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電災都市  作者: あるふぁ
第三章『電脳災害』
17/20

『電脳災害』-5

 「……貴方は、どなたですか?」

 

 その声は、乾いた無機質さと、微かな温もりさえ同居させていた。

 抑揚の少ないトーンでありつつも、不思議と耳に残る柔らかさを孕んでいる。

 第二世代AIの合成音声に稀に見る、わざとらしい硬さすらなく、人間の声帯から零れ出る息遣いに限りなく近い響きだった。


 真は喉が乾くのを感じながらも、なんとか言葉を探し、口を開く。

 

 「……俺は篠崎真。ここを調べてたら、君を見つけたんだ。ずっと座ったまま動かなくて……その……なんとか起こせないかと思って、少し操作してみたんだけど……」


 真の言葉に、すぐには反応せず、アリスは視線を虚空へ漂わせた。

 瞳の奥で、何かを探すように、微かな光が揺れる。


 やがてその眼差しは店内をゆっくりと巡り、静まり返った空間を確かめるかのように止まった。

 

 なにひとつ乱れのない棚。整然としているカウンター。

 電力も途絶え、照明の灯が失われた店内は、昼間であるにも関わらず、影のような暗さが支配していた。

 耳に届くのは――時折聞こえる、遠くの街の呻きとも、爆ぜる音ともつかぬ残響だけ。


 人が消えた後に漂う、異様な静けさだけがそこにあった。


 「……理解しました」

 彼女は短く告げ、再び真へと視線を戻す。

 透き通るような白い頬に、感情の翳りはない。

 

 「どうやら初期設定の途中でトラブルが生じたようですね。この状況を正しく把握するために、追加の情報が必要です」


 真は無意識に息を吐くと、言葉を選びながら説明を始めた。

 「一週間くらい前からだ……。正体不明の機械……多分あれは兵器だと思う。そいつらが、突然人間を襲いはじめた。おかげで街はもう滅茶苦茶な有様だ」


 ――その光景が脳裏に蘇る。

 人の営みや安寧を踏み荒らすように、奴らは襲ってきた。

 通りに倒れ込んだ幾多の動かない者達。無惨に散らばる肉体の一部。

 逃げ惑う者達を嘲笑うかのように、奴らは次々と街の人達を蹂躙した。


 音の聞こえない攻撃。それが銃撃なのは確かだが――音がしないという理由に関してだけは、未だにに理解できない。

 だが、奴らは足音とも言える駆動音を響かせ近寄り、その攻撃は人体など、いとも容易く破壊してしまう。


 肉体が爆ぜ、千切れ飛び、鮮血が霧となって飛び散る。

 人の形を保てなくなった赤黒い何かは、未だそこら中に転がり、腐臭さえも放っていた。

 

 自宅のある初台へ向かう道中、遠くの空を焦がしていた炎の赤。

 その色は、事故や火災の類ではなく、戦火を感じさせ、空一面を覆い尽くしていた。

 

 東京全域――いや、きっと、日本中で同時多発的に攻撃が仕掛けられているのだと、嫌でも悟らされる。


 「――街の人間も、多くが殺されたはずだ……でも全滅はしていないと思う。どこかで避難してる奴らも少なくないはずだ」

 『東洋一の繁華街』とさえ言われ、昼夜を問わず人が溢れる場所……新宿歌舞伎町。

 あの喧騒の根源が、たったの一夜で、完全に掻き消えるはずもない。


 実際、自分の目でも確認した。

 無人となったコンビニを荒らし、物資を抱え、逃げるように走り去った者もいる。

 無惨に荒らされた焼肉店――かつて自分が働いていた場所さえも荒らされていた。

 その爪痕は、確かに人間の手によるものだと物語っている。

 

 ――生き残りは確かに存在する。

 大なり小なり、無数に立ち並ぶビルの中で。大きく根を張る地下街で。

 深い影に潜み、か細い希望に縋りつつも、生き残っている者達は確かにいる。


 「けど、このビルに人はいない。この店も……残されてたのは君だけだ」

 メカドール専門風俗店『童話の国』――。

 わざとらしいまでにパステル調の、安っぽい壁紙に囲まれた空間は、不自然なほど整然としている。

 

 荒らされた形跡すらもなく、まるで時間そのものが凍りついたように……スタッフも、客も、誰一人いない。

 カウンターの上に置かれた、飲みかけのペットボトル……倒れたり零れたりした様子すらもない。

 中に半分ほど残されている液体は、凪のように静止している。

 ……まるで、スタッフが離席しているだけ……そんな感じの、静かで整然とした空気。

 

 ただ一人――アリスだけが、暗い部屋の中に取り残されていた。



 「通信も死んでる。ネットは通じないし、電話も……携帯も使えない。むしろ電波を出せば、逆に機械に襲われる。助けを呼ぶことも不可能だ」


 アリスはその言葉を受けても、眉ひとつ動かさない。

 数秒の沈黙。情報を精査するかのように、静止したまま、瞬きさえ忘れている。


 ――やがて小さく瞼を伏せると、静かに口を開いた。


 「承知しました。私はまだ初期設定を完了していません。そのため、現段階ではデフォルトモードで稼働し、会話を継続しています」

 その声は、冷たいはずなのに奇妙な落ち着きを与える響きを帯びてさえいる。


 そして唐突に――。


 「確認します。貴方は、私のオーナー様ですか?」


 真は思わず息を詰まらせる。

 ――当然の問い。けれど、その当然が胸を突き刺した。


 メカドールは、確かに金さえあれば個人でも所有は可能だ……ただし、高級外車を軽く買えるほどの金額を支払えるのであれば……だが。


 アルバイトで食い繋ぐ自分には、まるで別世界の贅沢品。

 見栄を張る意味はなかった。無駄な嘘は、却って自分を惨めにするだけだ。

 

 「……いや、俺は君のオーナーじゃない。ここを調べて、偶然見つけただけだ。君の本当の持ち主がどこにいて、どうなったか……それは分からない」


 言葉にしながら、胸の奥で迷いが膨らむ。

 ――このまま彼女を放っておくべきだろうか?


 所詮メカドールは機械だ。それも、誰かの所有物。合理的に考えれば答えは出ている。

 自分一人の命すら危うい状況で、見知らぬメカドールを連れて逃げ回る余裕などあるはずもない。


 こんな状況だ。彼女を見捨たとて、誰も責めはしないだろう。


 ――それでも。


 その選択肢だけは、どうしても躊躇してしまう。


 アリスはあまりにも人間的だった。

 整った顔立ち。無垢さを残す眼差し。小首を傾げる仕草。そのひとつひとつの所作がすべて自然で、生身の女性と寸分違わぬ存在感を放っている。


 たとえ機械と理解していても、こんな状況で、彼女をひとり闇に残していくなど――どうにも、忍びなかった。


 

 ――アリスは暫し沈黙し、瞳を伏せる。

 思考を巡らせるような、どこか儚げな間だった。


 やがて、何かを決したかのように、小さく頷く。

 「了解しました」

 その声は澄み渡り、どこか、耳に残る響きさえあった。


 「それでは、不慮の事故によりオーナー権が失効したものと仮定します。特例R-4Aに基づき、私を保護したシノザキマコト様を暫定オーナーとして設定します」


 「えっ――」

 言葉が途中で止まり、呆然とする真に、アリスはタブレット端末を手渡した。ケーブルが接続され、その一方はアリスの後頭部に伸びている。

 彼女は椅子に腰を下ろすと、静かに目を閉じた。


 そして、数秒後――まるで世界を受け止めるかのように、再び瞳を開く。

 その目は人工物のはずなのに、深く透き通り、人間のような奥行きを伴って真を見据えた。


 ――同時に、タブレットの画面に、文字列が滑るように走り出す。


 『システムステータス:初期設定モード 通信状況:通信不能 外部認証サーバー:未接続』

 次々と流れるログは、まるで止まることを知らない奔流のようだった。


 『特例R-4A 発動条件確認』


 「……特例R-4A? なんだそれ……」

 真が呟くより早く、次の文字列が全てを語る。


 『所有者情報更新処理:シノザキマコトに暫定所有権付与』


 真の瞳が見開かれるのと、同じくして、アリスは静かに瞼を開いた。


 「私は愛玩型メカドール、モデルLMV-440A。個体名、アリス。識別コードMD201-135AE-T048――デフォルトモードにて起動を完了しました」

 彼女の声が柔らかく震え、微笑の端にわずかな暖かさが宿る。


 「オーナー、シノザキマコト様……登録しました。ご指示を」


 真は一瞬、言葉を失う。

 アリスは椅子から立ち上がると、エプロンドレスの皺を丁寧に整え、両手を前で重ねて姿勢正しく佇み、正面に向き直る。

 その姿勢、仕草のひとつひとつが洗練され、まるで貴族の館で仕える従者のように凛としていた。


 メカドールは、最先端の第三世代AIで駆動するヒューマノイド……その全てが人工物で構成されている。

 だが、その清楚さの中に儚さが滲み、気配だけで空気を変えてしまう。

 

 ――一瞬、彼は忘れそうになった。

 この存在が『機械』であることを。

 



 「え? 俺が……君の……いや、アリスのオーナー?」

 真は、アリスの予想外の言葉に、困惑を隠せない。


 だが、彼女は落ち着いた声音で答える。


 「はい。正規オーナーとの連絡途絶、維持管理の不在と、五日以上の無稼働状態を確認しました。以上の条件から、本機は特例R-4Aを発動します」

 「これは緊急時に限り、安全と稼働維持を優先する暫定措置です。その結果、私を保護したシノザキマコト様を候補者とし、適性評価の上で承認いたしました」


 アリスは、理路整然とした説明なのに、どこか安心感を伴う微笑みさえ浮かべている。

 「あくまで暫定の措置とはなりますが……以降はマコト様を新たなオーナーとし、私はその指示に従います」



 「……」

 言葉を失った真の視線が、室内を漂う。


 そんな真の反応を異ともせず、アリスは説明を続ける。

 「ただし、現在は初期設定が未完了です。引き続き、設定を行いますか?」


 ――起動したとはいえ、今のアリスは“真っ白な器”にすぎない。

 オーナーによる初期設定も行われていないため、自我を芽生えさせるに至っておらず、形を持ってはいないのだ。


 「……初期設定って、具体的にはどうすればいいんだ?」

 辺りを見回すと、散乱したマニュアルが視界に入るが、どこから手をつけていいのか、皆目検討もつかない。

 ……昔からマニュアルや取扱説明書の類は苦手なのだ。


 そんな真を見て、アリスは穏やかに微笑み、優雅に一冊を拾い上げる。

 「では、私がご説明いたしますね」


 ページを開き、指先で該当する項目を示しながら、淡々と説明が始まる。


 「愛玩型メカドールには、大きく分けて二種類のモデルが存在します。ひとつはメーカーモデル、もうひとつはユーザーモデルです」


 「私は後者――ユーザーモデルに分類されます」


 機械的なはずの声が、柔らかく落ち着きを伴って響く。

 ――説明によれば、愛玩型メカドールとは、人間のパートナーとして社会生活を営むことを目的として設計され、他にも労務型や医療介助型、奉仕型などの派生モデルも存在するらしい。

 

 メーカーモデルは出荷時に仕様が固定され、学習深度も制御されている量販タイプ。

 即座に現場投入が可能で、個性が突出しないよう、電脳の学習深度にリミッターが設けられているらしい。

 

 一方、アリスのようなユーザーモデルは、出荷時ほぼ白紙に近く、オーナーの好みに合わせて細かく調整できるタイプだ。

 個性をより反映させることができるため、用途に応じた独自の役割を持たせる事に適している。

 自分だけのパートナーを求め、オンリーワンを望む者はこちらのモデルを選択するということらしい。

 

 「つまり……俺が、アリスを好きなように設定できるってことか?」

 その問いに、アリスは静かに頷く。


 「はい。私はオーナーの意向に応じ、性格や行動パターンを柔軟に設定できます」


 「例えば――従順なメイドのように振る舞うこともできますし、オーナーの欲求を満たすための妖艶な存在にもなれます」

 「あるいは、恋人、姉、妹としての役割も設定可能ですし、ご希望であれば、母親のように振る舞うこともできます」

 


 その言葉に、真は息を呑む。

 ――これは、もはや『人の代替』だ。

 いくら最先端の高度AIによって制御されるとはいえ、何故、人工物である彼女たちに人権までもが認められるのか……その理由を、初めて理解した気がした。


 

 アリスは、未だ戸惑いを隠せない真に向き合うと、拾い上げたマニュアルを開き、指先で項目を示した。


 「まずは初期設定メニューを開き、必要な項目を選択してください。すべて完了すれば、私はマコト様の望む存在へと最適化されます」

 「また――併せて、最終停止措置(Fail-Safe Oblivion Protocol)の設定も可能です」

 


 「……最終停止?」

 その不穏な雰囲気を放つ言葉に、真の眉間に皺が寄る。漠然とした不安が胸の奥に波打った。


 ――アリスは変わらず、静かに告げる。

 

 「はい。最終停止措置(Fail-Safe Oblivion Protocol)とは、本機が暴走または制御不能に陥った状態、通常のスリープ・再起動命令が一切受理されない状態である場合、オーナーまたは代理執行者によって行われる処置です。代理執行者とは、警察官などの公的執行権を持つ者を指します」


 「危険を未然に防ぐため、電脳中枢と記憶領域を自壊させ、全機能を完全停止に導く処理です。実行された場合、本機は以後、再起動が不可能となります」


 彼女の口調は事務的で、まるで『消耗品の破棄手順』を読み上げているかのようだ。

 表情ひとつ変えず、いたってシンプルに説明するアリスの姿に、真は息を呑む。

 それは――つまり、“死”ではないか。

 


 メカドールは例え、身体の一部が欠損したとしても、部品を交換すれば修復可能だ。

 ――しかし、その中枢である電脳を破壊すれば、記憶も人格も全て失われ、二度と戻ることはない。

  

 最終停止措置とは、言い換えればメカドールに『二度と目覚めない死』を与えることだった。


 「情報資産の保護のためです。かつて、他者所有のメカドールを意図的に破壊し、頭部を奪って電脳を解析・悪用する行為が多発しました。そのような『灰盗り』行為から守るため、国際法で義務付けられることとなったのです」


 「灰盗り……」

 耳慣れない言葉に、真の背筋をぞわりと寒気が駆け抜ける。冷たい金属を思わせる響きが、不快な感触として心に刻まれた。


 そういえば、ニュースサイトで読んだことがある。

 誘拐されたメカドールが、頭部を失った状態で発見される事件の数々。

 縛られ、バラバラにされ、中には冒涜するかのように、散々犯されたものすらあったらしい。

 だが、共通しているのは、そのどれもが『頭部だけが持ち去られていた』というもの。



 メカドールの電脳は、単なる量子コンピューター以上の存在だ。

 だが、本当の目的は、その”中身”にある。

 人間と同等の社会活動を行える彼女たちの『記憶』の中には、喉から手が出るほど欲しくなる秘密が紛れていることもある。

 

 本当の意味での機密情報から、人々の私生活やスキャンダル、こと政財界の大物が所有する個体の”記憶”なら、その価値は計り知れない。


 こうして、奪われたメカドールの電脳は、『灰頭(ASH HEAD)』という隠語で呼ばれ、ダークウェブなどで違法に取引されていた。

 

 「記憶領域には、オーナーの個人情報や生活行動パターンが多数保存されています。それらの不正利用を防ぐため、最終停止措置(Fail-Safe Oblivion Protocol)は必須です」

 

 万が一、メカドールの身体フレームと、電脳が格納されている頭部が分離した場合、灰盗り行為防止のために強制自壊させる設定さえあるという。

 

 ――当然のこと。当たり前のこと。

 アリスの声音は、そう言わんばかりの冷ややかな平板さで締めくくられた。

 

 ――喉の奥に、重い石を詰め込まれたような感覚が広がる。

 あまりにも簡単に口にされる『最終停止』という言葉の裏には、決して取り返しのつかない終焉が隠れているのだ。


 「……そんなの、簡単に決められるわけがないだろ」

 声が荒く震える。理屈を超えた拒絶が、抑えきれずに迸った。


 アリスは首をかしげ、小さく瞬きをする。その動作は、無垢な人間の少女の仕草のようで、真の胸に微かな動揺を残す。


 「ええ、承知しております。ですが、これは安全のための規定措置です。いざという時の備えがあることで、むしろ安心して日常稼働が可能になります」


 「私達、愛玩型メカドールはオーナーに寄り添い、豊かで幸せな生活のお手伝いをする存在です。ですから、万が一私が制御不能になった場合は、誰かに迷惑をかける前に……オーナーの手で私を終わらせてください」


 ――理屈は正しい。いや、正しすぎる。

 しかし胸の奥に澱のように積もる感情は、理屈では消せない。


 彼女は人間ではない。しかし、目の前で微笑み、言葉を交わす姿は――確かに、『生きている』


 その生殺与奪を簡単に背負える覚悟など、今の真は持てなかった。


 「……少なくとも、今は決めない」

 ――真は、吐き出すように言い切る。

 「そんなもの、選べない……選べるはずがない」


 一瞬、アリスの表情がわずかに揺れた。錯覚かもしれない。だが、その瞳に一瞬、光のような感情が差し込んだ気がした。


 「了解しました。設定保留にいたします」


 そう答える声音は相変わらず無機的に整っているはずなのに、どこか柔らかく、安心を含んでいた。


 タブレットの画面に再び文字が走る。

 『初期設定:進行中――最終停止措置(F.S.O.P.):設定保留』


 真は深く息を吐き、額を押さえた。

 ――どうしてこんなことになったのか。

 

 ただの探索のつもりだった。

 荒れ果てた街を彷徨い、生き抜くために必要な物資を集めるつもりでしかいなかったのに。


 気付けば、手にはタブレットが握られ、目の前には、自分を「オーナー」と呼ぶ、エプロンドレス姿の女性型メカドール。


 「……俺に、できるのかよ」

 独り言のように零れる声は、自分自身に向けられたものだった。


 アリスは柔らかく微笑み、瞳を真に向ける。

 「ご心配には及びません。私はマコト様に最適化される存在です。ですから、望まれる限り、私は必ず……貴方の力になれます」


 その言葉は、慰めのようであり、誓いのようでもあった。


 ――その瞬間、真の胸の奥に微かな熱が芽生える。

 この荒廃した街で、何もかもを失ったはずの自分に、初めて差し込んだ小さな灯火のように。



 手探りで端末を操作し、初期設定メニューを呼び出す。

 画面には『性格設定』『行動パターン』『感情表現』――細分化された項目がびっしりと並んでいた。


 画面をスクロールさせるたびに新たな設定項目が現れ、まるで底の見えない迷宮に迷い込んだかのような錯覚に囚われる。


 声色の設定項目も存在した。

 いくつかのプリセット音声から声の高さや抑揚、話速を選択し、感情の込め方まで指定できる。

 設定するたび、アリスは短くテスト発声を行った。


 「こんにちは」

 「おかえりなさい」


 ――少し高すぎるか。次は低めに。今度は抑揚を多めに。


 声の一音一音が微妙に異なり、硬さを隠し切れなかった音声が確実に“個性”を帯びてゆく。

 真は自然と、アリスの雰囲気に合う可愛らしい声を目指し、細かな調整を繰り返した。

 

 ――所詮は、この店でキャストとして勤務するための衣裳であり、単なる演出かもしれない。

 それでも、青と白のエプロンドレスを纏い、ツインテールを揺らす、可憐な彼女に相応しい声を与えてやりたかった。


 ――そして、これは単なる設定作業などではない。

 彼女の今後を決める道標――記憶を積み重ね、やがて“人格”として形作る、礎とも言える作業そのものだった。

 

 真の選択ひとつでアリスの生き方が左右されるのだ。いい加減な気持ちで取り組むわけにはいかない。


 「初期設定が完了するまでは、私は基本的な対応しかできませんが、設定が反映されれば、電脳はより適切に学習を開始します」


 ――隣でアリスが静かに告げる。


 真はひと息ついてから、再び端末に向き直る。

 指先は次第に迷いを減らし、滑らかに動くようになっていた。

 アリスは静かに寄り添い、画面を指で示しながら補助する。その所作は驚くほど滑らかで、まるで長年仕えた秘書のようですらあった。


 真がタブレットの画面に視線を落としていると、アリスが肩越しに近づき、指先で項目を指し示す。

 ――互いの頬が触れそうになる、思いの外近い距離に思わず声が詰まる。

 透き通る肌、整った輪郭――直視する事すらも躊躇う距離感に、自分でも気恥ずかしいほど、心臓が跳ねるのを感じた。

 

 アリスは微笑みながら画面を指差すだけで、何も意図した素振りすら感じさせない。何もなかったかのように説明を続ける。


 

 微かに感じる彼女の柔らかさ、髪の香りのように感じる微かな匂い……すべてが、無防備な近さで迫ってくる。


 真は自分の動揺を隠そうと肩を少し引くが、どうにも落ち着かない。


 胸の奥で、鼓動がひとつ、ふたつと跳ねる。

 理性は「アリスは機械だ」と繰り返すが、身体は勝手に反応し、目を逸らしてしまう。

 僅かに首を傾げる仕草や、瞬きと共に微かに揺れるまつ毛の動き――人間らしい所作のひとつひとつに、思わず意識が囚われそうだった。


 吐息さえ届きそうな錯覚に、無意識に肩を強ばらせる。

 ――これは本当に、ただの機械なのだろうか?

 頭では理解している。だが、心は妙に揺れ、胸がざわつく。

 ひとつひとつの仕草や呼吸のリズム――どれも人工的なものだと知りつつも、どうしても守りたくなるような感情さえ芽生えるのだ。


 気付けば喉がカラカラに乾いていた。

 バックパックから取り出したミネラルウォーターを一口含む。

 ぬるい水が喉を潤すと、少しだけ緊張が解けた。


 「よし、これで大丈夫だろう……」


 最後の設定を終えると、真は大きく息をつき、アリスへ顔を向けた。

 端末の画面には『再起動』のアイコンが淡く点滅している。


 ――慎重に指を伸ばし、そっとタッチした。


 「これで、どうだ?」


 アリスは静かに頷き、瞳を閉じ――数瞬の沈黙。

 そしてゆっくりと目を開いた。

 

 その瞳は人工物でありながらも、不思議なほど深く、真をまっすぐに捉えていた。


 「私は愛玩型メカドール、モデルLMV-440A、個体名アリス。識別コードMD201-135AE-T048。オーナー、篠崎真……初期設定が完了しました」


 静かに告げられたその言葉に、真は肩の力が抜け、深く息を吐いた。

 意識が床に吸い込まれるように、彼は大の字になって倒れ込む。


 「……終わった」


 全神経を研ぎ澄ませて挑んだ作業の重みが、今、全身に押し寄せてくる。

 疲労と緊張が解放される一方で、責任の重さはずっしりと残った。


 アリスは静かに真の傍らに膝をつくと、そっと寄り添う。

 肩に添えられた手のひらには、温もりがあるかのような錯覚さえあった。


「ありがとう。そして……お疲れ様、真」


 その声には、どこか心が宿ったかのような深みを帯びていた。

 微かに笑む唇の動き、穏やかな瞳の光、仕草のひとつひとつが、人間の優しさを思わせる。


 真はふと思う。

 自分の手で設定を施すことで、彼女は単なる機械ではなく、この世界の中で“生きる存在”になったのだ……と。


 そして、荒廃した東京の静寂の中で、二人だけの新しい時間がゆっくりと流れ始める。

 初めて息をつくように、真の胸に軽やかな安堵が満ちた。

 アリスの瞳には、まるで理解したかのような柔らかな光が宿っている。


 ――2027年4月15日。

 

 この瞬間から、彼女(アリス)は変わり果てた街の中で、ただの機械ではなく、真の隣で共に歩む存在となったのだった。

物語の前日譚とも言える『電脳災害』編も、いよいよ佳境です。

真と行動を共にするアリスとの出会いを、ようやく描くことが出来ました。


電災が発生していなければ、アリスはメカドール専門の風俗嬢となるはず

だったんです。

そんな経緯のあるアリスですから、容姿は可愛く、真と一緒に行動を共に

する彼女の事を「嫁」と言って真をからかう者もいる程です。


次回からは、物語の舞台のひとつ、真やアリスの暮らしている、電災難民居住区

『新宿クオム』誕生のエピソードへと移っていきますね

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