをただ縫い直すんじゃなくて……ずっと、この子が大事にできるように、ちゃんと直したいの」
ジンはしばしツムギを見つめたあと、わずかに口元を緩めた。
「よし。なら、やってみろ」
ぱっとツムギの顔が明るくなる。
「工房の仕事として受ける以上、いい加減なことはできねぇぞ。最後まで責任、持てるな?」
「もちろん!」
ツムギは、迷いのない目で、父をまっすぐ見つめた。
ジンは満足そうに微笑み、手にしていたスツールをそっと作業台に置いた。そして、ゆっくりとハルへ視線を向ける。
「さて、修理をするなら料金がいるが……お前さん、お金は持ってるか?」
ハルはびくりと肩をすくめ、小さく首を横に振った。
「……ありません」
ツムギは思わず口を開きかけたが、ジンのまなざしに気づき、言葉を呑みこんだ。
ジンは腕を組み、静かにハルを見つめる。
「お金がないなら、どうしたらいいと思う?」
ハルは戸惑いを浮かべながらも、ポシェットをぎゅっと抱え、懸命に考えている様子だった。
ツムギはそんな姿をそっと見守りながら、微かに微笑んだ。
(ここからは、この子自身で見つける時間なのかもしれない)
静けさに包まれた工房で、ハルの小さな手がゆっくりとポシェットの中へと伸びていく。
カサカサ、と乾いた葉の音。ころり、と木の実が転がる音。
(何を選ぶんだろう……この子は)
ツムギとジンは無言のまま、じっとその様子を見守っている。
お金の代わりになるものなど、すぐには見つけられるはずもない。大事なものほど、手放しにくい──。
ツムギは静かに声をかけた。
「無理に出さなくても大丈夫だよ。大切なものは、無理に渡さなくてもいいんだからね」
その言葉に、ハルは驚いたように顔を上げた。そして、ぎゅっとポシェットを抱きしめる。
「でも、ぼく、どうしてもこのポシェットを直してほしいんです」
ハルは迷いながらも、決意を込めたように視線を落とし、ポシェットの中から小さなものを取り出した。
ふわりと風に舞うような草が、ハルの手のひらに乗る。淡く透き通った繊維が、そよ風に揺れるたびに、かすかな音を奏でた。
ツムギは息を呑む。
「これは……?」
ハルは少し照れくさそうに、小さな声で言った。
「風紡草っていいます」
ジンが目を細める。
「ほう……風紡草か」
ツムギは、その繊細な草を見つめ、そっと指先で摘んでみた。
ふわふわとした感触。わずかな温もり。そして、風が触れるたびに聞こえる、優しい音。
「……すごい、風の音がする」
「この前、風がすごく強い日に、森で拾ったんです」
ハルは少し恥ずかしそうにポシェットを抱きながら、ぽつりと続けた。
「ふわふわしてて、触るとちょっとあったかいくて……。幸せな気持ちになれるんです」
ツムギは風紡草を摘み取り、指先に伝わる柔らかなぬくもりを感じた。
「……なんだか、不思議な草だね」
ぽてがふわりと跳ねて近づき、風紡草に顔を寄せるようにして、くんくんと嗅ぐ。
「ぽぺぺ!(ふわふわー)」
満足そうな声が響く。
ハルはツムギをじっと見上げて、不安そうにたずねた。
「これで修理は難しいですか?」
ツムギはしばらく風紡草を見つめてから、やわらかく頷いた。
「ううん、とっても素敵だよ。ありがとう」
ぱっと、ハルの表情が明るくなる。
ツムギは手のひらの風紡草を見つめながら、しばらく考える。
(この草は、この子が大切にしていたもの──できれば、そのまま活かしてあげたい)
「……このポシェットに、この風紡草を使って見るのはどうかな?」
ジンはほんの少し目を見開いたあと、小さく頷く。
「ほう、面白いことを考えるな」
ツムギはにっこりと笑みを浮かべた。
「じゃあ、この風紡草と交換で……ポシェット、修理させてもらいますっ!」
ツムギはぱあっと顔を輝かせ、風紡草を見つめながら声を弾ませた。
「はじめて扱う素材だから……うん、なんだかすごく楽しみ!」
その言葉に、ハルの瞳もぱっと輝く。
「ほんとにいいんですか?」
「もちろん!」
ツムギは風紡草をそっと机の上に置き、ポシェットを手に取った。
──だが、そのとき。ハルが少し困ったように風紡草を見つめ、小さく口を開いた。
「でも、これをポシェットに使ったら……代金にならなくないですか?」
ハルは再びポシェットの中に手を差し入れた。そして、そっと数枚の風紡草を取り出し、小さな手のひらに並べて差し出す。
「代金になるかはわからないけど……これも、よかったら受け取ってください」
ツムギは目を丸くし、その手元をじっと見つめた。
「……いいの? すごく大事にしてたんじゃないの?」
ハルは風紡草を見下ろしながら、少しだけ照れたように笑った。
「はい。きっと……何かに上手く使ってくれると思うから」
ツムギはその言葉を胸の奥で受けとめるように、ふわりと微笑んだ。
「うん、大切にする。ありがとう」
ぽてがくるりと跳ねながら二人のまわりを回り、ぴょこっと跳ねて嬉しそうに鳴いた。
ジンはふたりのやり取りを静かに見守っていたが、満足そうに小さく頷いた。
「ふむ。これで、しっかりと仕事として成立するな」
ツムギはほっと息をつき、風紡草を作業台の隅にそっと置いた。
そのとき、ふと気づく。
(あれ……私、この子の名前、聞いてなかったかも)
ツムギはハルの方へ向き直り、やわらかく笑みを浮かべた。
「そういえば、まだ名前を聞いてなかったね」
ハルは少し驚いたように目を丸くし、それから小さく頷いた。
「あ……ぼく、ハル。ハルっていいます」
「ハルくん、か。かわいい名前だね」
照れたようにうつむくハルに、ツムギもにっこりと微笑んだ。
「私はツムギ。この工房で、ものを直したり作ったりしてるよ」
「ツムギさん……」
ハルはその名を繰り返しながら、じっと顔を見つめる。
「糸を紡ぐみたいに、人や想いをつなげる人になってほしい──って、父が名づけてくれたの」
「……ツムギさんに、ぴったりですね」
ツムギはくすっと笑った。
その隣で、ジンが腕を組んだまま口を開く。
「俺はジン。この工房の親方で、ツムギの父親だ」
ハルは真剣な表情でジンを見上げた。
「……じゃあ、ツムギさんも職人さん?」
「うん。でも、まだ半人前なんだ。いつか“創術屋”になりたいと思って、修行中なの」
「そうじゅつや……?」
聞き慣れない言葉に、ハルが首をかしげる。
ツムギはやさしく説明した。
「ものづくりの魔法を使ってね。ただ直すだけじゃなくて、持ち主の想いまで、きちんとつなぎ直す仕事なんだ」
「へえ……」
ハルは目を輝かせてうなずき、少し安心したように笑った。
ふと視線を動かし、ぽてを見つめる。
「ぽてくん……だっけ?」
「うん、私の相棒。気づいたら動き出しててね、今はずっと一緒にいるの」
「すごい! ふわふわで可愛いし!」
ハルがそっと撫でると、ぽては目を細めて心地よさそうに鳴いた。
「ぽぺぇ……」
ジンはふたりの様子を見ながら、静かに笑った。
「よし。これでお互いのことがわかったな」
ハルはツムギとジンを順に見て、こくりと頷く。
「うん! ツムギさんとジンさん、よろしくお願いします!」
ツムギも笑みを浮かべ、手を差し出した。
「こちらこそ、よろしくね、ハルくん」
ハルはその手を少し見つめ、それから、小さな手で重ねた。
「じゃあ……修理を始める前に、一緒に考えてみようか。どうせ直すなら、もっと使いやすくできるかもしれないし」
ツムギは作業台の端からノートとペンを取り出し、ハルの前にそっと差し出した。
「ハルくんにとって、一番大事なポシェットにしよう!」
驚いたように目を見開いたハルは、ぱっと笑顔を咲かせた。
「……うん!」




