159. ヴァルドシュタイン家
そうだった。ヴァルトシュタイン家といえば──。
文献の端々に、その名は繰り返し現れていた。表舞台には滅多に姿を見せぬ一族。それでいて、王国の歴史を語るうえで決して欠かせない存在。
社交界では人付き合いが不得手で、温厚すぎるがゆえに軽んじられている。だが彼らは常人を超える探究心を胸に秘め、ひとたび「守るべきもの」を見つければ、すべてを投げ打ってでもその背を守り抜く──そんな一族だった。
スライムに魅せられ、新種を生み出して生活を変えた者。香辛料に夢中になり、胡椒や醤油をもたらして食文化を広げた者。数字に取り憑き、未来永劫揺るがぬ財を築いた者。数多の逸話が残されている。
そしていつしか、人々の間ではこう囁かれるようになった。
──「ヴァルトシュタイン家を敵に回すなら、命を削る覚悟が必要だ」と。
もちろん、その噂のほとんどは都市伝説のように語られている。だが同時に、王族とも密かに関係し、王国の運営に深く関わっているという噂すら絶えず囁かれてきた。真偽は誰にも分からない。ただひとつ確かなのは、ヴァルトシュタイン家が本気になったとき、国の未来すら動かしかねないということだ。
……エドを初めて紹介されたとき、その名を耳にして、自分は確かに理解していたはずだった。──ヴァルトシュタイン家の人間なのだ、と。
だが、彼と日々を共に過ごすうちに、その事実は少しずつ霞んでいった。
新しい仕掛けに夢中になり、子どものような笑顔を見せる姿。仲間のことを真っ直ぐに思いやる優しさ。時におっちょこちょいで、けれど不思議と頼もしい背中。
気づけば、自分の目に映るのは伝説の一族ではなく、大切な仲間としてのエドその人だった。
噂や恐れは、いつしか頭の片隅からすっかり消え去っていたのだ。
──そのエドが、怒った。
普段は柔らかな笑顔で、魔道具や仕掛けの話になると子どものように目を輝かせる彼が、今は静かに怒りを宿している。
仲間を大切にするエドの性格を知っている今だからこそ、エリアスには理解できた。あの古い噂は真実なのだ、と。
もしヴァルトシュタイン家が本当に権力や財力を握っているのだとしたら──エドは、そのすべてを惜しみなく使い、相手を追い詰めるだろう。
敵に回したなら、これほど恐ろしい存在はない。だが、彼は味方だ。信頼できる、かけがえのない仲間なのだ。
……こんなにも心強いことはあるだろうか
胸の奥で、言葉にならない安堵がじわりと広がっていく。
エリアスは自分を振り返った。
どこかで「自分が何とかしなければ」と思い込み、無理をしてきた。何かおかしいと気づいても、調べる手段が足りない。調べても、なかなか尻尾をつかめず、どうすればいいのか分からない……そんな状況に、苦しんでいたのだ。
「……助かった」
小さく、誰にも聞こえない声でそう呟いたとき、エリアスの胸の重みは、ほんの少しだけ軽くなっていた。
静かに顔を上げ、向かいにいるエドの姿を見つめる。
長く冷静を装ってきた彼の口から、自然と素直な言葉がこぼれた。
「……エド、ありがとう。実はどうしたらいいのか、とても困っていたんだ。情けないが……エドを頼ってもいいだろうか?」
一瞬、エドの目が大きく見開かれる。いつも柔らかな笑顔を絶やさない彼の表情が、慌てたようにくるくると変わり、やがていつもの明るさを取り戻した。
「な、なにを言ってるんだ、エリアス!」
声には動揺が混じり、しかしすぐに真剣な響きが加わる。
「君がいなかったら、POTEN創舎なんてとっくに潰れてるよ! 僕らがここまで来られたのは、間違いなくエリアスのおかげだ」
言いながら、エドは胸に手を当てて、まるで自分を落ち着かせるように深く息をついた。
「でも……うん。分かった。手伝うよ」
言葉を選ぶように少し間を置き、それでも強く頷く。
「エリアスが困っていること、知りたいこと、全部片付けよう。僕がサポートする」
照れ隠しのように、エドはあわあわと手を振って笑う。
「だから、情けないなんて言わないでくれよ。頼られるのは、悪い気分じゃないんだから!」
その真っ直ぐな声に、エリアスの唇がわずかに緩んだ。
彼にとって初めての“支えを受け入れる”という選択が、そこには確かに芽生えつつあった。
その瞬間、エリアスの表情から影が晴れ、いつもの切れ者らしい気配が戻ってくる。唇の端を吊り上げ、ニヤリと笑った。
「よし、そうと決まったら早速うちあわせだ! そこに座ってくれ」
エリアスは部屋の片隅にある打ち合わせ用の机を指さした。
進められた椅子に、エドは一瞬で顔を青ざめさせる。
「え、ここって……」
そこは、POTENのメンバーたちから密かに「魔のテーブル」と呼ばれている場所だった。
一度座らされれば最後、エリアスが納得するまで解放されないという恐怖の机。過去にはリナが座らされ、出てきたのはなんと半日後だったという逸話さえ残っている。
「ま、待って……」と小声で呟くエドをよそに、エリアスは山のような資料をドカンと机に積み上げ、悠然と向かい側に腰を下ろす。
その瞳には、もう疲れの色はなく、冷静さと鋭さを取り戻し光が宿っていた。
「では始めようか。夜は長いぞ、エド」
観念したように深呼吸しながら、エドは机の椅子に身を沈める。普段の柔らかい笑顔は消え、真剣な表情で資料を手に取った。
こうしてその夜、ツムギたちが工房で笑い声を交わしながら新しい魔法陣を生み出していた頃、エドとエリアスは「魔のテーブル」でひたすら作戦を練り続けていた。
――それは、朝の光が差し込む頃まで続いたという。
ツムギの物語は水曜日と土曜日、ハルの物語は月曜日と金曜日の23時ごろまでに1話投稿します
同じ世界のお話です
⚫︎ 僕だけ戦う素材収集冒険記 〜集めた素材で仲間がトンデモ魔道具を作り出す話〜
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⚫︎ 異世界で手仕事職人はじめました! 〜創術屋ツムギのスローライフ〜
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