162. 揺らぐ笑顔
パンの袋をしっかりと抱きしめ、息を切らせながらPOTENハウスの玄関へたどり着く。ドアを押し開けた瞬間、ふわりと紅茶の香りが漂ってきた。
「おかえり、ツムギ」
出迎えたのは、いつもと変わらぬ穏やかな笑みを浮かべたバルドだった。
「パンを買いに行くと聞いたからな。どうせ山ほど抱えて帰ってくるだろうと思って、紅茶を淹れておいたぞ。少し皆でつまもうじゃないか」
その言葉に、肩の上のぽてが「ぽてっ!(やった!)」と跳ねる。
リビングでは、エドとエリアスが何やら話し込んでいた。だがツムギの姿に気づくなり、エドがぱっと振り返り、目を輝かせた。
「おっ、ツムギ! 今日はクロワッサン売り切れてなかった? 俺、今日こそ食べたいんだ!」
その勢いに、ツムギは少し戸惑いながらも笑みを返す。
エリアスは小さく肩をすくめ、苦笑まじりに声をかけた。
「……随分早かったな。走ってきたのか? 息まで切らして……そんなに急がなくてもいいのに」
ツムギは胸の奥に重く沈む思いを抱えたまま、それを悟られぬように紙袋を高く掲げた。
「ただいま戻りました。……たくさん買ってきたよー!」
リビングに広がるのは、変わらぬ仲間たちの温もり。だがツムギの心には、まだ先ほどの噂話の影が静かに残っていた。
袋から取り出したパンを朝食用とすぐに食べる分に分け、バスケットに入れてテーブルの中央へ置く。ふわりと立ち上る焼きたての香りに、自然と笑みがこぼれる。紅茶を注ぎ分けると、皆が思い思いに手を伸ばし、和やかにパンをちぎっては口に運んだ。
「そうだ、ツムギ」
クロワッサンを大事そうに持ちながら、エドが顔を上げた。
「この間頼まれてたライトの魔法陣、ちゃんと型取りできた?」
ツムギはカップを両手で包み、少し頬を緩めた。
「うん!エドさんのおかげで、すごくきれいに仕上がったよ。あんなに細かい魔法陣型を作るの大変だったでしょう。ありがとう!……すごく素敵なライトのネックレスになったから、バザールでお披露目できるのが、とっても楽しみで――」
そこで言葉がふと途切れる。
「バザール」という響きが、胸の奥に眠らせていた記憶を呼び覚ます。パン屋で耳にした噂。まだ誰にも伝えられていない、不穏な影。
(……いつ、エリアスさんに聞けばいいんだろう。みんなは本当に何も知らないのかな。それとも……)
笑顔をつくったつもりでも、心のざわめきは隠せなかった。
「……あれ?」
エドが首を傾げる。明るい声色に、鋭い観察眼が混じっていた。
「ツムギ、何かあった? さっきからちょっと顔つきが違う気がするよ」
ツムギは慌てて紅茶を口にし、小さく首を振った。
「……ううん、なんでもないの。ただ……ちょっと夢中になりすぎちゃって、疲れが出たのかも?」
そう言って、ふにゃりと笑みを浮かべる。だがその表情は、いつもの輝きとは少し違っていた。
肩の上で、ぽてが「ぽてぇ……(だいじょうぶ?)」と心配そうに身じろぎする。ツムギはそっとその丸い体を撫でて、またひと口、紅茶をすするのだった。
その様子を、バルドはじっと見守っていた。老いた瞳は、孫を慈しむような穏やかな光を宿している。やがて、彼はふっと口元をほころばせた。
「……そうか、とうとう完成させたのじゃな。わしらの傑作!ライトのネックレスが」
感慨深げに頷きながら、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「いや、あれには少し思い入れがあっての。元は、わしと友とで作り上げた魔法陣なのじゃ。……ただ、当初の用途は今とは真逆でな。世に出せば悪用されかねぬ代物だった。だから、危険のないように作り替えたのじゃよ」
ツムギは思わず顔を上げ、目を瞬かせる。その話は初めて聞くものだった。
「おっと、そうそう」バルドは手を打ち、隣のエリアスに向き直る。
「その魔法陣、友との共同名義で既に登録しておる。だから販売の際は……」
だが、エリアスは応えない。紅茶を前に手を止め、じっとツムギの方を見ていた。視線は優しいが、逃さない鋭さを帯びている。
「……エリアス?」バルドが首をかしげる。
その声も耳に入らないように、エリアスはゆっくりと口を開いた。
「ツムギ……やっぱり変だ。何があった?」
テーブルを挟んで交わる視線。穏やかな団らんの空気の中で、エリアスの言葉だけが真剣に響いた。
ツムギはびくりと肩を揺らし、思わず彼の方を見た。けれどその瞳に触れた瞬間、耐えられなくなってうつむいてしまう。
――エリアスさんは、いつも気づいてくれる。困った時にはさりげなく助けてくれる。でも……困った時に、私を頼ってくれることはない。私は、ただ守られてばかりで……。私だって力になりたいのに。
胸の奥に込み上げる思いに背を押され、ツムギはぐっと顔を上げた。
「……エリアスさんこそ、何か抱えてるんじゃないですか?」
その声は、いつもの彼女には珍しく鋭さを帯びていた。
「ここしばらく……ずっと様子がおかしいって思ってました。心配で……」
そこまで一息に告げたものの、言葉が重く喉につかえる。
「それに……町で、噂も……」
声はだんだんと細くなり、最後は机の上でかすかに震える手だけが、彼女の気持ちを代弁していた。
不意を突かれたエリアスは、息を呑む。ツムギの強い眼差しを真正面から受け止め、驚きに目を見開いた。彼女がここまで声を荒げるのは初めてだった。
その二人の様子を横で見ていたエドは、わざとらしく大きなため息をつき、肩をすくめた。
その表情が雄弁に語る――「だから早く言っとけって、あれほど……」
バルドは手にしたティーカップを慌てて持ち直し、目をぱちぱちさせる。
その隣では、ぽてが「ぽてぇ!?」と短く叫び、ツムギとエリアスの顔を交互にきょろきょろと見比べる。小さな体がふるふる震え、まるで場の緊張を映し取っているかのようだった。
ツムギの物語は水曜日と土曜日、ハルの物語は月曜日と金曜日の23時ごろまでに1話投稿します
同じ世界のお話です
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