『電脳災害』-4
今回も相当長めのエピソードとなっております。
今回と次回は、物語の中で、真の相棒として行動を共にするメカドール『アリス』
との出会いを中心に書いていきます。
大野の事務所を後にし、真は、瓦礫と静寂に支配された歌舞伎町の通りを慎重に進んでいた。
いつもなら徒歩で数分の道。それが今は、十分以上の時間をかけてもなお、まだ半分も進んでいない。
――神経を研ぎ澄まし、あらゆる感覚に意識を向ける。
数メートル進んでは、路地や通りに目を凝らし、動く物あれば、過剰なまでに神経を尖らせた。
風の騒めく音。遠くで誰かが踏み鳴らした足音や、ガラスの破片が砕ける微細な音。
そのひとつひとつに目を凝らし、耳を澄ませ、自らの呼吸音さえも抑える。
――そして、そんな時に奴は現れた。
円筒型の胴体に、カメラスタンドのようなデザインの無骨な金属脚が四本。
カメラのようなものを、左右にゆっくりと振りながら、まるで獲物を探すように周囲を索敵している。
しかし、次の瞬間――真の足元で、乾いた音が僅かに音を立てる。砕けたガラス片を踏んだのだ。
その僅かな音に反応するように、機械が動いた。
空気が裂ける音とともに、銀色の何かが真の頬を掠めてゆく。
――脳裏に蘇る、大野の言葉。
「あいつらに撃たれた時、気づいたんだがな……銃声がしねぇんだよ」
確かに発砲音はなかった。
ただ、機械の駆動音が耳に残るだけで、弾が発射されたという、確かな気配が存在しない。
まるで“音”そのものを殺して放たれたような、異様なまでに静かな殺意。
消音装置付きなのだろうか。
或いは、旧ソ連の古い静音弾――ピストン・プリンシプル弾のようなものを使っているのか。
いや、ここは日本だ。
銃一丁所持する事すら難しい国で、そんな希少で特殊な弾丸を使うはずがない。
――では、一体あの機械は、どんな原理で無音の銃撃を成し遂げている?
もしや、圧縮空気で刃のような衝撃波を放つ兵器か?
……いや、そんなものが存在するなら、もうとっくに戦場で使われているはずだ。
『かまいたち』のようなものが、そうも簡単に起こせるわけはない。我ながらアニメの見過ぎか。
だが、どんな手を使ってるにせよ、あの無音の殺意だけは紛れもない現実だ。
考えている暇などはない。機械は既にこちらを敵と見なし、滑るように再接近してくる。
幸いだったのは、その動きに俊敏さがないことだ。
跳躍もせず、ガシャガシャと地を這うように歩く姿は、どこか古びたおもちゃのようで、狙いも正確とは言い難い。
真は身体を翻して距離を取り、転がる自動販売機を盾にしながら、震える手で56式歩槍を構える。
大野から託された、本物の“力”――命を奪うために作り出された、紛れもない兵器。
実銃を手にするのは、これが初めてだ。
まさか自分が、こんな状況で銃を握るなど、想像すらもしていなかった。
こんな状況にでもならなければ、これからだって手にする事もなかっただろう。
だが、現実として、今の真の手には銃がある。決しておもちゃでも飾りなどでもない。
撃たねば殺される。逡巡している時間はないのだ。
大野の事務所を出る前に、槓桿は引いてある。初弾は既に薬室へと送り込まれ、撃発を待っていた。
唇を引き結び、冷たい銃爪に指をかける。
そして――指に力を込めた。
打ち付けるような強い反動が、肩を襲い、指先が震える。
銃口から放たれた火線が闇を裂き、轟音とともに7.62×39mm弾が機械の外殻を穿つ。
――しかし、2,000Jを超えるエネルギーを以てしても、それは致命傷には至らず、外装の破片を撒き散らしただけだった。
……命中角度が浅くて、弾かれたか。
想像以上の反動に身体が揺さぶられたその刹那、今度は敵の発射した“何か”が真の肩を掠め、服を裂く。
……焼けるような痛みが皮膚を走った。
熱とともに、血が滲む。
命を侵す現実が、ついに真の肉体へと牙を立てる。
FPSやサバゲーで培った知識など、今この場では無意味だった。
所詮はお遊び、現実の戦闘では何の役にも立ちはしない。
そして――押し寄せる死への恐怖が、確実に狙いを狂わせている。
それでも、撃たなければならない。
叫び声と共に銃爪を引き絞り、暴れ馬のように跳ねる銃を力で押さえつけながら、狂ったように撃ち続ける。
肩を襲う衝撃が、連続して骨を軋ませ、弾丸の轟音は鼓膜を揺らし、脳髄の奥で反響し続けた。
それは、命を賭けた咆哮。
生への執着を、火薬の閃光に変えた瞬間だった。
――――――――――――――――――――
時間にすれば、ほんの数秒の出来事。
だが、真にとっては凍てつくように長い永劫。
やがて、全ての弾丸を吐き出し終えた56式はカチリと音を立てて沈黙する。
銃身からは、焦げるような熱が立ち上っていた。
足元には、破壊された機械の残骸。
金属製の脚が小刻みに痙攣し、かすかな煙を上げていたが――それもすぐに止まり、完全な沈黙が訪れる。
「……なんだよ、これ……なんなんだよ……」
誰にともなく漏れた声。
だが、その問いに答える者はない。
ただ、壊れた機械の骸と、風に転がる鉄片の音が、瓦礫の街に虚しく響くだけ。
この街に、どれほどの死が降り積もったのか。
いくつの命が、この無機質な暴力によって奪われたのか。
考えるのも、数えるのも、もう嫌だった。
けれど、それでも――進まなければならない。
真は足元に転がる薬莢を拾い上げると、そっとポケットにしまい込む。
そして、新たな弾倉を56式に叩き込み、槓桿を引いた。
……その音はまるで、戦いの始まりを告げるようだった。
空は鉛色に沈み、風に乗って焼け焦げた臭いと腐臭が混じりあい、容赦なく鼻を突く。
新宿大ガードの下には、乗り捨てられた車両が幾重にも連なり、歩道には、人々の亡骸が折り重なるように横たわっている。
まるで時間そのものが凍りついたかのような、静謐な地獄が広がっていた。
そのとき――視界の端で何かが蠢く。
黒い影。無機質な金属音。
間違いない。――機械だ。
恐怖が、真の膝から力を奪い、震えが起こる。
初台の自宅に戻るには、この道が最短。
機械の群れを避けて代々木方面へ迂回する手もあった……だが、別ルートが安全とは限らない。
奴らは、どこに潜んでいるかわからない。そもそも、奴らについて、なにひとつわかっていないのだ。
いずれにせよ――この先も生き延びるためには、早いうちに、この銃に慣れておく必要がある。
そして、躊躇なく亡骸を踏みしめて進む機械たちの姿に、真の中で、何かがゆっくりと目覚め始める。
――黒い感情。
怒りに似ている。だがもっと原始的で、獣のように荒々しい衝動。
真は身を低くし、呼吸を整える。
幸い、こちらにはまだ気付かれていない。FPSで言うところの“ステルス状態”というやつだ。
周囲には乗り捨てられた車両が点在し、遮蔽物には困らない。
慎重に敵の挙動を観察する。
――その数、三体。
ひとつは先ほどと同じ円筒型。残る二体はやや小柄で低姿勢、動きがやや速い。
やつらの習性に関し、なにひとつわかってはいないが、ひとたび発砲すれば、全てが一斉に殺到してくることだけは確かだった。
ガラスを踏んだ僅かな音にすら反応し、標的を定めてくる連中だ。銃声を無視するはずもない。
――ならば、一度で仕留める。
残弾は、弾倉が三本と、箱詰めの弾丸が三箱。
ひとつの弾倉はすでに空。残弾はおよそ120発といったところか。
M1911は装弾数が少ない。今の真の腕では、命中させる前に弾切れを起こしてしまう。
――やるのか? 本当に?
逡巡する真の視界に、ふとある光景が飛び込んでくる。
それを見てしまった以上、真は迂回と言う選択肢を選べなかった。
――若い男女が、寄り添うように倒れている。
見覚えのある顔だ。
真が働いていた焼肉店の常連客――いつも仲睦まじく肉を焼き、些細なことで笑い合っていた二人だった。
白いセーターが、赤黒く染まり、無言のまま冷たく横たわっている。
あの二人の何気ない日常は……ここで永遠に途切れた。
数日前までは確かにあった。
小さな幸せと、他愛もない会話で笑いあう、平和に流れる時間。
――それを、奴らは、無造作に踏みにじった。
真の中で、何かが、音を立てて弾ける。
歌舞伎町に流れ着いたばかりの頃、真の目に宿っていた光。
何も信じず望まない、野良犬のような冷たく、禍々しい光が、再びその奥で蘇ってくる。
真は、56式を構えた。それはもう、今日初めて銃を握った男の所作ではない。
――先ほどの戦いで学んだことがある。
この銃のフルオート射撃は、反動が激しく狙いもブレて、真の手には余る暴れ馬だ。
雑誌などで得た知識通り、銃口は上へ、右へと跳ね上がる。
だから――セミオート。
……一発一発、確実に、狙って、仕留める。
……焦るな。
引き寄せてから撃て。……三体すべてが近寄る瞬間を待て。
――そして、時が満ちた。
機械たちが、まるで互いに通信しているかのように近寄り停止する。
――今しかない。
真は、静かに息を吸い込み、銃爪を静かに引き絞る。
初弾。二発目、三発目。焦る事なく丁寧に、銃口を横に滑らせ、真は撃った。
乾いた銃声が沈黙を破って通りに木霊する。
初弾が円筒型の奴のカメラのような部分を貫き、二発目、三発目も、中心部を捉え穴を穿つ。
――やがて訪れる静寂。
そして、そこに残されたのは、散乱した部品と、沈黙した鉄屑のみ。
残骸を見下ろす真の眼差しに、もはや感情の色はなかった。
それは、あの頃の野良犬のようなまなざし。
この街は、そんな目で彷徨う真の心を、少しずつ溶かし、人間らしさを取り戻させてくれた。
……だが。
奴らは、その日常すらも奪い去った。
「――何が、“人類を排除する”だ。ふざけやがって」
胸の奥に、怒りの焔が灯る。
静かに、だが確かに燃え始めたその炎を携え、真は決めた。
警察でも歯が立たず、自衛隊のヘリまで撃ち落とすような奴らだ。
今日初めて銃を手にしたばかりの真が、たかだか一丁の自動小銃で、どうこう出来る事じゃないのはわかっている。
……それでも。
立ち塞がる機械兵器を、狩ってやる。
この命が尽きるまで、抗い続けてやる――。
黒い怒りの炎を宿したその目は鋭く、もう怯えはなかった。
真は機械兵器の残骸を軽く蹴飛ばし、その場を後にする。
彼なりの宣戦布告か。
だが、その背中は……もう、不条理に戸惑う、怯えた男のものではなかった。
56式を握りしめ、変わり果てた街を歩き始める。
――――――――――――――――――――
真は、初台のアパートへと続く道を歩いていた。
かつては見慣れたはずの街並み。しかし今、その景色は、まるで異世界の断片のような歪さをも感じさせる。
瓦礫の陰に身を潜め、立ち止まっては耳を澄ませる。その度に、風が冷たく頬を撫でていった。
遥か彼方で、爆発音が鈍く木霊し、崩れ落ちたビルの破片が大地を震わせている。
昼夜を問わず喧噪に包まれていた街は、いまや音のない巨大な墓標と化していた。
あちこちで煙が燻り、煤けた空は、まるで鉛のように重く垂れ込めている。
爆風に抉られた建物の壁面。吹き飛んだ車両が、そこらじゅうで道を塞いでいる。
そして、誰にも見送られぬまま、この世との別れを告げた骸たちが地面に横たわっていた。
作業服を着た男。制服の少年。スーツ姿の会社員。
最後まで拳銃を握り、戦ったのだろう、空のホルスターだけを残した警官の姿さえもあった。
引き裂かれた四肢。肉片となり果てた顔。もはや、人間だった痕跡すら見当たらない、肉の塊と化したものもある。
ゲームで見た残酷描写など、この現実の前では、ただの茶番劇にしか感じない。
それほどまでに、鼻腔を突く腐臭と焼け焦げた血の匂いが、容赦なく胃を抉り、喉を焼く。
真は、幾度も吐き気に襲われながら、それでも足は止めなかった。
――吐いている暇などはない。足を止めた瞬間、死ぬ。
どうやら、被害は歌舞伎町だけに留まらないらしい。
どれだけ歩いても、街の灯りは戻らない。
活気に満ちていた新宿は、今や、沈黙の海に沈んでいた。
そして空の遥か彼方は、燃え盛る紅蓮の炎――まるで終末を告げる狼煙のように滲んでいる。
本来なら、一時間もかからぬ道のり。
『夜は比較的機械の動きがおとなしくなる』という情報を信じ、暗い夜道を警戒しながら進んだため、倍以上の時間を要した。
それでも、大ガードを出てからは奇跡的に一度も機械とは遭遇せずに済んだ。
そして、やっと見覚えのある古ぼけた建物が視界に入る。
『アーバンハイツ初台』――名前だけは御立派だが、実際はただのボロアパートに過ぎない。
剥げた塗装が波打つ、錆びた手すり、軋む階段、すきま風すら吹き込む薄い壁。
だが、黒い悪魔もいなければ、トラブルを引き起こす、面倒くさい隣人もいない。
大家の老夫婦は人情味のある、心優しい人物だった。
真にとっては唯一無二の城と呼べる場所。
玄関のドアを開け、クローゼットへと直行する。
勢いよく扉を開けば、そこは金属製のラックに整然と並ぶ装備の数々。
ミリタリー趣味の男たちの中には、クローゼットや押し入れを“聖域”とする者もいるが、勿論、真もその一人だった。
――エアガン、戦闘服、装備品、数々のタクティカルギア。
武器庫のように飾り立てたその場所で、サバゲーという趣味の名の下に集めてきた数々のアイテムが、ずらりと並んでいた。
まずは戦闘服を選ぶ。都市迷彩を手に取り、汎用迷彩は予備としてベッドへ放る。
着替えを終えると、MOLLEシステム付のタクティカルベルトを腰に巻き、肘と膝にプロテクターを装着する。
プレートキャリアを身に纏い、腰には大型のサバイバルナイフを装着した。
逆手でハンドルを握って、一度抜き、滑らかな軌道で鞘に戻す。動作に狂いはない。
留め具を締めながら、真の瞳が僅かに鋭さを増した。
――これは、もはや趣味とは言えないだろう。
全ては、生き延びるため……戦うための準備に他ならない。
大野から託された予備弾薬の箱を、無骨な軍用背嚢へと詰めていく。
MOLLEシステムによる高い拡張性を持ち、三日分の作戦行動を前提に設計された大容量モデル。
だが、それを以てしても容量はすでに限界に近い。
それでも真は詰め込み続けた。戦闘服の予備、水、コーラ、缶詰、スナック――すべてが命を繋ぐ「資源」だ。
多ければ多いほどいい。持てるだけ持って行こう。
クローゼットの奥に眠っていたコンテナを引きずり出す。
埃を被ったキャンプ用品たち。だが今や、それらは命綱に変わった。
ガスコンロ、LEDランタン、メスティン、簡易浄水キット――かつての"遊び道具"は、今、戦場を生き抜くための装備へと昇華している。
寝袋とエアマットを丸め、バックパックの上部にベルトで固定。
ウエビングには医薬品、乾電池などを収めた小型ポーチ、そしてケミカルライト数本を差し込んだ。
M1911はナイロン製のレッグホルスターに収め、右腿へ。
左腿にはマグポーチを装着し、予備弾倉を二本差す。プレートキャリアにはトランシーバーと救急キット、そして56式用のマグポーチを左右に取り付けた。
左肩口には天地逆さに小型ナイフ。右肩には通信スイッチとハンズフリーのLEDライト。
そのひとつひとつを、迷いなく丁寧に取り付けていく。
その最中、視線が押し入れの奥に止まった。
そこには、かつて注ぎ込んだ情熱の結晶――AK、M4、P90。整然と並ぶエアガンのコレクション。
どれもが、自分の歴史そのものだった。
だが、玩具では戦場を生き残れない。
AKの照準器を取り外して持って行こうか……高価なパーツだ。今手にしている56式にも装着できるかもしれない。
だが、真は少し考えて、結局そのままそれを元の位置に戻した。
惜しみなく情熱を注ぎ込んだそれらは、パーツ類が揃ってはじめて『コレクション』と言える。
パーツだけを無惨に剥ぎ取り、エアガンだけ、粗末に置き去りにするのは憚れた。
真はそっと視線を逸らし、胸の奥にある未練を押し込める。
「……無事でいてくれよ」
その言葉は、誰に向けたものでもない。
ただ、静かに心の中へ沈めるように、クローゼットの扉を閉じた。
タクティカルブーツのシューレースを締め直し、プロテクターのついたグローブを手に嵌める。
その感触が、戦う覚悟を現実のものにしてゆく。
最後に真はゆっくりと部屋を見渡した。
――この場所には、もう戻れないかもしれない。
豪華さなど一切ない、古びた一間。
だが、この狭く、日当たりの悪い部屋は――誰よりも、自分を受け入れてくれた『居場所』そのものだった。
あの壁が凹んでいるのは、酔っぱらって転んだ際に頭をぶつけた場所だ。
この穴は、やっと手に入れたエアガンの新製品にはしゃいで、振り回したときにぶつけたところだ。
歌舞伎町の片隅で、偶然のように巡り合った人たちの優しさと縁が与えてくれた、小さな城。
壁の染みも、床の軋みも、そのひとつひとつ……すべてが思い出だった。
真は、何も言わず、自分を守ってくれた城に、心の中で別れを告げる。
深く息を吸い込むと、軍用背嚢を背負い、56式を握りしめた。
そして――未練を断ち切るように、ドアを静かに閉める。
一度も振り返らず、真は歩き出す。
それは……『日常』との決別だった。
――――――――――――――――――――
――三日後。
真の姿は、再び歌舞伎町の地にあった。
かつて『眠らない街』と呼ばれ、光と欲望の奔流が交差していたこの場所。
だが今は、死の静寂に包まれていた。
表面上は、混乱が収まりつつあるようにも見える。
だがそれは、秩序の回復ではなかった。
ただ、“生き延びた者”と、“そうでなかった者”とが、はっきりと選り分けられただけだ。
街路を歩いても、動く機械の姿はどこにもない。
その代わり、瓦礫と、置き去りにされた死体が路上を埋め尽くしていた。
風に乗って漂うのは、腐臭と、焼け焦げた肉の残香。
崩れ落ちたビルの残骸が道路を塞ぎ、フロントガラスの割れた車が、主の帰りを今も健気に待ち続けている。
一番街アーチの脇にあるコンビニは、今やただの廃墟だった。
ガラスは砕け散り、棚は空っぽで、何ひとつ残ってはいない。
床にパッケージの破れた商品と、潰れた菓子類が無惨に転がっている。
爆風で外れた電光看板が、金属片を撒き散らして地面に転がっていた。
――無人とは言わないが、人影は、殆どない。
昼夜を問わず人波に溢れていたこの街に、今、あるのは変わり果てた死体と、破壊された機械の残骸だけ。
稀に見かける生存者は、真の武装した姿を目にするや否や、警戒心を剥き出しにして距離を取っていく。
……無理もない。
今は、この世界に“信じられる他人”など存在しないのだ。
誰が敵で、誰が味方か――そんな線引きには何の意味もない。
いや、そもそも、人を信じるという発想そのものが、今は贅沢だった。
真自身も、決して無防備ではない。
背を見せるという行為が、命取りになる状況なのだ。
極限状態に晒された人間は、本性すらも覆い隠せなくなる。
生き残るためなら、他者を蹴落とすことなど何とも思わない者が、どれほどいるか知れない。
真の装備や物資を狙って、背後から襲いかかる輩がいつ現れても、不思議ではなかった。
――だからこそ、彼は警戒を解かずに街を進んでいく。
目的はただひとつ――使える物資の確保だ。
乾電池、ライト、医薬品、缶詰、スナック菓子。
春とはいえ、夜はまだ冷える。
使い捨てカイロのひとつでもあれば、夜の寒さも凌ぎやすくなるだろう。
セントラルロード沿いのディスカウントストアなら、日用品が揃っているはず。
――だが、それは他の誰もが考えそうなことだ。
物資を求めて群がる人々の争い……欲望と恐怖が入り混じるその現場を……真は見たくなかった。
僅かな物資を醜く奪い合う姿が、どこまでも人間の浅ましさを暴き出すからだ。
今や誰もが、何をしでかすか分からない。
だからこそ、彼はあえて人の寄りつかない、人気のないビルや店を地道に調べていく選択をした。
――だが、現実は冷酷だ。
一番街沿いのコンビニ前、膨らんだリュックを背負った男が駆け抜けていく。
営業しているはずもない店から出てきた――つまりは、略奪行為だ。
かつて真がアルバイトしていた焼肉店も、当然の如く……見る影もないほど荒らされていた。
無理矢理こじ開けられたシャッター。
開け放たれた冷蔵庫の中は空っぽで、あったはずの肉は影も形もない。
レジも破壊されていたが、現金は既に真が回収していたため、金銭的被害はなかった。
とはいえ、通電しないノートパソコンまでもが持ち去られているのを見て、思わず苦笑いが漏れる。
“誰か”が、ここに飢えを満たすために忍び込んだことは明白だ。だが、いまさらそれを責める気にはなれない。
生き延びるために、誰もが必死なのだ。
むしろ真自身だって、同じようなことをしている。
電力を失った冷蔵庫に、置き去りの肉はやがて腐り果てる。
そうなる前に誰かの糧として、腹を満たしてくれたのなら、それは飲食店員としては本望だ。
……いや、ただ一人。親方だけは、頭を抱えて嘆くかもしれないが。
略奪が横行する中、探索を通じて、ひとつ確信したことがある。
――生活物資や食料を扱っていた場所は、わかりやすいほど例外なく荒らされている。
だが、歌舞伎町に無数ある、風俗店が入る雑居ビルや、オフィス系のビルは例外のようだ。
『非常時に無価値と見なされる場所』は、比較的手つかずのまま残っていることが多い。
案外、そこに、生き残るための“穴場”があるかもしれない。
だからこそ、次に向かう先は決まった。
目の前に聳えるのは、風俗店がいくつも入居する、古びた雑居ビル。
一階部分が無料案内所になっており、二階より上に店舗が入居している。
真は、56式歩槍のグリップを握り直すと、慎重に階段を踏みしめながら、一歩ずつ"未知"へと足を進めていった。
この中に、まだ人が潜んでいるかもしれない。
だが、人がいたとしても、それら全てが、平和的対話の通用する相手ばかりとは限らない。
――極限状態で、人は人を救わない。
それができるのは、過酷な鍛錬を積み、使命感に燃える、己を律する事の出来る者達だけだ。
下手に隙を見せれば、武器を奪い取ろうと襲いかかってくる可能性さえもある。
この状況なら、真の持つ『銃』と言う存在は、大きな力であり、宝物に等しい。
邪な思考に染まった者が、それを狙う事は十分にあり得るだろう。
腰のナイフは留め具を外しておいた。
銃口を前に向けたまま、いつでも銃爪を引ける姿勢を崩さずに進む。
ビルの中には、複数の店舗が並んでいたが、そのどれもが、もぬけの殻だった。
まるで死に絶えたかのように静まり返り、湿り気を帯びた空気だけが肌に纏わりつく。
フロアの奥、電力が途絶え、全ての明かりが失われたビルの中は、昼間だというのに薄暗い。
そして、ほの暗い闇に浮かぶ看板が目に留まる。
電力が途絶え、ネオンの輝きは消え失せたまま、そのパネルは無言で壁に張りついていた。
「……メカドール専門店?」
こうした店が増えているという話は耳にしていた。特にこの歌舞伎町界隈では、近年その数を急速に伸ばしていたはずだ。
メカドール――人間のような生体細胞や体液を持たず、性感染症の心配がない。
それに加え、常に優しく丁寧な接客が約束されるという触れ込みもあって、“沼る者”は少なくないと聞く。
もっとも、真にとっては縁のない世界であり、この手の店に足を踏み入れた経験は一度としてないのだが。
看板には、どこか寓話的な響きを持つ店名が刻まれていた。
――『童話の国』
もっとも、この手の店名には、さして特別な意味はなく、大抵はノリと勢いでつけられたようなものが多い。
『シルクハット』なんて店には、マジシャンのような服装をした女性もいなければ、勿論鳩だって飛んでいない。
笑えるところでは『ピーチメルバ』なんて店に入ったら、賞味期限など宇宙の果てまでぶっとんだような、”熟れ過ぎたピーチ”が出てきたなんて逸話もある。
静かに扉を押し開けると、そこに広がっていたのは、予想を裏切る程に、整然とした空間だった。
パステルブルーやピンクで彩られた、メルヘンチックな内装の店内は、内部を誰かが荒らした形跡もない。
それは、ある意味で当然かもしれないだろう。
この混乱の渦中、わざわざこの種の店舗に足を運ぶ者がいるとは考えにくい。
人々の欲望は、より切実なもの――水、食料、薬品に向けられているはずだった。
時間が止まったかのような沈黙。室内は異様なまでに静かだ。
カウンターの上に置かれたペットボトルは倒れることもなく、まるで店員が今しがたその場を離れたかのように、自然な静けさだった。
しかし、その静けさが、かえって胸の奥を不安にかき乱す。
真は奥へと歩を進める。個室が並ぶ薄暗い通路。
いくつかのドアは開け放たれたまま。そのうちの一室にはエアマットが敷かれ、乱れたタオルが落ちている。
床に転がるローションの容器。蒸れた布の匂いが微かに残るそこは、何が行われていたのかは否応にも想像できてしまう。
そして――最後の部屋に差しかかった、その瞬間だった。
背中を風が撫でたような、微かな“異物”の気配。
直感が囁く。
”何かがいる”……と。
真は反射的に56式のグリップを握り直す。
警戒を研ぎ澄まし、銃口をわずかに上げながら、開きっぱなしのドアを覗き込む。
部屋の中央、薄闇に沈む空間に、ひとつの人影が浮かび上がった。
――椅子に腰かけ、じっと動かない少女の姿。
一歩、また一歩。銃を構えたまま距離を詰めていく。
やがて、その輪郭が明瞭になり、その姿が明らかになる。
――青と白を基調とした、フリルのついたエプロンドレス。
左右にまとめられたツインテール。
童話から抜け出したような格好は、物語の断片が、この荒廃した世界に迷い込んだかのようだ。
「これ……メカドールか?」
首元には細いチョーカー。人によってはこれを『首輪』と蔑む者もいた。
そこにホログラム印刷された識別コードが、僅かに煌めく。
小さなランプがゆっくりと明滅している。まるで、眠れる心臓が、規則正しく鼓動を刻んでいるかのようだ。
胸元には、ハート型の名札。手描きの文字がそこにあった。
「……アリス?」
――童話の国。青と白のエプロンドレス……そして、この名前。
なるほど……おそらくモチーフは『不思議の国のアリス』なのだろう。
けれど、”アリス”は目を閉じたまま、時の狭間に閉じ込められたように動かない。
肩を軽く揺すっても、何の反応も返ってこない。
これではまるで、『不思議の国のアリス』と言うより、『眠れる森の美女』だ。
そのとき、彼女の後頭部から垂れる、細いコードが目に入った。
髪の隙間を這うように伸びたケーブルは、足元に置かれた小型の端末に接続されている。
点灯したままのランプが、端末がまだ生きていることを示していた。
拾い上げてみると、掌にずしりとした重量が残る。
四隅には耐衝撃用のバンパー、密閉式の外装。
見るからに軍用、もしくは産業用に特化した頑強なデバイスだ。
「これ、相当高いやつだよな……」
液晶には見慣れぬインターフェイスが映し出されている。だが、言語は日本語だった。
中央に浮かぶ、一行の文字が目に飛び込んでくる。
『初期設定中』
――なるほど、何かの設定途中に、機械の襲撃が起こり、店の人間は”彼女”を置き去りにして逃げ出したのか。
足元に散らばる冊子を手に取る。
『メカドール起動手順書』と表紙に記されたそれは、無数の付箋とメモ用紙がいくつも挟まっていた。
指先でタッチパネルを操作すると、控えめな電子音が返ってくる。
そのたびに、遠くから呼応するような、かすかな振動が足元から伝わってくる気がした。
――そして、その瞬間は訪れる。
僅かな電子音と共に、少女の瞼がわずかに震えた。
そして、音もなく、ゆっくりと目が開いてゆく。
その瞳は、まるで磨き上げたガラスのように澄みきり、内側に世界の光を映していた。
初めて視線が交差したとき、真の背筋に淡い戦慄が走る。
目の前にいるのは、数百年の眠りから覚めた人形。
はたまた、生まれたばかりの“魂を持つ機械”か。
「……起動プロセス、完了しました」
澄んだ声が、冷え切った空間に広がる。
その響きはどこか儚く、鈴を転がしたような音色だった。
真は、言葉を失ったまま、ただその場に立ち尽くしている。
「私は愛玩型メカドール。モデルLMV-440A、個体名アリス。識別コード、MD201-135AE-T048」
そして、彼女は顔を僅かに傾け、真に向けて問いを投げかけた。
「……貴方は、どなたですか?」
『電脳災害』編となり、やっとアリスとの出会いまでやってきました。
この『電脳災害』編は、物語序盤で真が使用していた愛銃『56式自動歩槍』を
どうやって入手したのか、そしてアリスとどうやって出会ったのか。
また、今後、彼等の拠点でもある『新宿クオム』がどうやって作られていったのか
描いていくエピソードゼロ的チャプターになっています。
今回描いた冒頭部が、電脳災害編一話の冒頭の戦闘と歌舞伎町の惨状のシーンで、
真が歩き始めた後の部分を描いたものになっています。
多くのなろうの中で作品の中で、やたら一話が長くて、更新も隔週という、
読む人を選ぶ作品となっていますが、作品の性質上、あまりショートに
まとめられる内容ではないし、このように脂っこくてどっしり胸焼けのする
作品スタイルを崩せないのです。
確かに、一話を短くして、読みやすくすれば、もう少し読んでくれる人も
増えるかもしれませんが、短くすると、一話がスカスカに感じるんですよね。
それも私の書き方ひとつなのでしょうが、私の文章力では、このへんが
限界なのです。