『新宿クオム』-2
「きゃっ」
「痛っ……どこ見て歩いてんだ!」
突然の怒声に、真は反射的に振り返った。
視線の先――路上には、尻餅をついた初老の男。
男とその周囲には、鼻を突くほど濃密なアルコールの臭気が立ち込めている。
……どう見ても素面じゃない。
アリスが申し訳なさそうな顔で立ち尽くしていた。
どうやら、男がふらついた際に彼女とぶつかり、そのまま転んでしまったらしい。
「ごめんなさい……大丈夫ですか?」
アリスはすぐに頭を下げると、心配そうな顔を浮かべ、慎ましく手を差し伸べる。
その動きには、彼女らしい、一分の曇りもない善意が込められていた……が。
「触るんじゃねぇ!」
男はその手を乱暴に振り払うと、憎々しげにアリスを睨みつけ、語気を荒げた。
「偉そうに歩いてんじゃねぇよ、この首輪付きがっ!」
――アリスの表情が凍りついた。
鋭い痛みが胸の奥を突き刺し、言葉にならない衝撃が心を締めつける。
目を伏せ、肩を僅かに震わせながら……静かに唇を噛んだ。
――だが、その言葉を聞いた次の瞬間、真の中で何かが弾ける。
気がつけば、男の襟首を荒々しく掴み上げていた。
「……あ?」
間近で吐き出される、男の酒臭い息が、真の鼻腔に不快感をもたらす。
だが、そんなものはどうでもいい。
「おい……てめえ、今なんつった? もう一遍言ってみろ」
低く、しかし殺意を押し殺した声が、男の耳元に捻じ込まれる。
――初老の男の目が揺れた。
焦点が合わないまま、それでも真の目を見てしまったが最後、その奥底にある何かに気づいたのだろう。
――それは、まるで剥き出しの刃のようだった。
容赦なく喉元に突きつけられた、冷たい凶器のような光。
「おい、おっさん。てめえ、誰のおかげで、今ここで酒なんか飲めてんだ?」
真の指が、襟元をさらに締め上げた。
――男の喉が鳴り、くぐもった呻きを漏らす。
「てめえが呑気に酒盛りしてる間に、誰が命懸けで外を這いずり回って、クソみたいな現実からここを守ってると思ってんだ?」
男は必死に何かを言おうと口を開く。パクパクと口だけよく動いている……まるで、まな板の上の魚みたいな間抜けな顔だ。
……だが、真の目は、その言葉を発する事さえも許さない。
「首輪付き? おい、笑わせんなよ……」
真は冷ややかに鼻で笑う。
「てめぇみたいに、真昼間から呑気に酒飲んでるだけの奴が、誰かを見下す資格なんてあると思ってんのか?」
周囲が静まり返り、張り詰めた緊張が、まるで濃霧のように辺りを包み込んだ。
静かな騒めきが広がり、何事かと足を止める者たちの視線が集まる。
やがて、真の怒気が膨れ上がるにつれ、広場の空気もじわじわと変わっていった。
近くに座っていた老人たちが手を止め、訝しげに視線を寄せる。
若い男女のグループが「なんだ、揉めてんのか?」と面白半分に集まり、一人の男が「やっちまえ!」と煽りたて、口笛を吹いた。
近くの屋台に並んでいた母子連れや他の難民たちも、何事かと足を止め、騒めきが広がってゆく。
それでも初老の男は、酒に染まった脳から、必死で苦し紛れの悪態と侮蔑の言葉を捻り出した。
「へっ……なんだよ、飼い主サマってわけか……テメェも所詮、首輪付きの――」
……だが、その言葉は最後まで言い終えることができない。
「おいッ!」
慌てた声が響く。
血相を変えた数人の男たちが駆け寄って来た。
男の仲間らしいが、こいつらも揃って酒臭い。
だが――彼等の表情には焦りが滲んでいる。
彼等の視線は、自然と真の大腿部――そこに収まる拳銃に吸い寄せられていた。
途端、彼等の顔がみるみる青ざめてゆく。
――それも当然だ。この世界で、レヴュラを狩る者――ハンターが銃器を携行していることなど、クオムに住んでいる者なら子供でも知っている。
長物をむき身で持ち歩くことは稀だが、拳銃程度であれば、ホルスターに提げているハンターは珍しくもない。
「おい、バカ野郎! やめろ! こいつハンターだぞ!」
その言葉を聞いた瞬間、初老の男も僅かに肩を震わせる。
それがどういうことなのか、酒に溺れたおつむでも理解はできるようだ。
だが、すっかりアルコール漬けになった脳には、恐怖の方が追いついていないらしい。
「お前ぇら、何ビビって――ぐぅッ!」
仲間の一人が、強引に男の腕を取ると、力任せに引き離した。
足元がもつれ、ふらついた初老の男を、もう一人の仲間が肩を抱えて支える。
「悪かった! 悪気はねぇんだ、な? 酔ってるだけなんだよ、勘弁してくれ」
仲間の男たちは必死に頭を下げる。
顔には冷や汗が浮かび、今にも「どうか撃たないでくれ」と言い出しそうな様子だ。
――もし、真が怒りに身を任せ、その太腿にある暴力の象徴を引き抜いたが最後、初老の男の命は、いとも簡単に消し飛ぶ……彼等はそう悟ったのだろう。
――日本という国は、もともと銃社会とは無縁の国だった。
電災がすべてを変えてしまったとはいえ、未だ実銃を手にした事など一度もない者、間近で見た事すらない者はいくらでもいる。
クオムの外に出て、レヴュラとやり合う生き方を選ばない限り、銃と無縁のままで生きてる奴の方が多いのだ。
――そんな連中からしてみれば、ハンターと揉めれば、容赦なく、その身体に銃弾が撃ち込まれる……そんな風に思われているのかもしれない。
「ほら、行くぞ!」
男たちは、なおも何かを喚こうとする初老男の口を押さえ、慌ただしくその場を離れていく。
そのうちの一人は、何度も何度も、真に向かって拝み手を繰り返していた。
どうか撃たないでくれ、どうか殺さないでくれ……そういった無言の主張なのだろう。
騒ぎを遠巻きに見ていた者たちは、元凶である初老の男が消えた途端、興味の火が燃え尽きたかのように、思い思いの方向へとつまらなそうに散りはじめた。
堕落した酔っぱらいが射殺される……そんな、ショッキングなシーンでも期待してたのだろうか。
興味本位で集まっていた若者たちは「つまんねぇな」と舌打ちしながら、屯に戻ってゆく。
老人たちは「最近の若いもんは……」とぼやきながら、暇つぶしの世間話と共に、仲間と将棋を指し始めた。
屋台の列は何事もなかったように進み、香ばしい匂いが辺りに漂い、列に並んでいた子供が嬉しそうに、出来たてのホットサンドを持って走ってゆく。
――結局のところ、この世界じゃ、こんな騒ぎなど、よくある日常の些末な出来事に過ぎない。
大した娯楽もない今の世の中だ、自分が巻き込まれるわけでなければ、見知らぬ誰かの喧嘩すらもいいエンターテイメントなんだろう。
やがて広場には、真とアリスの存在すら見えていないかのように、いつも通りの時間が再び流れ始め、誰もが無関心を決め込む。
――だが。
……アリスだけは、まるで時間が凍りついたかのように立ち尽くしている。
浴びせられた、たったひとつの言葉が、胸の奥へと鈍く突き刺さり、その傷口から冷たい痛みがじわりと広がっていった。
その一言が氷の刃のように鋭く、冷たく、何度もアリスの心の奥底を抉り続ける。
……ただの罵倒ではない。
それは、彼女の存在そのものを否定し、踏みにじり、そして心に大きな穴を穿つかのように深く突き刺さる。
アリスは、そっと自らの首筋に手を伸ばした。
指先に触れたのは、硬質な冷たい感触。
――そう。
彼女の首には、それがある。
生まれた瞬間から刻まれた、逃れられない異質の証。
忌まわしく、そして決して外れることのない鎖。
アリスの瞳に、一瞬、影が差した。
逃れられない現実が、突きつけられる。
――そう……アリスは……。
…………人間じゃない。
否、人間のように振る舞い、微笑み、言葉を交わすことはできる。
誰かを気遣い、共に歩き、時に怒り、時に悲しむことも。
だが――それでも、彼女は『本物』ではない。
アリスの瞳に映るのは、ただの風景ではない。
瞳孔の奥に隠された精密なレンズが、光の反射を計算し、像を結ぶ。
彼女の肌は、人肌に近い温度を保ち、柔らかさもある。
けれど、それは精巧に作られた疑似組織の機能に過ぎない。
――彼女は、『人間のように造られた存在』
最新鋭の自律思考型AIを搭載したヒューマノイド――『メカドール』
その証が、彼女の首にある。
肌に密着する細い輪――制御用のチョーカー。
それは本来、メカドールが『安全に運用されるため』の装置だった。
しかし今は、彼女のような存在を忌み嫌う者たちにとって、『それ』こそが見分けるための象徴になっている。
そして――彼女を蔑むための、安っぽい呼び名でもあった。
『首輪付き』
まるで奴隷のように、あるいは家畜のように。
彼女を、『それ以下』の存在として扱うための、呪詛にも似た言葉。
――初老の男にとって、アリスのような存在は、須らく文明を滅ぼした憎むべき亡霊でしかないのかもしれない。
人類が築き上げた文明を、容易く破壊した機械の群れ。
クオムの外で跋扈する、異形の自律兵器――『レヴュラ』
――誰が、何のために、あんなものを生み出し、そしてどこから現れたのか。
その正体も、目的も、電災から三年近くが経過した今なお、誰ひとりとして知る者はいない。
分かっている事は、ただひとつ。
レヴュラは未知のAIで動き、人類に対して無条件の敵意を向けるという事。
……それだけだ。
AIの反乱によって日常を奪われた怒りや憎しみを抱き、アリスのようなメカドールや、人類に友好的なAIにすら敵意を剥き出しにする者たちがいる。
――A.I.A.(Artificial Intelligence Anticognism)……人工知能反認知主義。
AIを決して人類の仲間とは認めず、徹底的に拒絶する思想。
それを信奉する者たちは、新宿クオムにも一定数存在し、日常的にメカドールへ難癖をつけては騒ぎを起こしていた。
もちろん、電災を引き起こしたのはアリスたちのようなメカドールではない。
メカドールとレヴュラは、たとえ同じAI技術を基盤としていようとも、まったくの別物だ。
だが、A.I.A.に染まった者たちにとっては、AIという存在そのものが敵であり、レヴュラもメカドールも等しく憎悪の対象に過ぎなかった。
――まるで、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」とでも言わんばかりに。
もし本当にレヴュラへの憎悪を晴らしたいのなら、クオムの外へ出て戦えばいい。
命を賭け、一世一代の決闘でも挑めばいいのだ。
だが、それができないからこそ、彼等は安全なクオムの中でメカドールを理不尽に罵り、鬱憤を晴らしている。
結局のところ、彼等の行いはただの『やつ当たり』でしかない。
「……アリス、大丈夫か?」
真の問いに、アリスは一瞬言葉を失った。
沈黙の後、小さく頷く。
「うん……大丈夫……」
だが、その言葉の端には、抑えきれない悲しみが滲んでいた。
真は歯噛みし、あの初老男を追いかけようとしたが、アリスはそっと腕を掴み、首を振った。
「もう、いいから……」
その声音には、静かな哀しみと、諦めにも似た優しさがあった。
――メカドールは決して、人間の敵ではない。
それは、真が誰よりも理解している。
今日だって、アリスは命を懸けて戦った。
たった一丁の拳銃でB級レヴュラの猛攻を引きつけ、それでも、彼女は自分の無事より、まず真の安否を気にかけてくれていた。
そんな彼女のひたむきな優しさが、どれほど貴いものか。
――それは、共に生き抜いてきた日々の中で、幾度となく刻まれている。
メカドールたちは、今も人間のために働いている。
電災によって膨大な労働力が失われたこの世界で、彼等は必死に人類を支えてくれている存在だ。
例えば、焼きたてのホットサンドが香ばしい香りを漂わせる、目の前の屋台――それを切り盛りしているのも、メカドールだ。
食材を丁寧に焼き、調味料を調節し、ひとつひとつ手際よく調理していく。
かつての世界なら、何の変哲もない光景だったかもしれない。
だが、今のこの世界において、温かい食事を提供するその営みが、どれほど尊いものか。
この荒れ果てた世界、人手はいくらあっても足りる事はない。
それを補ってくれているのが、メカドールという者達なのだ。
「お、見ろよ。ホットサンドの屋台が出てるぞ……ちょっと食っていくか」
真は、無理にでも明るく声を弾ませた。
アリスの表情を少しでも和らげたかったのだ。
しかし、そんな意図など、アリスにはお見通しだったのだろう。
彼女はふっと微笑み、首を傾げながら答えた。
「いいけど……でも、先に報告しないとダメだよね?」
真は肩を竦め、わざとらしく溜息をつく。
……まぁ、空腹だったのも事実だが、話題を逸らすためなら、何でもよかった。
それに、クオムへ戻った以上、先に片付けなければならない用件がいくつかある。
ホットサンドよりも、アリスの笑顔を取り戻すことの方が、ずっと重要だった。
もし彼女の表情が晴れないのなら、目の前で派手に転んででも笑わせてやる。
――真は本気で、そう思っていた。
――――――――――――――――――――
「ったく、A.I.A.の老害どもが……」
顔を顰め、吐き捨てるように呟きながら、真は足を踏み出した。
その背中を追いながら、アリスは苦笑を漏らす。
「仕方ないよ……あの人たちも、きっといろんなものを失ったんだから」
「だからって、メカドールに当たってどうするよ?」
真の語気がわずかに強まる。アリスは一瞬言葉に詰まり、けれど、やがて小さく頷いた。
「それは……そうなんだけど……ね」
メカドールへの偏見は、今に始まった話ではない。
アリス自身、それがどうしようもないことであると理解している。
それでも、A.I.A.のような思想が生まれてしまった理由を考えれば、彼等の憎悪に一切の理解を示せないわけでもなかった。
「みんな、先が見えなくてイライラしてるんだよ」
確かに、電災が発生してから、すでに三年余りの時が経った。
それでも未来は依然として霧の向こうで、誰一人として確かなものを掴めずにいる。
行き場を失った怒り、苛立ち、憤り、先の見えない不安と悲しみ。
それらを受け止めるのも、人間に寄り添うことを目的として造られたメカドールの宿命なのだと、アリスは言う。
諦め、あるいは開き直り――どんな言葉を使おうと構わない。
不安と焦燥に満ちたこの世界で、A.I.A.の連中の罵声や侮蔑をいちいち気にしていては、心が持たない。そう笑うアリスの表情には、どこか達観した色があった。
「でもな……A.I.A.の連中は、何も昨日今日、生まれたわけじゃねぇだろ」
真の言葉には、呆れにも似た静かな怒りが滲んでいる。
――電災など起こる前から、あの手の連中はどこにでもいた。
「AIは人間の仕事を奪う」 「技術が社会を壊す」
彼等はそう喚き散らし、そして、いざ本当に世界が壊れた今、「AIのせいでこんなことになった」と、さらに声を大にしただけだ。
……いつの時代も、変化を恐れ、流れに逆らう者は必ず存在する。
過去の栄光や年功序列に縋り付き、何の生産性もない持論を振りかざし、進歩を妨げることばかり躍起になる。
まるで、自分たちこそが歴史の中心にいるのだと言わんばかりに、場違いな誇りを胸に居座る。
『為さず、作らず、請うばかり』
そんな人間は、電災以前から嫌というほど見てきた。
今だって、AIを毛嫌いするくせに、体調を崩せば医療施設へ駆け込み、看護担当のメカドールに世話をさせる。
メカドールが用意した炊き出しには、我先にと群がり、当然の権利のように腹を満たしながら、なおも「世の中をこんなにしたのはAIだ」と罵声を浴びせるのだ。
都合のいい時だけ利用し、都合の悪い時には憎悪を向ける――自分の都合に合わせ、立場を使い分ける連中。
きっと、昔から変わらないのだろう。
――電災以前。
少子高齢化が深刻化し、社会保障費が膨張を続ける中で、その負担を食い潰しながら生きてきたのは、まさにそういった手合いの人間たちだった。
彼等の口癖は決まっている。
「俺たちの若い頃はな……」
語る過去はいつも誇張され、己の功績を偽り輝かせる事には熱心に。
だが、歴史の主役であったはずの彼等が、何も成し遂げなかった事実には頑なに目を背ける。
いつだって、次の世代に尻拭いを押し付け、あらゆる責任から逃げ続けてきたのだ。
――そして、2027年4月8日、電災が発生し、文明社会は終わりを告げた。
だが、それでも、人間の本質というものは、そう簡単には変わらない。
電災から約三年の時間が経過した今でさえ、自分たちは最も庇護されるべき被害者だと信じ込み、何もせず、ただ権利だけを主張しようとする。
クオムの安全が、どれほどの犠牲の上に成り立っているのか――そんなことを考えたことすらないのだろう。
ましてや、自らその一員となり、戦おうという矜持など、最初から微塵も持ち合わせてはいない。
真やアリスのような者が命を懸けてレヴュラを討伐し、クオムを守っている事実すら、彼等にとってはただの『他人事』なのだ。
それを証拠に、彼等は昼間から呑気に酒を煽り、陽の下で愚痴を垂れ流している。 汗水を垂らし、クオムの設備維持や食料生産などで働く、多くの人間がいる平日の昼間に……だ。
……この世の中、酒だって決して安くはないはずなのに。
まともな酒など、今の時代、簡単には手に入らない。
真ですら、最後に酒を飲んだのは一ヵ月以上も前のことだった。
もちろん、個人で密造している者もいるし、今の世の中、酒税法等と言う野暮なものも存在しない。
酒を求めた連中はあの手この手で、自分たちの嗜好を満たしてくれるものを作りだしているが、真はそこまでしてアルコールを求めようとは思わない。
――酒なんて、腹の足しにもならない。
今の世界で、生き延びるために必要なのは、栄養価の高い食糧だ。
満たすべきは、虚無を埋める酩酊ではなく、命を繋ぐための糧なのだから。
ここでアリスの正体について、やっと明らかにすることが出来ました。
この『メカドール』と言う存在に関しても今後、少しずつ明らかになっていきますし、
二人の出会いなども描いていきます。
真やアリスを取り巻く、新宿クオムの様々な人物が出てきますし、この世界に関する
お話がしばらく続いていきますが、どうかお付き合いくださいませ。