160. 風の噂
夜明け、長い作戦会議を終え、エドはエリアスの部屋を後にした。すっかりご機嫌なエリアスの背中を見送ると、少し足取りを重くしながら自室へ戻る。
扉を閉めると同時に、ベッドへ腰を下ろし、寝不足の目をこすった。大きくため息をひとつ吐き出す。だが次の瞬間、頬が自然に緩み、ふふっと笑みがこぼれた。
「エリアス、絶好調だったな……。少しでも役に立てたなら、よかった」
その声には疲労の色も混じっていたが、心の奥に広がる温かさが勝っていた。
――その時だった。音もなく、まるで影からにじむように一人の男がエドの前に現れた。
「……エド様。よかったのですか?」
年のころは壮年、無駄のない身のこなしと深い声に、長く仕えてきた者だけが持つ落ち着きが滲んでいた。
エドは驚くことなく、穏やかに微笑む。だがその笑みの奥には、普段見せる無邪気さではなく、ヴァルトシュタインの名にふさわしい威厳が宿っていた。
「いいんだ。POTENのみんなに何かあれば、いつでも手を出すつもりだった。それが少し早まっただけさ。……でも、よかった。もしエリアスに受け入れてもらえなかったら、さすがに勝手に動くわけにはいかなかったからね」
柔らかな口調のまま、ふと一瞬、貴族の顔を覗かせる。その様子に男はわずかに眉を動かしながらも、安堵したように目を細めた。
「エド様……。きっと大丈夫です。POTENの皆さまは、エド様の身分を知っても何も変わらないでしょう。……現に、エリアス様のエド様への扱いときたら……」
思わず笑みを噛み殺すように顔を背ける。声に出せば失礼だとわかっているのに、喉の奥でくぐもった笑いが震えた。
エドも苦笑を浮かべ、肩をすくめる。
「そうだよね。あれは中々だったよ。……僕、書類仕事なんて得意じゃないのにさ。リナが二度とあの部屋に入りたくないって言った理由が、よくわかったよ」
その言葉に、護衛の男は心から嬉しそうな表情を見せた。普段のエドの笑顔が、こうして再び戻ってきたことに満足したのだ。
「では……我々の方でも、今回の件を調べておく形でよろしいですか?」
姿勢を正し、静かに問いかける。
エドはしばし考えるように目を伏せ、それから真っ直ぐに頷いた。
「……手間をかけて申し訳ない。でも頼むよ。僕は……友達と、この居場所を、どうしても守りたいんだ」
真剣な眼差しに、男は深く頭を垂れた。
「勿論です。命に代えても……全力でお守りいたします」
そう言い残し、次の瞬間にはその姿はふっとかき消えるように掻き消えた。まるで最初からそこに存在しなかったかのように。
残されたエドは、静かな部屋の中で再び大きく息を吐いた。けれどその表情には、先ほどまでの疲労ではなく、仲間と居場所を守り抜く決意が確かに宿っていた。
——それから、数日が経った。
穏やかだった町の空気に、いつの間にか微かなざわめきが混じりはじめていた。それは風に乗って届くささやきのように、広場の片隅で、酒場のカウンターで、商人たちの立ち話の合間に、ぽつりぽつりと姿を現す。
「POTEN創舎……って、知ってるか?」
誰かがそう口にすると、周囲がほんの少しだけ静かになる。やがて一人が答える。
「便利なもんをいくつも作ってるらしいな。この間商会ギルドで配られた守り袋とか、装備に魔法を組み込む技術とか……。最近の冒険者の間じゃ、持ってない方が珍しいって噂だ」
「……でもよ、あまりにも高機能すぎないか? あんなものが本当に、町の工房で作れるのか?」
疑念は、小さな種のように、心の隙間にするりと入り込む。
そして、ある日を境に、その種は一気に芽を出した。
「先週、透輝液を使った新製品を出そうとしてた商会があっただろ? イリア商会のライバルだったらしいぜ。あそこ、突然申請取り下げたらしいんだ」
「聞いたぞ。しかも、その商品のコンセプトを、POTEN創舎がそのまま使って、商標登録までしたって話じゃないか」
「盗んだってことか?」
「かもしれんな。力のある商会が圧をかければ、登録申請の取り下げくらい、いくらでも……」
囁きは、もはや根拠のない噂ではなかった。誰かが確かめたわけでもないのに、まるで事実のような形で語られていく。
「“POTENの商標”って、一度使うと自分のアイデアも持っていかれるらしいぞ。共有の技術とか言いながら、登録は全部向こうの名前でされるってさ」
「創舎ってのも、あやしいよな。あいつら、信用していいのか?」
「もう、みんな言ってる。“あそこは盗人集団”だって」
目に見える証拠など、どこにもない。ただ、疑念と妬みと不安が渦を巻くように、人々の間をすり抜けていく。
誰が言い出したのかもわからぬまま、曖昧な言葉がひとり歩きし、それを否定する者の声は小さくかき消される。
POTEN創舎——あの新しい工房の名前は、期待と称賛に満ちていたはずだった。けれど、今やそれは、胸の内でそっと舌打ちされる存在へと変わりつつある。
光が強くなればなるほど、影も濃くなる。まるで、その光を疎ましく思う誰かの手によって、闇が少しずつ広げられていくように。
空はまだ青く澄んでいる。けれど、地を這う風は、確かに不穏な香りを含み始めていた。
ツムギの物語は水曜日と土曜日、ハルの物語は月曜日と金曜日の23時ごろまでに1話投稿します
同じ世界のお話です
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