『異形を狩る者達』-6
――旧歌舞伎町タワー。
かつては眠らぬ街、歌舞伎町を象徴するランドマークとして、夜ごと無数の人波を飲み込んでいた高層ビルである。
だが、電災以降、その役割は一変した。
今では新宿クオムの中枢施設として利用され、街の鼓動そのものを内包する、いわば心臓部のような存在となっている。
――その二階。
世界的なコーヒーショップチェーンが営業していた区画は、ギルドの手によって最低限の改装が施され、現在はハンターたちの溜まり場として機能していた。
高い天井を持つ開放的な空間には、かつての面影を残す木製のテーブルや椅子が無秩序に配置され、壁際には銃器ケースや行軍嚢、防弾プレートの外されたボディアーマーなどが、半ば投げ出されるように積み上げられていた。
――床には、乾いた泥と煤の混じった靴跡が幾重にも刻まれ、ここが“日常”と“戦場”の境界線であることを、無言のまま物語っている。
窓越しに見えるのは、灰色の空の下に広がるクオムの街並み。
――歪んだバリケード、溶接跡の残る鉄板、無秩序に組み上げられた足場。
かつて観光客がカメラを向けた風景は、もはやどこにも存在しない。
“戦場”から戻ったハンターたちは、決まってこの場所に立ち寄る。
命を削る時間から距離を取り、銃把の感触ではなく、陶器のカップの温もりを掌に思い出すためだ。
レヴュラという無人兵器を相手に、銃や刃物を握り続ける日々こそが異常であり、本来はこちらの時間が“普通”であるはずなのに……そう錯覚してしまう自分自身を、彼らはどこかで苦く笑っている。
今日も多くのハンター達が、討伐帰りやギルドへ立ち寄ったついでに屯し、そして、さまざまな話に花を咲かせていた。
――電災によってすべての輸出入が途絶え、本物のコーヒー豆というものは、文字通りの贅沢品となってしまった。
『弾薬より高値で取引される』——そんな噂も、決して誇張ではない。
クオム内では、チコリや穀物を焙煎した代替品が主流となり、それが“コーヒー”と呼ばれる現実に、誰も異を唱えなくなって久しい。
――だが、この場所だけは例外だった。
ギルドの管理する備蓄庫には、かつての店舗から回収された、正真正銘のコーヒーが厳重に保管されている。
湯を注げば、心安らぐ香りが立ち上り、鼻腔の奥を刺激する。
――その一瞬だけ、世界は電災以前へと巻き戻される。
生き延びるための稼業であるとはいえ、クオム防衛の最前線に立ち、命を賭して“外”へ出る者たち。
そんな彼らに対し、薫り高い一杯を差し出し、何も語らずに労う。
それが、このギルドのささやかで、しかし確かな流儀なのだ。
――真とアリスは、新たな討伐依頼を求め、ギルドへと足を運んだ。
先日、銃器をまとめて購入した代償は、想像以上に財布の中身を冷やしている。
必要な出費だったとはいえ、金というものは、減る時ほど容赦なく、その存在感を主張してくるものだ。
いくら真が『新宿クオムの台所』と呼ばれる王明の庇護下にある身とはいえ、すべてが保証されているわけではない。
王は面倒見の良い男ではあるが、自ら動こうとしない者まで養うほど、甘くもなかった。
そして、座して待つ者に差し伸べられる手など、この街には存在しない。
結局のところ、自分の食い扶持は自分で稼ぐしかないのだ。
その単純で冷たい理屈こそが、新宿クオムを成り立たせている背骨だった。
――電災以降、人間の本性が剥き出しになった者は少なくない。
誰かの庇護や労力に寄りかかりながら、自分はほとんど何もせずに済ませようとする。
住む場所を用意しろ、食い物を寄こせ――そんな、どこにも記されていないような権利を、さも当然のように叫ぶ連中も、珍しくはなかった。
だが、新宿クオムでは、老若男女を問わず、誰もが居住税を納める義務を負う。
それは労働でも、物資でも、あるいは危険を引き受ける覚悟でもいい。
クオムの秩序を脅かさない限り、稼ぎ方に口出しされることはない。
――たとえそれが博打賭博の類や……自らを売る行為であってもだ。
自らクオムの外へ出て、レヴュラを狩る者がいる。
廃墟を巡り、情報を掘り起こす者。
必要な物資をかき集め、内部で流通させる者もいた。
それすら難しい者には、瓦礫の撤去や設備の補修といった、地味だが欠かせない仕事が回ってくる。
クオム内の清掃やごみの処分だって、立派な仕事だ。
そうして、自ら動く意思を示さぬ者は、この最後の楽園に居場所を持てない。
善意に胡坐をかき、労せずして生き延びようとする者は、静かに……しかし、確実に淘汰されてゆく。
電災によって、なにもかもが変わり果てた今、安寧は無償ではないのだ。
「ふぅ……やっと一息つけるな」
真はなんとか新たな依頼を確保し、カップを両手で包み込むようにして、肺の奥に溜まっていた息をゆっくりと吐き出した。
湯気とともに立ち上る香りが、張り詰めていた神経を、わずかに緩めていく。
――最近は、ハンターやスカウトといった、クオムの外へ赴く者の数が目に見えて増えている。
クオム内での勤労奉仕的な作業では、生活は成り立っても、金は残らない。
飢えはしないが、些細な贅沢すら許されない日々が続けば、人は次第に焦りを募らせる。
それは、どんな人間であっても、静かに精神を蝕んでいくものだ。
物価が常識を失ったこの世界では、安全と引き換えに得られる報酬など、たかが知れていた。
それならばと、危険を承知で“外”に出る道を選ぶ者が増えるのも、無理はない。
結果として、比較的リスクの低い近場の討伐依頼には、経験の浅いハンターたちが群がりはじめている。
奪い合いに近い光景は、今や珍しいものではなくなっていた。
とはいえ、討伐依頼は誰もが受けられるものではない。
ハンターにはランクが存在し、ギルド情報部が必要な技量をもとに、討伐依頼を受注する最低ランクを決定する。
当然、駆け出しのハンターは、比較的緩い討伐しか受ける事ができないため、Bランクを有する真とは、依頼が被る事はまずない。
――Bランクとは、クオムにおいて、討伐達成回数が30回を超え、なおかつ一定以上の射撃技能を持つ者だけに与えられる。
こうした格付けは、クオムが人を縛り付けることができない以上、有力なハンターを他クオムやサヴェージスのようなならず者に流出させないよう、考え出された。
ランクによって報酬の上乗せ額が変わり、端的に言えば『腕のいいベテラン程稼ぎが増える』というシステムである。
「いい香り……やっぱり、本物は違うね」
アリスは小さく息を吸い込み、そう呟く。
チコリコーヒーをベースに、あらゆる工夫を重ねて生み出された代替品は、今やクオムの日常に溶け込んでいた。
苦味やコクはそれなりに再現され、口に含めば“それらしい味”はする。
だが、湯気とともに立ち上る香りだけは、どう取り繕っても、本物には及ばない。
おまけにカフェインもないらしく、何杯飲んでも眠気が覚める事はないそうだ。
それを知らずにガブ飲みして、逆に具合が悪くなって吐いた奴を見たことがある。
その差は、数値でも、理屈でも説明しきれない類のものだった。
記憶の奥底を直接刺激し、揺さぶる何か――それが、決定的に欠けている。
だが、アリスは笑顔のままカップを掲げ、貴重な一杯を惜しむように楽しんでいた。
――その時だった。
カフェスペースの奥から、唐突に怒号が響き渡る。
「たけのこ林こそ至高だ!」
一言。
それだけで空気が切り裂かれた。
遠慮も含みもなく、まるで銃声のように明瞭な宣言だった。
思わず視線を向けると、顔なじみのハンターたちがテーブルを挟んで向かい合い、チョコ菓子の袋を振り上げながら激論を交わしている。
拳銃ではなく菓子袋が凶器になるあたり、この場所らしい光景とも言えた。
――大した娯楽もないこの時代だ。
酒も、映像も、音楽も限られる中で、嗜好品に対するこだわりだけが、妙に先鋭化していく。
菓子だの飲み物だのといった些細な話題で火が付くのは、もはや日常の風景だった。
「また始まったか……」
真は肩をすくめ、アリスへと小声で囁く。
「……なんか、巻き込まれる予感がする」
無論、あの手の言い争いが、本気のいざこざへ発展することは、まずない。
せいぜい声が大きくなり、周囲が巻き込まれる程度で終わる。
――ただし、当事者に捕まった場合の話は別だ。
連中は決まって、自分の主張への賛同を強要してくる。
どちら派かを明確にしろ、理由を述べろ、異論は認めない。
真は、その熱量をレヴュラ討伐に回せと、何度思ったか、数えきれない。
とにかく、巻き込まれる側にとっては、たまったものではなかった。
――スティールジャガー隊。
そのリーダーを務めるのが、田所武雄という男だった。
筋骨隆々、腕っぷしだけなら、新宿クオムでも指折りと評されるハンターだ。
どこから見つけてきたのか、武雄は機動隊用のジュラルミン盾を愛用している。
レヴュラの注意を一身に引き受け、仲間の前に立ちはだかる盾役。
D級やC級レヴュラが放つ銃撃は、本物の銃弾ではなく、金属リベットの類だ。
そんな紛い物の弾丸で、機動隊用の盾が貫かれることはない。
そして突出してきた個体を、鈍器で文字どおり殴り飛ばす。
D級程度なら、その一撃で簡単にひっくり返る。動けなくなったレヴュラをどうするかは……説明不要だろう。
銃火器を主体とする他の部隊とは一線を画す、豪快かつ原始的な狩り方だった。
言うまでもなく、レヴュラ相手の肉弾戦は、危険度が跳ね上がる。
一歩間違えば致命傷。たとえ金属リベットとはいえ、肉体に喰らえば即死もあり得る。
それでもスティールジャガー隊は、発足以来、未帰還者を一人も出していない。
その事実こそが、彼のやり方が単なる蛮勇ではないことを物語っていた。
“脳筋野郎”という渾名が妙に似合う武雄だが、決して無謀な男ではない。
誰よりも前に立ち、誰よりも危険を引き受けるのは、仲間を死なせたくないという一点に尽きる。
自らが盾となり、仲間は安全な距離から確実に仕留める。
単純だが、徹底された役割分担だった。
そんな武雄が放った、『たけのこ林』こそ至高、という主張に対し、間髪入れず、低い声が返る。
「……は?」
――坂城優美。
同じくスティールジャガー隊に所属するハンターで、理論派、戦略重視の慎重屋。
元アーチェリー経験者で、銃よりも“確実性”を信条とし、改造クロスボウを携える。
尤も……そこに番えられる“矢”は、鉄筋を切断し、削り出した、殺意の塊のような代物だが。
「それ、今ここで言う?」
「言うさ。今だからこそだ」
武雄は腕を組み、これ見よがしに胸を張る。
その手には、くしゃりと握り潰された『たけのこ林』の袋。
まるで戦場に翻る軍旗のように、それを高々と掲げた。
向かい合って座る優美は、静かにカップを置く。
次いで、ゆっくりと立ち上がった。
その表情は、完全に受けて立つ構えを示している。
そんな優美に、武雄は満面の笑みを浮かべ、言い放った。
「サクサク感、チョコとの一体感、噛んだ瞬間の満足度。全部“たけのこ”が上だ。これは好みの問題じゃない。紛れもない事実なんだよ」
「……事実?」
だが、優美はその力説を鼻で笑い、今度は『きのこ高原』の箱を机の上に置いた。
乾いた音が、妙に大きく響く。
「“きのこ”は香ばしさよ。チョコが前に出過ぎない。ビスケットが土台として完成してるの。たけのこは、甘さで殴ってくるだけ。雑」
――断言だった。
余韻も、逃げ道も残さない言い切り方だ。
「……雑、だと?」
これには、武雄の眉がぴくりと跳ね上がる。
その反応だけで、周囲は察した。
「おい、始まったぞ」
「ああ、今日は激しくなりそうだぜ」
「きのたけ戦争は根が深いからな」
近くにいたハンターたちは椅子を引き、立ち位置をずらし、テーブルから半歩下がった。
さりげなく距離を取り、“流れ弾”に当たらぬよう、完全に観戦態勢へと移行する動きだ。
真の胸の奥で、嫌な予感が膨らんでいく。
「……アリス、これ、巻き込まれたら絶対に面倒くさいやつだよな?」
「うん。逃げるなら今だと思う」
アリスも即座に同意し、二人揃って“戦略的撤退”を試みる。
だが――時すでに遅かった。
「篠崎!」
「篠崎さん!」
――同時だった。完璧な挟撃。
武雄と優美は一歩も引かず、当然のように自分たちこそが正論だと信じ切っている。
その圧を一斉に向けた先は……先日のB級レヴュラ討伐で、なにかと注目を浴びている……真だ。
真は心の中で零した。
(なんで俺なんだよ……)
「お前はどっちだ!」
「篠崎さん、公平な意見をお願いします!」
武雄も優美も、自分の意見が絶対だと信じてやまない。
そして互いに、自分の主張を真が受け入れると確信し、詰め寄ってきた。
「え、えっと……」
真はコーヒーカップを持ったまま、完全に固まっていた。
立ち上る湯気が指先をかすめるが、それすら意識に入らない。
――おかしい。
今日はただ、討伐依頼を受けに来ただけのはずだ。
そのついでに――ハンターの特権と言っていい、本物のコーヒーをじっくり味わっていただけ。
それだけだった。
それがどういうわけか、気が付けば全力で他人の戦場に引きずり込まれている。
――武雄が、一歩前へ出た。
床板が、ぎしりと小さく鳴る。
「考えるまでもない。たけのこは“戦闘糧食”としても優秀だ。きのこと違って、形も崩れにくくて食べやすい。満足感がある」
……戦闘糧食?
さすが脳筋。発想の着地点が、常に戦場である。
(……いや、ただのスナック菓子だぞ、それ)
「それを言うなら、きのこは“精神安定剤”です」
優美が、間髪入れずに切り返した。
声は低く、だが妙に通る。
「疲労時、思考が煮詰まったとき。チョコの甘さと、ビスケットの香ばしさは人を落ち着かせる。たけのこはテンションを上げるだけで、持続性がない」
――今度は精神安定剤。なんだこの理屈。
本当に大丈夫か?
スナック菓子だぞ?スーパーやコンビニで誰でも買えた、お菓子だぞ?
……お前ら、まさか毎日、鳴神製菓の製品を拝んで、出撃前に社訓斉唱とかしてたりしないよな?
「戦場に必要なのはテンションだろ!」
「違います!生き延びるには冷静さです!」
言葉が真正面からぶつかり合い、熱が一気に上がる。
その勢いに引きずられるように、スティールジャガー隊の他メンバーまでもが参戦し始めた。
誰かが机を叩き、誰かが身を乗り出す。
テーブルが軽く揺れ、カップの中で液面が波打った。
空気は、まるで戦争前夜のような熱を帯びている。
冗談の皮を被った、本気の熱だ。
――だが、忘れてはいけない。
ここで論じられているのは、“スナック菓子の好みがどちらであるか”……本当に、それだけの話だ。
真と同じように論争へ巻き込まれたハンターの一人が、無言で袋を開ける。
乾いた音とともに、中からそのひとつを摘み上げ、躊躇なく口へ放り込んだ。
それを合図にしたかのように、他の何人もが続く。
「ほら、この歯触りだろ?」
「違う。口溶けを感じてから言いなさい」
……声は相変わらず荒い。
だが、いつの間にか論争の焦点は、単なる味覚の優劣から外れていた。
次に語られ始めたのは、理屈でも好みでもなく――それぞれが胸の奥に抱えてきた、個々の記憶だった。
武雄が、ふっと声のトーンを落とし、それまで張り詰めていた肩から、力が抜ける。
「……電災前さ。夜勤明けに、よくコンビニで買ってたんだ。小腹が空いてる時、家までの帰り道に食いながら帰るんだよ」
その一言で、場の空気がわずかに沈んだ。
先ほどまで飛び交っていた声は止み、ざわめきが引いていく。
誰もが、言葉を探し――結局、見つけられなかった。
優美も、視線をわずかに逸らしたまま、呟くように言葉を落とす。
「……私は家で。何も考えたくない夜によく食べてた。それだけで、嫌なことを忘れられた気がした」
――誰も、笑わない。
軽口を叩く者も、茶化す者もいなかった。
それぞれが過ごしてきた、あの何気ない時間。
仕事帰りのコンビニ。夜更けの部屋。
その日の気分で、何の迷いもなく選んでいた甘い菓子。
そうした“当たり前”は、電災によって、誰の手からも等しく奪われている。
その場にいた誰もが、同じ方向を見ていた。
灰色の空でも、壁の染みでもない。
――決してもう戻らない、遠い過去の方角だ。
仕事帰りのコンビニ。
真にも、覚えがある。
――バイト先だった焼肉屋。その、すぐ近くにあった一軒のコンビニ。
レジに立っていた、一人の女性のことを、ふと思い出す。
当時は喫煙者だった真の吸っている銘柄を覚えてくれていて、缶ビールを買えば、いつもと銘柄が違う事にさえ、すぐ気付いた。
……些細なことだ。
だが、それが妙に嬉しかった。
笑顔が柔らかく、気の利く子で、やがて連絡先を交換する仲にもなったが――今となっては、そのやり取りも意味を持たない。
――電災から、三年余り。
スマートフォンはただの重りとなり、通信網は沈黙したまま。
一人に一台とさえ言われた文明の利器は、今ではレヴュラを引き寄せる、忌むべき存在に成り下がった。
――彼女が今どこで、何をしているのか。
それを知る術は、もうどこにも残されていない。
しんみりと沈みかけた空気の中で、真は意を決したように口を開いた。
「……どっちも、悪くないんじゃないか?」
――次の瞬間だった。
「それはない!」
……即答かよ。
「中立は最大の侮辱だ!」
「選ばないという選択は、逃げです!」
あまりにも容赦がない。
せっかく丸く収まるかと思った矢先だっただけに、真の顔は、完全に引き攣っていた。
「……アリス、助けて」
隣に座る“相棒”に、縋るような視線を向ける。
「……ごめん、無理。これはもう宗教戦争と同じだよ、真」
真の細やかな願いは、無情にも切り捨てられた。
そこに慈悲は、どうやら存在しないらしい。
――やがて議論は、『子供の頃、どっちを先に食べたか』という原体験の話から始まり、『箱派か袋派か』『最後に残すのは軸かチョコか』と、信じられない速度で細分化されていく。
枝分かれした主張は絡まり合い、もはや誰が何を擁護しているのか、当人たちですら把握できていない。
それでも声量だけは落ちないあたり、ある意味で――見事だった。
だが――誰一人、席を立とうとはしない。
この場にいる全員が、薄々理解している。
レヴュラという異形の機械兵器を相手に、日々命を削るハンターにとって、保証された明日など存在しない。
こんなくだらないことで本気になれる時間も、生きているからこそ許される贅沢なのだ。
「甲乙つけがたいくらい、どっちも美味いで、今日のところはいいんじゃね?」
やがて、誰かが疲れたように深く息を吐き、誰かが苦笑いを浮かべ、誰かが菓子袋を丁寧に畳んだ。
「そうね……今日はここまでにしましょう」
優美が、肩の力を抜いた声で言う。
「……ああ。休戦だな」
武雄も、その言葉を受け入れるように、小さく頷いた。
――そして、その瞬間。
真だけが椅子に崩れ落ち、心の底から息を吐き出した。
肩に重くのしかかっていた、見えない重圧が、ずるりと床へ滑り落ちていく。
すっかり温くなったコーヒーから立つ、かすかな香りが、現実へ戻ってこられた感覚を与えてくれる。
疲れ切った真は、ようやく平和が戻ったのだと――実感しかけた。
……だが。
まさに、その時だった。
「……そういやさ」
誰かの、あまりにも何気ない一言。
「コーラって、どっち派だった?」
その瞬間、真の背筋が、ひくりと跳ねる。
(……おい……今、なんて言った?)
「は? どっちって?」
「だから、赤いのか、青いのかって話」
――空気が、再び変質する。
さきほどまで椅子に身を預けていたハンターたちが、まるで獲物の匂いを嗅ぎ取った猟犬のように、ゆっくりと、そして一斉に顔を上げた。
「……おい」
「やめろ。それは、まずい」
忠告を飛ばす者もいるが、火種を落とした当人に、悪意は微塵もなかった。
「いや、なんとなくさ……昔、よく飲んでたろ?」
――“昔”。
その単語が、静かに、そして確実に――再び争いの発端を開く。
「当然、赤だろ」
どこからともなく飛び出した、低く、揺るぎない声。
「断然、コココーラだ。あれを一気に飲むために生きてたわ」
「炭酸の立ち方が違うんだよな。喉にガツンと来る“角”がある」
――赤派のハンターたちは、もはや神話の語り部のような目をしている。
遠い記憶を反芻するように、視線は宙を彷徨い、言葉には確信めいた熱が宿っていた。
「やっぱ、瓶が最強だろ」
「王冠を開けた瞬間の音がたまんねぇ」
「夏の暑い日、海とかで飲む瓶は格別だな」
「わかる……」
「瓶は反則だよな」
周囲から、“赤”――コココーラを支持する、同意とも、呻きともつかない声が、次第に広がっていく。
真はそっと椅子の背にもたれ、視線を宙へ投げた。
(あ、これ……さらに長くなるやつだ)
「……それ、思い出補正じゃね?」
即座に、“青”――ペイシード派が噛みつきはじめる。
「ペイシードの方が、後味も軽い」
「甘さが残らず、口当たりがすっきりしてんだよ」
「赤は重いんだよ。甘さが口に残る」
両陣営の間に、見えない火花が散った。
――先ほどの休戦協定など、最初から存在しなかったかのように。
「来たな……きのたけより根深いぞ」
「誰か、止めに入る勇者おる?」
野次馬を決め込んだ連中が、面白半分に小声で笑う。
――そして、真だけが、明らかに“巻き込まれ待ち”の位置に立たされていた。
「で?」
赤派が、当然のように真を見る。
「篠崎は?」
「真はどっちだ?」
「お前、どっち飲んでた?」
三方向から視線が突き刺さる。
(だから、なんで俺なんだよ?)
「……いや、俺は――」
言いかけた瞬間、青派が身を乗り出した。
「まさか赤とか言わないよな?」
「ペイシードの良さ、わかるだろ?」
だが、赤派も引かない。
「いやいや、真は絶対に赤だろ」
「篠崎は、そういう顔してる」
「いや、どんな顔だよ!」
思わずツッコミを入れる真。
アリスはそのやり取りを眺めながら、困ったように、しかしどこか楽しそうに苦笑するしかなかった。
「ちょ、待て待て。どっちも飲んでたし、状況によるだろ、普通」
真は、コーラに特別なこだわりがあるわけではない。
コンビニでは、何も考えずに赤を選ぶことも多かったし、ファミレスやカラオケボックスのドリンクバーでは、青であることも多かった。
だから――どっちだと聞かれても、返答に困るのだ。
「これは逃げだな」
「中立は罪だって、さっき学んだばっかだろ?」
畳みかけるような声に、真は肩をすくめるしかなかった。
テーブルの上には、いつの間にか誰かが持ち出してきた空き缶と、年季の入った紙コップ。
照明の弱い室内で、赤と青のロゴが、やけに自己主張して見える。
――かつて、一日に何百人もの人間が行き交っていたであろうフロア。
今では、傷だらけのテーブルや椅子が無造作に並び、外壁の補強材が剥き出しになっている。
遠くでは、どこかで風に煽られたトタンが、かたん、と乾いた音を立てた。
――それでも、この場の空気だけは、やけに平和だった。
「なあ、真」
武雄が、完全に火を焚べる側の顔で言う。
「ここはひとつ、男らしく言い切ってみろよ」
「どっちか選べ」
「赤か」
「青か」
――まるで尋問だ。
真は思わず、アリスの方を見る。
アリスは肩をすくめ、「巻き込まないで」とでも言いたげに、視線を逸らした。
(助ける気、ゼロかよ……)
真は深く息を吸った。
「……強いて言うなら、だぞ?」
前置きを置いた瞬間、全員の視線がさらに鋭くなる。
「状況次第だ」
「たとえば……真夏で、外で汗だくだったら、一気飲みの赤」
「でも、飯と一緒なら、青も捨てがたい」
――一瞬の沈黙。
「ほら見ろ」
「やっぱり逃げだ」
「条件付きはズルい」
四方八方から、即座に却下が飛ぶ。
「いや、理にかなってるだろ!?」
真は声を荒げる。
「炭酸の強さと甘さは、体調とシチュエーションで――」
「理屈はいい!」
赤派の誰かが、ぴしりと言い放つ。
「魂の話をしてるんだ」
「いや、魂でコーラ選ぶなよ!?」
――笑い声が、どっと起きた。
誰かがテーブルを叩き、誰かが腹を抱える。
その拍子に、紙コップが倒れ、わずかに残っていたコーラが床に染みを作った。
黒い染みは、ゆっくりと広がっていく。
まるで、さっきまでの殺伐とした戦場が嘘だったかのように。
真はその染みを見下ろしながら、ふと気づく。
――こんなことで腹を立てて、笑って、言い合える夜が、どれほど貴重なものかを。
「……もう、いいでしょ」
優美が、やや呆れたように、だがどこか楽しげに言った。
「篠崎さんを、これ以上追い込んでも、答えは出ないわ」
「だな」
武雄も頷く。
「今日は赤青、痛み分けってことで」
「それ、妥協じゃなくて一時停戦ってだけだからな?」
誰かが言い、また笑いが起きた。
「……でもさ」
誰かが、ふと思い出すように続ける。
「クソ暑い日に飲む赤は、旨かったよな」
その一言で、場の空気が変わる。
青派も、すぐには噛みつかなかった。
「……青もさ」
誰かが、ぽつりと続ける。
「部活帰りに飲むと、やたら沁みたんだよ。後味が軽くてさ」
――一瞬の沈黙。
笑いも、煽りも消えた。
――失われた時代。
どうでもいいことで真剣になれて、くだらないことで腹を立てて、それでも明日が当然のように来ると信じていた、平和な日常。
真は、その隙間に、小さく言葉を落とす。
「……どっちも、もう気軽に飲めないけどな」
電災以降、工場は止まり、流通は途絶えた。
クオムの中で手に入るコーラは、どこかの倉庫や自販機から掘り出された、いつのものか分からない在庫品ばかりだ。
賞味期限の印字も、擦れて読めない物さえある。
それでも人は、過去の味に縋る。
たとえ、法外な値段だと分かっていても。
朝の一杯だけは、どれだけ貴重でも本物のコーヒーを選ぶ――そんな真自身も、結局は同類だった。
コーラ戦争は、いつの間にかカフェスペースの一角を、完全に占拠し、誰かが語れば、誰かが頷き、誰かがさらに思い出を重ねる。
――なぜか、真だけが、じわじわと精神を削られていくのだが。
少し、軽く読めるコミカルなお話を書こうと思い、世に根深い『きのこたけのこ』戦争を
電災後の世界に降臨させました。
実はもっと長いのですが、あまりに長すぎたので、今回はカットすることに。
電災後の「食べ物」についての話は、ちょっとあるのですが…
それはおいおいに。




