『異形を狩る者達』-7
強烈に長いお話になっています。(約16,000文字)
お時間に余裕をもって、お付き合いいただければ幸いです。
――歌舞伎町タワーの二階。
ハンターたちが依頼を受け、報酬を受け取る場所。
――通称『ギルド』は、かつて全国展開していたコーヒーチェーンの店舗跡を、そのままカフェスペースとして流用している。
煤けた天井、剥がれかけのメニュー板、いくら磨き直されても傷の消えないテーブル。
それらは今や、ハンター同士が束の間……レヴュラとの戦いから距離を置くための、数少ない“中立地帯”でもあった。
……尤も、その中立地帯は現在、別種の戦場へと変貌している。
発端は、実に些細なものだった。
鳴神製菓が世に放った、ヒット菓子の双璧――『きのこ高原』か『たけのこ林』か。
いつもの……くだらなくも根深い論争。
それが、なぜか――いや、必然のように――次なる論争へと飛び火した。
コーラ戦争……赤なのか、青なのか。
コココーラを推す派と、ペイシードを推す派の戦い。
……いや、戦いなのか?
「……つまりだ」
「コーラは、単体で完成してる」
赤派。
――コココーラを、信仰に近い熱量で愛する男が、短く息を吐く。
その顔には、すでに結論を語り終えた者特有の、満足感が滲んでいた。
「いやいや」
だが、即座に首を振ったのは青派。
ペイシード派の男である。
「何かと一緒に飲むからこそ、だろ」
「……は?」
「食い物だよ。食い物」
――その瞬間。
真の背筋を、冷たい予感がなぞった。
(やめろ……その角度から話を振るな)
(この流れで、新しい火種を投げ込む気か……?)
だが、その小さな祈りが届くはずもない。
空気を読まないのか、読んだ上で踏み込んだのか。
誰かが、間を置かずに口を開いた。
「コーラが一番美味い瞬間ってさ」
青派の男は、勝ち誇るでもなく、煽るでもなく、妙に落ち着いた声で続ける。
「“何と一緒に飲むか”で決まるだろ?」
「……あ」
誰かが、思わず漏らした声。
それは否定でも肯定でもなく、長年胸の奥に沈殿していた疑問が、今になって言語化された瞬間の音だった。
「……アリス」
「うん……」
真とアリスは、ほぼ同時に視線を交わし、次の瞬間には揃って逸らす。
嫌な予感を共有した者同士が交わす、無言の合意。
「さっきまでの休戦宣言って、一体なんだったんだろうな……」
真の視線は、現実から逃避するかのように、宙を彷徨っている。
アリスもまた、笑みを崩さぬよう、必死に引き攣った表情筋を制御していた。
「やっぱ、ハンバーガーとポテト安定だろ」
誰かが、ぽつりと呟いた。
あまりにも自然で、疑う余地すらない断言。
呼吸と同じくらい、疑問を挟む余地のない前提条件。
――その瞬間。
「……だよな?」
「いや、待て……どこのだ?」
空気が……はっきりと、一段階、重さを増す。
冗談という皮を被った熱論。
議題が“拡張”されたことは、誰の目にも明白だった。
真は、ゆっくりと椅子から腰を浮かせかける。
だが――集まる視線の前に諦め、再び腰を下ろした。
もはや真は、議論の当事者ですらない。
そこにいるのは、ただの――“歩く射爆場”。
流れ弾が定期的に飛んでくる、哀れな中立存在に過ぎなかった。
「やっぱ、コーラとバーガーのセットなら、マクドリル一択だろ」
一歩前に出たのは、グレイスライン隊の榊原恒一。
腕を組み、どこか懐かしむように天井を仰ぐ。
「脂、塩味、炭酸――全部が噛み合ってた」
「ポテトを頬張って、コーラで流しこむ」
「……あの一連の流れな」
「あれは”効く”よな」
赤派が次々と、勝ち誇った顔で力強く頷く。
テーブルの上には、もはや所有者の分からない菓子袋や、使いかけの紙コップが無秩序に散乱していた。
議論の対象から外れた『きのこ高原』と『たけのこ林』の潰れた袋。
その隙間から、甘いチョコレートの香りが、仄かに漂う。
「マクドリルのバーガーはな……」
「コーラを前提に設計されてたと言っても、過言じゃない」
「あの絶妙な炭酸の強さと、わずかなスパイシーさが、脂を一気に流し去ってくれる」
「そして、口の中が一度、きれいにリセットされるんだ。ベスト中のベストな組み合わせだよ」
その断言を合図に、周囲がざわめき始める。
賛同と反発。
相反する感情が、同時に火を噴いた。
「……それは、暴論」
低く、しかしよく通る声が、熱を帯び始めた空気をふたつに割った。
怒鳴るでも、被せるでもない。
ただ、断定するための声音。
「モスフィールドを差し置いて、バーガーとコーラを語らないで欲しいなぁ」
ナイトバックス隊の三枝七海が、一歩、前へと出る。
その所作は落ち着いているが、退く気配は微塵も感じられない。
むしろ――ここからが本番だと言わんばかりの、静かな余裕すらあった。
「野菜の瑞々しさ、肉の旨味」
「そして、そこに重なる、ソースの層」
指折り数えるような口調。
だが、そのひとつひとつに、揺るぎのない確信が宿っている。
「どれもが喧嘩しないで、ちゃんと調和してる……それが、モスフィールド」
「……そこに、コーラを合わせるから、完成するの」
――すかさず、マクドリル派が噛みついた。
間合いを詰めるような、鋭い声。
「コーラは“添え物”だってのかよ?」
だが七海は、一拍も置かずに言い返す。
「そう」
――即答。
躊躇いの欠片さえもない。
「モスフィールドとコーラは、互いに美味しさを引き立てるの」
「コーラの役割も、口に運ぶ順序も……まるで、違うのよ」
誰かが、思わず首を傾げた。
理解が追いつかない、というより――もはや、何を言っているのかわからない、といった表情だ。
……うん。信仰とは、時として末恐ろしく感じるものがある。
そういえば最近、レヴュラを使徒とし、電災を神の裁きだなどと騒ぐカルトがいるらしいが。
「そう。まず一口、噛む」
「それから、少し間を置いて――コーラ」
「……その“間”が、大事なの」
「間……? なにそれ……ポエムかよ?」
誰かが吹き出し、一気に笑いが弾ける。
テーブルを叩く乾いた音が響き、場の空気が一瞬、緩んだ。
だが――その笑いの裏側で、真は確信していた。
(ああ……これは、誰にも止められない)
コーラ戦争は、いつの間にか“バーガー内戦”へと、確実に激化している。
思えば、発端はきのこか、たけのこか――その程度の話だったはずなのに。
「バーガークイーンを忘れんな」
「ロムロムバーガーこそ、隠れた至高だろ」
そんな声も聞こえてくるが……いや、この際、お前らの意見はどうでもいい。
頼むから、これ以上口を挟んで、話をややこしくしないでくれ。
「で、篠崎」
榊原が、にやりと口角を吊り上げる。
獲物を追い詰め、逃げ場を確かめる狩人の――それだ。
「コーラ片手に、どこのバーガー、食ってた?」
「篠崎さん!」
今度は七海。
一歩も引かず、静かな圧で視線を絡めてくる。
「どっち?」
「篠崎、答えろー」
「真、逃げんなー」
周囲のハンターたちは、もはや隠す気もなく、完全に煽りに回っていた。
カフェスペースの熱量は、下手な戦場の高揚よりも高いのではなかろうか。
視線と笑い声が、一斉に真へと集中する。
……完全に、おもちゃだった。
「……お前らさ」
真は、観念したように両手を上げた。
降参の意思表示というより、これ以上抵抗しても無駄だと悟った動きに近い。
「……頼むから、よってたかって、俺をレヴュラより追い詰めるの、やめてくれない?」
――どっと、笑いが弾ける。
そうだ。
真も、この場にいる誰もが、分かっている。
これは最初から“わざと”だ。
たまたま今、おもちゃにされているのが真だった――ただ、それだけの話。
「それは無理だな」
「レヴュラは殺意しかないけど、こっちには、愛があるから」
「余計に質が悪いわ!」
笑いの波に飲み込まれながら、真は、逃げ場が完全に塞がれていることを悟る。
「……マクドリルは、仕事帰りとか、朝の……ちょっとしたひとときとか?」
「モスフィールドは――そうだな……誰かと一緒の時……それか、ガチで腹が減ってるときだ」
「もう、それでいいだろ!」
――そして、再び訪れる沈黙。
「……結局それか」
「欲張りめ!」
「中立は一番信用ならねえ!」
真は、がっくりと肩を落とす。
そんな真の背中へ、容赦のない追い打ちが飛んだ。
「真……」
苦笑を滲ませた声で、囁くアリス。
「……地雷踏むの、うますぎるよ?」
「踏みに行ってねえよ……」
ぼやいた、その直後だった。
「……でもさ」
誰かが、ふと、遠くを見るような目をする。
先ほどまで熱を帯びていた空気が、わずかに緩んだ。
「もう、どっちも無いんだよな」
――その一言で、場が静まり返る。
看板の光。
夜道に滲んでいた、OPENのネオン。
紙袋越しに伝わる、ほんのりとした温もり。
焼けたパティの匂いと、揚げたてのポテトが混ざり合う、あの香り。
仕事帰りに、ふらりと立ち寄った店。
並んだメニューを前に、無駄に悩んだ時間。
一人で、あるいは誰かと向かい合い、くだらない話をしながらハンバーガーを頬張る。
”匂い”を抱えたまま、少し早足で家路を急いだ夜も、確かに存在していた。
だが――それらすべては、電災を境に、遠い追憶の彼方だ。
それぞれが懐かしい思いに浸る沈黙の中で、誰かが静かに口を開く。
「だから話すんだろ……覚えてるうちに」
「俺達が、この壊れかけた世界に、染まりきっちまう前に……さ?」
別の誰かが、低く続けた。
「守りたいものとか、取り戻したいものを……忘れないために……とかな」
真は、その言葉を胸の奥で反芻しながら、完全に冷めきったコーヒーへと視線を落とす。
黒く濁った液面には、天井の照明がぼんやりと揺れて映り込み、まるで今の空気そのものを閉じ込めたようだった。
――くだらない。
――ばかばかしい。
それでも。
だからこそ。
この時間が、まだ“生きている”証なのだと。
ここにいる誰もが、言葉にせずとも理解していた。
「……でもさ」
その一言が、静まりかけていた場に、再び小さなさざ波を立てた。
完全な沈黙に落ちる直前――あえて石を投げ込むような、間の悪さ。
ハンバーガー内戦がひとまず収束し、誰もがどこか名残惜しそうに、カップや紙袋へと視線を落とした――まさに、その瞬間だった。
「正直、言うとさ」
誰かが、ぽつりと零す。
――いや、これは呟きじゃない。
確信犯だ。
火種を落とす、乾いた音が、確かにした……気がする。
「電災のあと、最後の味方って……結局、カップ麺だったよな?」
真は、反射的に目を閉じた。
(どうして……どうしてこいつらは、休戦という概念を、学ばないんだ……)
『人は過ちを繰り返す』――はて、誰の言葉だったか。
「……ああ」
「異論は、ないな」
「バーガーの夢は見ても、現実は……これだ」
誰かが、自然とテーブルの中央へ視線を向ける。
そこにあったのは、色褪せたパッケージのカップ焼きそばだった。
かつては、棚一面に並び、どれにするか悩む余裕すらあった“夜の相棒”。
何も考えずに湯を注げば、それだけで空腹も、気持ちも、どうにかしてくれた存在。
今では――見つけただけで、運がいいと言われる代物だった。
賞味期限がとっくに切れているはずなのに、一個五千円で取引される、平和だった頃の……電災前の残滓。
「で?」
わざとらしく首を傾げる声が、間を置いて響く。
「どれだった?」
真は、まだ名指しされてもいないというのに、嫌な予感だけで肩をすくめた。
この流れは――だめだ。
これは、絶対に逃げ切れない。
「やっぱ、X-9だろ」
低く、揺るぎない声が、場を貫く。
「日辰食品こそ、カップ麺の王様だ」
「湯を入れて、混ぜて……匂いが立った瞬間で、勝負が決まる」
「ソースの主張が強くて、とにかく、ガツンと来る」
同意見の者たちが、うんうんと頷きながら目を閉じ、遠い過去の味覚を反芻する。
「だから、腹が減ってる夜に効くんだ」
「空っぽの胃袋を、力ずくで黙らせる味だろ」
その一言一言に、実感が滲んでいた。
机上の理屈じゃない。
何度も、何度も、深夜をそれで越えてきた猛者どもの声。
……いや。
決して、そこまで崇高な話などではないのだが。
「……わかる」
「徹夜明けによく食ってたわ」
低い共感が、あちこちから零れ落ちる中、当然のように、反論もすぐ飛んだ。
「いやいや、屋台三平君こそ、夜食の王様だよ」
「祭りで食べる焼きそばを思い出させてくれる……あれは、唯一の存在だ」
「軽い甘さと、鼻に抜けるマヨの匂い。そして――“まだ人間でいられる味”」
「X-9はさ……全部が、ちょっと暴力的すぎるんだよ」
その表現に、真は思わず顔を上げた。
(……待て)
(じゃあ、X-9食ってるやつは、人間以外の何なんだ?)
視線の先で、X-9派の面々が、揃って眉をひそめる。
新たな戦線が、静かに――だが、確実に、開かれようとしていた。
「……いや、結局さ」
低い声が、場に残っていた熱を、すっと割って入った。
喧騒の縁をなぞるような、落ち着いた調子。
「なんだかんだ言って、カップ焼きそばの全ては、ペタンクに通ずる」
新たな陣営の参戦に、視線が集まる。
まるで無言の照準が、その男に合わせられたかのようだった。
(いや、たかがカップ焼きそばを、“全ての道はローマに通ず”みたいに言うなよ……)
真は、心の中で即座に突っ込む。
「シンプルで、王道」
男は、諭すように続けた。
「濃すぎず、薄すぎない、あのソース。毎晩食っても、喧嘩しない味だ」
「そこに、最後の一押しをくれる……あのスパイスの小袋」
「理屈じゃない。夜中に腹が減ったら、あれ一択だった」
その言葉に、ペタンク派の何人かが、小さく息を吐く。
否定ではない。
思い当たる節がある時の、あの反応だった。
「知ってたか?」
男は、ほんの少しだけ得意げになる。
「“ペタンク”って名前」
「ペアと、タンクから来てるらしいぜ」
「発売当初は、高かったカップ麺を二人で分け合って食えるように――って話だ」
「その時の麺の量が、後のカップ焼きそばのスタンダードになったらしいぜ」
実にどうでもいい蘊蓄話ではあるが、ペタンク派には好評のようだ。
「……ああ。確かに、金なかった頃、友達と半分ずつ食ったな」
「うちは弟と分けてた」
「なんか、そんな漫画のワンシーン、あったよな?」
思い出話が、ぽつり、ぽつりと連なっていく。
――どれも、派手じゃない。
だが、ざわめきは、静かに広がっていた。
そこには、もはや豪語も、罵声もない。
ただ、「そうだったな」という感情だけが、ゆっくりと空気を満たしていく。
――そして。
「篠崎」
「お前は?」
(……やっぱり、こうなるのかよ)
真は、観念したように、ゆっくりと両手を上げた。
……降参の合図だ。
こいつらの信仰じみた論争に巻き込まれた以上、抵抗は無意味だということを、すでに学んでいる。
「……俺は」
一拍置き、言葉を選ぶ。
「その時、手に入ったやつ。安かったりとか、最初に目に入ったやつとか」
再び、沈黙。
――この後どうなるかなど、考えるまでもない。
「やっぱ、逃げたぞ」
「異端者め」
真は椅子の背にもたれ、天井を仰いだ。
年季の入った照明が、わずかに明滅しながら、白く滲んで見える。
(異端者呼ばわりされるくらい、俺、何か悪いことしたかなぁ……? 一生懸命、レヴュラ倒してるのになぁ……)
(あ、これ、もしかして……林の呪いか?)
先日、この場所で騒動を起こし、今はユニオンに拘留中のブレイズ隊――林のニキビ面が、脳裏をよぎる。
あの場で、彼を追い詰めたのは、他ならぬ真だった。
――因果応報、というやつか。
……いや、待て。
食の好みだけで、そんな報いを受けてたまるか。
「……電災で、電気が落ちてさ」
誰かが、ぽつりと低い声で語り始めた。
「ガスも水も、いつ止まるかわからなくて」
「それでも……買い置きしてたカップ焼きそばに、救われたんだ」
あれは三年前の四月……。
空腹を満たすため、容器に湯を注ぎ、ただ待つ。
立ち上る蒸気が、暗闇の中で冷え切った部屋の空気を押し返し、ソースの匂いが、ゆっくりと広がっていく。
……たったそれだけのことが、当時は確かな救いだった奴も多いはずだ。
「やけにそれが旨くてさ……“生きてやる”って、思えたんだよ」
沈黙が、静かに落ちる。
それを茶化す者は、誰一人としていない。
ギルドの外には、荒れ果てた歌舞伎町が広がっている。
――崩れかけたビル、錆びついた看板。
かつて洪水のように溢れていたネオンは、今では指折り数えるほどしか残っていなかった。
不夜城と呼ばれた街は、夜を拒むように、重たい闇を纏っている。
だが……このカフェスペースの一角だけは。
ほんの一瞬、電災前と同じ、“どうしようもなくくだらない熱”を取り戻していた。
真は、小さく息を吐き、苦笑する。
「でもさ」
誰かが、続けた。
「こういうのが残ってるから……まだ、戦えるんだろ」
確かに、この場にいる全員が、かつてはそれぞれの生活を持っていた。
仕事帰りに愚痴をこぼし、週末を待ち、くだらない娯楽に一喜一憂する――そんな、ごく当たり前の日常だ。
まさか自分が武器を握り、異形の無人兵器と向き合う日々を送ることになるなど、誰一人として、想像していなかったはずだ。
そんな日常を取り戻す……あの平和だった時代に帰る。
……それこそが、この壊れかけた世界で、武器を手に取り、レヴュラという名の異形と睨み合う――現代の狩人たちの『戦う理由』
アリスが、真の隣で小さく頷く。
「うん」
「だから真も、逃げちゃだめ」
「……俺、できれば、今すぐにでも逃げたいんだけど?」
真の即答に、堪えきれなかったように笑いが弾けた。
低く荒れた笑い声が、ギルドの天井に反響する。
――――――――――――――――――――
――その後、真は、テーブルに突っ伏していた。
額の下には、空になったコーヒーカップ。陶器の冷たさが、やけに現実的だ。
肩は重く落ち、魂の半分くらいがどこかへ行っている――いや、置き忘れてきたと言ったほうが、正しいかもしれない。
周囲では、さっきまで激論を交わしていたハンターたちが、まるで何事もなかったかのように、雑談へと戻りつつあった。
紙袋やカップを片付けながら、独特の緩さだけが漂っている。
「いやー、今日はいいもん見た」
「篠崎、よく耐えたな」
「遊んだ遊んだ。なぁ、次は何戦争やる?」
「お前ら……」
真が、テーブルに顔を伏せたまま、かすれ声を絞り出す。
「完全に俺を、おもちゃにするつもりだったろ……」
だが、そんな恨み節は、散々ワル乗りで盛り上がったハンター連中には、届かない。
――その時だった。
「――真? この世の終わりみたいな顔して、なにしてんの?」
軽くて、よく通る声。
カフェスペースのざわめきを、軽々と跳び越えるような明るさだった。
この世の終わり……現実的に考えれば、この世はとっくに終わっているような気もするが。
真は、顔を上げる気力すら湧かず、呻く。
「……ほっといてくれ……」
――ルナだった。
討伐帰りらしく、ジャケットの上にキャリアプレートを着込み、手には明らかに銃器の入った行軍嚢。
そのくせ、髪は乱れていないし、頬には薄く上気したような赤みが残っていた。
なにより、その表情。
――どう見ても、面白いことを見つけたという顔だ。
「なに? レヴュラに撃たれた?」
「それとも、お財布でも落とした?」
「……違う……もっと、手強いやつだ……」
ルナは、真を上から下まで一瞬だけ眺めると、口角をきゅっと上げた。
「ふーん?……じゃあ、なに?……コーヒーの代わりに、泥水でも出された?」
「――どんだけ、ギルドに嫌われてんだよ、それ」
真は、ゆっくりと顔を上げる……が、その目は、死んだ魚のようだった。
「……たった今さ……長きにわたる戦争の末に……やっと……やっとだぞ? 休戦協定が結ばれたんだ……」
「……?」
ルナは、きょとんとした顔で、ぱちぱちと瞬きをする。
「なにそれ? 意味わかんないんだけど?」
そこで、アリスが、くすくすと笑いながら、ルナの耳元で囁いた。
声を潜め、指折りで、手短に説明していく。
発端は、スティールジャガー隊のきのこ高原と、たけのこ林の論争。
そして、赤のコココーラと、青のペイシード。
マクドリルと、モスフィールド。
そして――夜食のお供、カップやきそばたち。
話が進むにつれ、ルナの表情は、呆然から困惑へ、そして理解へと変わり――次の瞬間。
「――なにそれ!」
ルナは、腹を抱えんばかりに笑った。
「超、面白いんだけど!」
明るい笑い声が、カフェスペースいっぱいに弾ける。
「全然、面白くねぇよ……」
真は、再びテーブルに突っ伏した。
ルナは、そんな真の背後に回り込み、屈むようにして、顔を覗き込む。
距離が近い。わざとだ。
「え、なに? もしかして、全部、巻き込まれたの?」
「そうだ……完全に巻き込まれて、逃げられなかった」
ぐったりしながら、かすれた声をひねり出す真をよそに、ルナは楽しそうに声を弾ませる。
「真、真。それさ――レヴュラと戦うより、よっぽどダメージ受けてない?」
「否定できない……」
そんな真の、精根尽き果てたかのような反応に、周囲から、堪えきれなかったような笑いが漏れる。
「お、ルナ、いいとこ来たな」
「今日の篠崎、なかなか芸術点高いぞ」
「へえ?」
ルナは、真の横に腰を下ろし、テーブルに肘をついて顔を近づけた。
覗き込む角度も、視線の位置も、計算済みだ。
さすが、歌舞伎町で生きてきた、元キャスト。
こいつはいつだって、自分を一番可愛く見せる角度を、わかっている。
男をドキドキさせることに関しては天下一品だ。
――この小悪魔メカドールめ。
「ねえ、真……? で、結局どれ派なの?」
「うるせぇ、聞くな……」
「えー?」
「せっかくなんだから、教えてよ」
真は、しばらく黙り込み――やがて観念したように、深く溜息をついた。
「……その時、手に入ったやつだ……」
しばしの沈黙の後……ルナは目を瞬かせ、それから、思いきり笑った。
「真らしい」
「ほんと、真らしいよ、それ」
「臨機応変……こだわりよりも、生き残るために選ぶんだもん」
その笑い方は、からかい半分。
けれど、どこか――安心したようでもあった。
そんな様子に、通りがかったハンターが、肩越しに茶化す。
「お? なんだ、篠崎。今日もハーレムか?」
「違うわ!」
真が、即座に声を張り上げる。
ルナは肩を竦めると、悪戯っぽく笑ってから、真の肩を――ぽん、と軽く叩いた。
「お疲れさま。今日はもう、戦わなくていいよ」
「……助かる……」
――真は、心底そう思った。
ギルドの二階には、実にくだらなく、そして――驚くほど平和な時間が流れている。
だが、真は、それを……大事に思っていた。
――この新宿クオムが、まだ“東洋一の歓楽街・歌舞伎町”と呼ばれていた頃。
真は、文字通り、一匹の野良犬だった。
何もかもが気に入らず、うまくいかない自分の人生を呪うように、くだらない理由で人を傷つけ、暴力でしか物事を解決できなかった。
――一言で言えば、クズだ。
それでも、この街で多くの人と出会ってきた。
時には殴られ、怒鳴られ――少しずつ……ほんの少しずつだが、人間らしい感情を、取り戻しつつあったのだ。
この街で生きていけるかもしれない……そんな風に思い始めていたある日。
……電災は、そのすべてを無情にも奪い去った。
――あれから、三年余り。
この場にいる者たちとて、電災以前からの知り合いではない。
正直に言えば、よく知らない奴もいる。
顔を見ても、名前を思い出すまでに時間がかかる相手も、少なくない。
それでも――この“クオム”という、ちっぽけで、脆い楽園を守るために。
ハンターたちは今日も、可能な限りの武器と装備を身に纏い、当然のように、“外”へと赴いていく。
確かに、目的は金だ。
生きるための、現実的で、否定しようのない理由。
だが、そのハンターたちがレヴュラを漸減し、クオムへの浸透を必死に食い止めているからこそ――この場所は、まだ“楽園”でいられる。
自分では狩りに出られない高齢者が、帰還してきたハンターに、ぎこちなく頭を下げ、小さな声で「いつもありがとう」と告げる光景。
――真は、これまで何度も目にしてきた。
電災で、多くの者が目にした、無秩序な暴力。
あの機械兵器が、再び本格的に襲い来れば、犠牲者が増えるのは疑いようもない。
真っ先に狙われるのは――間違いなく、高齢者と、女子供だ。
ハンターたちは、「生きるためだ」と口にしながら、クオムに住まう人々の命をも、同時に背負っている。
――誰も、口にはしない。
だが、誰もが、それを理解していた。
……自分たちが、このクオムの防衛線であることを。
中には、ヘタを打って仲間を喪った者もいる。
レヴュラに、二度と消えない傷を刻まれた者もいる。
大した娯楽のないこのクオムで、こんなくだらない馬鹿話で盛り上がれるのも――“次”があるとは、限らないからだ。
今日、ここで笑っていた顔が、明日には、物言わぬ骸として、クオムの外に転がっている。
――そんな現実は、決して珍しいものではない。
だからこそ、語る。
だからこそ、笑い合う。
それは、『明日もまた会おうぜ』という、言葉にしないエールだ。
こんな些細な論争ですら、今日まで生きてきた証。
そして――また次も、くだらない話をしよう。
そのために……生きて帰って来ようという、無言の誓いなのだった。
――――――――――――――――――――
――そして、夜の帳が、元・歌舞伎町一番街に、ゆっくりと下り始めた頃。
昼間の喧騒が嘘のように遠のき、屋台は次々と店じまいを始める。
電力供給が十分でない現在、通りに設置された街灯の多くは、もはや役目を十分に果たせていない。
灯るはずの光を失ったそれらは、夜の闇の中で、ただの錆びたオブジェとして立ち尽くしていた。
だからこそ、人々は闇が完全に訪れる前に、自然と足を速める。
影が伸び、夜の闇が街を覆いつくすその前に――家路を急ぐ。
そんな、薄暗くなり始めた通りの一角に、母子が、寄り添うように立っていた。
――母親は、クオムの末端労働者。
清掃作業や雑務をこなしながら、日銭を稼ぎ、なんとか娘を養っている。
だが、この世界の経済は狂っている。
日々を生き延びるだけでも精一杯で、余裕など、どこにもない。
稼ぎが少ないのではない。物価が出鱈目なのだ。
それでも――娘の視線は、ある一軒の屋台に、釘付けになっていた。
電災以降に生み出された、ツナバーガー。
大量に回収できたツナ缶を、肉の代わりに用いて作る大衆食だ。
この通りにも、同様の屋台や、放棄された店舗を再利用した飲食店で、多く売られている。
普段なら、それらを出す、ごくありふれた屋台のひとつ。
だが、その日、その屋台の前には、手描きのポップが掲げられていた。
『本日限定 スパムバーガー』
……経緯はどうあれ、スパムの缶詰が手に入ったのだろう。
焼いたスパムと野菜を、ツナバーガー用の代替粉バンズで挟んだ――即席の特製品らしい。
この街の住民は、いつだって蛋白質に飢えている。
野菜は、屋上菜園や、クオム周辺に作られた農園などで、なんとかなっている。
……だが、肉となると、そうはいかない。
流通という概念が死んだ東京のど真ん中で、まともな肉が簡単に手に入るはずもなく、その結果、蛋白質は……最も手に入れにくい栄養素のひとつとなった。
――だが、蛋白源がない……というわけではない。
たとえば……『パワーボール』と名付けられた、米とは異なる穀物で握られた、おにぎりのような代物。
蛋白質も摂取できるとは言われているが……その材料名を聞いてしまえば、多くの者が言葉を失う。
かつて、世界がまだ平和だった頃に、食肉危機の代用品として、一時期ニュースにも取り上げられた――アレ。
大人でさえ、口にするのを躊躇う代物だ。
子供なら、泣きながら吐き出すかもしれない。
願わくば、避けて通りたい食い物のひとつだ。
――だからこそ。
屋台を見つめる娘の目は、まるで宝物を見つけたかのように、きらきらと輝いていた。
希少な肉製品を使った、特製バーガー。
それは、たったひとつで――母親が必死に働いた一日分の収入……その三分の二が吹き飛ぶ。
それでも、母親は、娘にこれを食べさせてやりたかった。
母子家庭で、娘にしてやれることは多くない。
今の世の中、新しい服も、贅沢な遊びも、望めない。
せめて……せめて今日だけは、美味しいものを食べさせてあげたい。
そう思った母親は意を決して、屋台へと歩み寄った。
「……はい、どうぞ」
笑顔の店主から、丁寧に包まれたスパムバーガーを受け取る。
中身は贅沢にアレンジされ、肉厚なスパムと、新鮮な野菜が、たっぷりと挟まれていた。
この荒廃した時代では、こんなものであっても……『高級料理』と呼ぶことに、誰も異を唱えない。
母親は、娘の小さな手に、それをそっと持たせた。
娘は目を輝かせ、ぎゅっと、そのご馳走を抱きしめるように持つ。
――高価な食事だ。
だが……我が子の、この笑顔を見られるなら――明日からも、また頑張れる。
母親はそう思い、微笑みながら、スパムバーガーを大事そうに持つ娘と、家路につこうとした。
――しかし。
運命は、あまりにも無情だった。
「きゃっ!」
ふらついた酔っ払いの男が、娘の肩にぶつかる。
その拍子に――小さな手の中にあったバーガーが、するりと抜けて宙を舞った。
母親と娘の目の前で――それは、無情にも地面に叩きつけられ、ぐちゃりと潰れる。
たった一口も、口に運ばれることのないまま。
肉も野菜も……ソースさえも、そのすべてが無惨に、汚れた路面の上で散乱した。
「いやぁぁぁぁぁぁぁっ!」
娘の悲痛な叫びが、静まりかけていた通りに突き刺さる。
母親は反射的に娘を抱きしめたが――どうすることも、できなかった。
酔っ払いの男は、「チッ」と舌打ちをひとつ鳴らしただけで、謝る素振りすらも見せず、足早に立ち去っていく。
周囲にいた人々も、見て見ぬふりを決め込み、関わりたくないとばかりに視線を逸らし、無言で通り過ぎていった。
――そう、こんな世界では、誰もが人のことを気遣う余裕がない。
みな、自分を生かすことで、精一杯なのだ。
電災という出来事は、多くの人間から、他人を思いやる余裕さえも、奪い去った。
母親は、震える手で財布を開く。
だが、そこに残っていたのは、わずかな紙幣が数枚と、小銭だけ。
――もうひとつ、買えるような余裕はない。
娘は、しゃくり上げながら、泣き続ける。
たったひとつのご馳走さえ、我が子に与えてやれない……母親の顔には、どうしようもない絶望が、はっきりと浮かんでいた。
――――――――――――――――――――
「……真……あれ……」
ギルドからの帰り道。
真とアリスも、夕食を調達するために、一番街へと足を向けていた。
彼女が、小さな声でつぶやく。
――彼女の視線の先。
屋台の前で、泣きじゃくる少女と、その小さな肩を抱きしめる母親。
そして――路上に、無惨に散らばった、食材の数々。
真は、一言も発さず、アリスに目を向ける。
そして、小さく、無言の相槌を打った。
――分かっている。
本来なら、気まぐれで誰かに施しをするべきではない。
こんな世界だ。一人に手を差し伸べれば、「俺も」「私も」と、その善意に縋りつく者が現れる。
縋る者すべてを救う余裕はない。
だから、こういう場では、見なかったことにするのが基本だ。
……だが。
その時の真は、どうしても、そうはできなかった。
買ったバーガーは、どうやらひとつだけ。
その唯一の食事が、地面の上で、無惨に散らばっている。
泣きじゃくる娘を抱きしめる母親は、やけに痩せていた。
きっと、自分の食費を削ってまで、娘にご馳走を食べさせたかったのだろう。
……だから一個だったのだ。
――それは、かつての自分には、決して与えられなかったもの。
母親の、無条件の愛情。
自分を顧みず、我が子を思う母の愛情は……真が、欲しくても得られなかったものだ。
――アリスは、泣きじゃくる娘に近づくと、そっとしゃがみ込み、優しく声をかける。
「大丈夫?……落としちゃったの?びっくりしたよね」
そう言いながら、細い背中に手を添え、ゆっくりと撫でる。
その動きは、幼子をあやすというより――守るような所作にも見えた。
「でもね、まだ買えるみたいだから。安心して」
そう言って、アリスは屋台へと歩み寄る。
迷いはなかった。
躊躇いもなくスパムバーガーをふたつ注文し、受け取ると、再び母子のもとへ戻る。
「これ、あなたとお母さんに」
アリスは、母娘に包みを差し出した。
「お母さん、あまり食べてないでしょう? この子のためにも、ちゃんとご飯、食べてくださいね」
母親は驚いたように目を見開き、言葉を失ったまま、一瞬だけ手を止める。
だが――アリスの柔らかな微笑みに背中を押されるように、そっとそれを受け取った。
「……ありがとう、ございます……本当に……」
母親の声は、かすかに震えていた。
娘は涙を拭いながら、もう一度、スパムバーガーを胸にぎゅっと抱きしめる。
まるで宝物を失くすまいとするように。
「今度は、落としちゃだめだよ?」
だが、アリスがそう声をかけた、その背後で――場違いな声が、空気を切り裂いた。
「おいおい、いいご身分じゃねぇか」
振り返ると、汚れたコートを羽織った年配の男が、ニヤついた笑みを浮かべて立っていた。
頬は赤く、足取りもおぼつかない。誰の目にも、酒に酔っているのは明らかだった。
「メカドールが人間様に奢るなんざ、大したもんだぜ?」
男は、ふらふらと距離を詰める。
「だったらよ、俺にも奢ってくれよ。そこの限定バーガー、もう一個……な?」
アリスは、何も答えなかった。
少なくとも、この小さな子に危害が及ばないようにしなければならない。
男に視線を向けることなく、娘の方を見つめたままだ。
怯える娘に、目で「大丈夫だから」と訴えかける。
――だが、その沈黙が、却って男の癇に障った。
「おい、聞いてんのか?」
男は唾を飛ばしながら、声を荒げる。
「それともよ……食い物がダメなら――身体でサービスしてくれてもいいんだぜ?」
男の目つきが、露骨に下卑たものへと変わり、値踏みするように、舐め回すように……アリスを見た。
確かに、メカドールは、『そういうこと』すらも可能な設計だ。
そうした用途で利用されてきた個体も、決して少なくない。
電災が起こらなければ――アリスもまた、メカドール専門の風俗店で、キャストとして生きていたはずだった。
酔った男の脳裏には、長い間、鬱屈して溜め込んできた欲望が浮かび上がる。
それを、目の前の存在で発散できるのではないか――そんな歪んだ期待が、にじみ出ていた。
相手は所詮メカドール。人ではなく、『モノ』だ。
影宿にでも連れ込んでしまえば、誰にもわからないだろう――そう考えていた、その時。
――男のすぐ後ろで、深いため息が落ちる。
男は、目の前のアリスに”連れ”がいるとは、予想もしていなかったらしい。
「……ほんと、どうしようもねぇな」
その一言と同時に、真は一歩、男の前へと踏み出した。
「んだと?」
男は、酔いの勢いもあって、最初こそ威勢よく睨み返した。
だが――真の腰にぶら下がる大型のナイフ、そして太腿のホルスターに収められた拳銃が視界に入った瞬間、その顔から、みるみる血の気が引いていく。
クオムの一般住民は、基本的に銃火器とは無縁の生活をしている。
政府が機能していないとはいえ、ここは日本だ。
銃とは、遠い世界の話――映像の中か、噂話の中にしか存在しないもの。
至って普通の反応だろう。
――だが、ハンターは違う。
クオムの内外を問わず、常に銃器を携え、刃物を身につけている者たち。
それは誰かを威圧するためでも、ましてや見せびらかすためのものでもない。
「いつでも死ぬ場所へ赴く」という覚悟を、日常の一部として背負っている証だ。
そして――ハンターである以上、その暴力の象徴を「どう使うか」……よく理解している。
「お、お前……」
男の喉が、ひくりと鳴る。
酒で赤らんだ顔に、汗が滲み始めていた。
「――言っておくけどな」
真の声は低く、抑えられていた。
怒鳴るでもなく、脅すでもない。
それがかえって、男の背筋を冷やす。
「俺は今、猛烈に機嫌が悪い」
ギルドのカフェスペースで、ハンター仲間に捕まり、延々と続いた、くだらない嗜好論争。
どうでもいい話題で引き止められ、散々からかわれ、時間を奪われた。
その疲労が、まだ抜け切っていない。
――その上で、だ。
目の前で、人の善意を踏み躙ろうとする、醜い姿を見せられた。
それだけで……真の奥底で、ふつふつと眠りを覚ます粗暴な本能。
真をはじめとするハンターたちは、こんなくだらない連中の安寧を守るために、命を賭け、“外”の世界に赴いているのではない。
真は、ゆっくりと男を見据える。
その視線には、感情らしい感情が、ほとんどなかった。
ただ――数え切れないほどの死地をくぐり抜けてきた者だけが持つ、鋭い刃物のような、冷たい重み。
その冷徹な目に射抜かれ、男は思わず一歩、後ずさる。
酒の勢いを借りて強がることはできても、銃を携え、なお平然と立っているハンターを前にして、同じ態度を貫ける人間は、そう多くない。
クオムの中で暮らす者にとって、ハンターとは――安全を守る存在であると同時に、決して日常に溶け込まない、“別の世界の住人”だ。
銃を持ち、レヴュラと殺し合い、昨日まで隣にいた仲間が、次の日には戻ってこないこともある。
そんな現実を、当たり前のように背負っている人間。
たとえ、電災前に平和な暮らしを送っていた者であっても、“外”で生き抜くことを選んだ人間には、皆、独特の雰囲気がある。
生き抜くためには手段を択ばないという、冷徹な判断ができる者たち。
それが、ハンターという生き物だ。
その視線を、真正面から向けられるという意味が、この男にも、ようやく分かり始めていた。
尤も……ハンターとて、頭に血が上ったからと、クオムの中で無闇に銃をぶっ放すなどということは、許されていない。
だが、男は、そのことまでは知らないようだった。
――だからこそ、男は想像してしまう。
――最悪の結末を。
どこまでも深淵の闇へと続くような、真っ暗で冷たい銃口を向けられ、引き金が引かれる瞬間を。
撃鉄が落ち、黒い孔から飛び出す、わずか数グラムの鉛が、自分の肉体を容易く貫く。
あるいは、腰のナイフで一閃……喉笛を切り裂かれるかも知れない。
――血と脳漿を撒き散らしながら、悔いる間もなく、自分の命が確実に刈り取られる瞬間を……容易に想像できてしまう。
「……ク、クソが……」
苦し紛れに吐き捨てたその言葉は、負け犬の遠吠えにもならないほど、弱々しかった。
男は視線を逸らし、肩をすぼめるようにして踵を返す。
さっきまでの下卑た余裕は跡形もなく、足取りも定まらないまま、闇の中へと逃げるように消えていった。
――アリスは、特に気にした様子もなく、母子の方へと振り返る。
こういった荒事も、真がいれば問題ない――そんな信頼が、その表情には当たり前のように浮かんでいた。
「さ、冷めないうちに食べて」
その一言で、張り詰めていた空気が、ふっと和らぐ。
母親は何度も頷くようにして深く頭を下げると、娘と一緒にスパムバーガーを頬張った。
そんな様子に、さっきまで冷たい目をしていた真の表情にも、ゆっくりと柔らかさが戻る。
「お……それ、美味そうだな? せっかくだし、俺たちも食おうぜ。ちょっと買ってくるわ」
そう言って屋台へ向かう真の背中を見送りながら、娘が小さな声で、アリスに問いかける。
「あの人……お姉ちゃんの彼氏?」
突拍子もなく、不躾な質問に、母親は真っ赤な顔で、娘を慌てて制する。
だが、アリスは気にした様子もなく、少し首を傾げて、くすりと笑った。
「んー、どうかなぁ? どう思う?」
娘は一瞬だけ考えてから、満面の笑みで答える。
「お姉ちゃんの彼氏! だって、仲良さそうだもん!」
アリスは、くすっと小さく笑い、指を唇に当てて、優しく微笑んだ。
――この世界は、優しさすらも満足に与えてくれない。
「……いつまで続くんだろうな」
スパムバーガーを頬張りながら、真はぽつりと呟く。
誰もが当たり前のように、好きなものを食べることすらできない。
そんな暮らしは、一体いつ終わるのか――と。
――それでも。
自分を削ってでも、娘にご馳走を食べさせようとする母親の思いを確かに見た。
そんな小さな思いが踏み躙られることのないように……クオムを守り続けなければならない。
自分も含め、この街に住む者達が、あの平和だった日々へと帰るために。
――だがこの時、真はまだ知らなかった。
自分が思っている以上に事態は深刻であり、この新宿クオムに、危機がそこまで近づいていたことを。
前回の『きのこたけのこ』戦争からの流れになってまして、
いささかくどい感じがしますが、どうしてもバカバカしい
遣り取りをさせたかったのと、そのために、食の論争で
話を切る事も憚れたので、長文そのままで投稿する
ことにしました。




