001. ハルとの出会い
工房の扉を開けると、ふわりと木の香りが鼻をくすぐった。
木材と革、糸と布。それぞれの素材がもつ匂いが、朝の光と混ざり合って、ここだけの静かな空気をつくり出している。壁際には大小さまざまな木箱が積まれ、棚には革細工の道具や色とりどりの糸巻きが、まるで見守るように並んでいた。
作業台の上には、途中まで削られた木片や、縫いかけの布小物。どれもまだ完成には遠いけれど、不思議と生き物のような気配を帯びていた。ツムギはそういう“途中”の姿が好きだった。ものがものとして形づくられていく、その手前の、少し照れくさそうな顔を見ているようで。
窓辺では、吊るされた草花が風に揺れていた。淡く色あせた花びらは、ぽてと一緒に拾ったもの。季節が変わるたびに少しずつ入れ替えていて、いま揺れているのは、春先に見つけた野の花だったはず。
ツムギはふっと息をつくと、エプロンの紐をきゅっと結びなおす。
「よし、今日も頑張ろうっと」
そうつぶやく声に、工房の空気がちいさく弾んだような気がした。
今日の作業は、父から預かった依頼品の下準備。木の表面を整えて、布の端を補強して、撚った糸で仕立て直す。ひとつひとつは地味な作業だけれど、それを丁寧に積み重ねることが、良い仕上がりにつながる。
この町では、ものを「直す」だけでなく、「整えて、新しく息を吹き込む」職人のことを、“創術屋”と呼んでいた。
削って、磨いて、縫って、繋いで。ものと向き合い、手をかけることで、ただの道具に「想い」や「記憶」を戻していく──。そうした創りの術を持つ人のことだ。
ツムギの父、バルドはまさにその“創術屋”であり、この工房『継ぎ屋』の主だった。
町の人々は、修理を依頼しに来るだけではない。世間話のついでにふらりと立ち寄ったり、誰かのために新しい品を注文しに来たり。扉の鈴が鳴るたびに、工房はほんのり賑やかになる。
ツムギは、そんな様子を作業の手を止めずに眺めながら、いつも心の奥で思っていた。
(私も、いつか父みたいに頼られるようになれるのかな)
けれど、まだその自信はなかった。
父の仕事は、ただの修理ではない。椅子についた傷に込められた時間や、擦り切れた布に残った願いを受け取り、それにふさわしい“形”にして返してあげる。手を動かすだけでなく、心で聴くような仕事だった。
そんな父の姿を見て育ったツムギにとって、“創術屋”とは、手先の器用さだけでは足りない仕事だと知っている。だからこそ、なりたいのに、なれる気がしなくて……いつもほんの少し、立ち止まってしまう。
手の中の木片をくるりと回し、やすりの当たりを確認する。角の一部がわずかに欠けていて、そこに指先を当てるたび、なにかが引っかかるような感覚があった。
ちょうどそのときだった。
——チリン。
扉の上に取り付けられた小さな鈴が、静かに鳴った。
扉の上に取り付けられた小さな鈴が、ひとつ、やわらかに鳴った。
ツムギは手を止め、ぱっと顔を上げる。
「いらっしゃいませ!」
明るい声が工房に響いた。だが、誰の足音もしない。扉はわずかに開いているが、その隙間から何の気配も感じられなかった。
けれど、ほんの一瞬。扉の端に、ちらりと何かが覗いた気がした。目が合った──と感じたその直後、小さな影はぱたんと扉の陰に隠れる。
そのとき。
ぽふっ、と柔らかな重みが肩に乗った。ぽてだ。毛糸玉のような小さな体を揺らしながら、琥珀色の瞳を嬉しそうにじっと扉の方に向けている。
「どうしたの? 入っても大丈夫だよ」
短い沈黙のあと、扉がわずかに開き、小さな姿がそっと現れた。
ミントグレーの柔らかな髪が、日差しを受けてふわりと揺れる。少年は両手でしっかりと胸元のポシェットを抱きしめながら、一歩、また一歩と工房の中へ足を踏み入れた。
この子どこかで見たような気がする──けれど、それは記憶の奥のどこか、霧がかかったような感覚だった。
少年──ハルは、きょろきょろと工房を見回していた。見知らぬ場所に入った緊張がその動きに滲んでいる。けれど、それでも逃げ出さず、ここに立ち続けている。何か用があるのだろう。
ツムギはしゃがみ込み、やさしく目線を合わせた。
「こんにちは。ここは『継ぎ屋』っていう工房だよ。どうかした?」
ハルは、すぐには返事をしなかった。
視線を落とし、抱えていたポシェットのひもをぎゅっと握る。その小さな手の動きに、言葉より先に伝わるものがあった。
ほんの少し息を吸い込んでから、ハルはそっとポシェットを差し出した。
「……これ、なおせますか」
ツムギは慎重にそれを受け取り、縫い目のほどけた箇所や、擦り切れた布地をひとつひとつ丁寧に確かめる。
手の中から伝わってくるぬくもりは、大切にされていた証だった。
「うん……けっこう使いこんであるね。でも、それだけ大事にしてたんだね」
ハルはツムギの言葉に、かすかに頷いた。もう一度、ポシェットのひもに指をそっと添える。
「……両親が、つくってくれたものなんです。ぼく、ずっとこれ……」
語尾は小さく、聞き取れるかどうかのぎりぎりだった。でも、ツムギには十分だった。
ぽてが小さく体を揺らす。ツムギの肩の上から、ポシェットを見つめるその眼差しは、まるで「これ、すごく大事だよ」と伝えてくれているようだった。
ツムギは微笑んだ。
「うん、わかるよ。わたしも、小さいころに作ったもの、今でも大切にしてる」
ぽての柔らかな手触り。ほどけかけた毛糸、かすれた刺繍糸の色。忘れるはずのない記憶が、ぽてを通じてよみがえる。
「じゃあ……しっかり元通りにしてあげようね」
ツムギは作業台へ向かい、布の傷み具合をひとつひとつ確認していく。丁寧に、慎重に。これはただの補修ではなく、“想い”の継ぎ目を探す作業だった。
ハルは黙ってその様子を見ていたが、視線は、少しだけ、不安のにじんだ光を宿していた。
そして、小さな声で問いかけた。
「……また使えるようになりますか?」
ツムギは手を止め、顔を上げてにっこりと笑った。
「うん、大丈夫。前より、もっと丈夫にしてあげるね」
ハルは少しだけ目を伏せて、静かに息を吐いた後、小さな手でゆっくりとポシェットを撫で、安心したように微かに笑みを浮かべた。
初めまして。
処女作で至らない文章かと思いますが、どうぞお付き合いください。
2025.12/3 追記
少しずつ改稿していきます。改行の仕方や行間などが急に変わっている場合は、改稿前なんだな…と見守ってくださると嬉しいです。
2025.6/19 追記
最初の方の文章が拙く感じるようになってきました。現在は更新を優先しており、なかなか改稿に手が回っていない状況です。読みづらい部分がありましたら、本当に申し訳ありません。
第2章あたりからは、少しずつ文体も安定してきたかと思いますので、もし読みづらさを感じた際には、第2章(101話)から読んでいただくのもおすすめです。




