『電脳災害』-2
――2027年4月8日。
その日も真は、いつものように歌舞伎町一番街のアーチをくぐった。
この街に根を下ろし、住人として生きるようになってから、もう二年あまりが過ぎている。
それは、年月というより“空気”として染みついた時間だった。
真紅の外枠で縁取られた鉄骨のアーチ。
中央には白地に赤のゴシック体で「歌舞伎町一番街」の文字が掲げられている。
夜ごと六百個のLEDが点滅し、酔客たちを赤い光で迎え入れるその電飾も、今はただ静かに沈黙していた。
しかし、灯りが消えても、その存在感は薄れない。
この街の象徴として、揺るがぬ輪郭を保ち、今日も変わらず人々を呑み込んでいく。
アーチを越えて、通りを進む。
足元には昨夜の酔宴の残滓――折れ曲がり、捨てられた傘、潰れたビールの空き缶が転がっている。
道端を見れば、乾きかけた膜となってアスファルトに貼りついている、誰かがぶちまけた”もの”。
ビルの壁には、どこかのバカが描いた幾何学模様のアートが、黄色い染みを作っていた。
そのすべてが入り混じり、ぬるりとした饐えた臭気を街路に漂わせている。
だが真にとっては、それもまた「いつもの朝の匂い」だった。
通い慣れた道。見慣れた風景。
ビルの谷間を、どこかひんやりとした朝の風がすり抜けてゆく。
――だが、その朝には、何かが引っかかった。
確信めいた理由はない。ただ、胸の奥をかすめるような違和感。
言葉にできない、ざらりとした感触が、肌にまとわりついて離れなかった。
――靖国通り。
新宿三丁目と歌舞伎町を隔てる幹線の、その路肩に――トラックの車列。
アイドリング音ひとつ立てることなく、並んだ無音の車列が、不自然なほど整然としていたのだ。
社名もロゴも見当たらず、荷台は真っ白なキャンバスのように無地のまま。
運転席には誰もおらず、エンジンも切れている。
魂を抜かれたような機械たちが、何かの合図を待っているようだった。
十台……いや、それ以上か。
鉄の箱が無言で並び立つその光景は、まるで祭壇に捧げられた供物のように、通りの空気を支配していた。
思わず、真の背中を一筋の冷たい感覚が這い上がる。
だが――ここは歌舞伎町だ。
奇妙なものが現れては、いつのまにか消えていくのが、この街の日常。
昨日まであったバーが、翌朝には跡形もなく姿を消している……そんな変化も珍しくはない。
そして、人々は慣れていた。この土地の日常は流動的に変化し、生き物のように姿を変えてゆく。
そんな変化をいちいち気に留める者は、この街にはいない。
変化に鈍感でいることこそが、生き延びる術であるかのように、人々は街の変化に無関心を決め込む。
真もまた、沸き起こる違和感を胸の片隅に押しやった。
そして、すぐに興味は薄れ、深く考えようとはせずに、足を店へと向ける。
――その朝も、歌舞伎町はいつも通りの顔。
朝っぱらにもかかわらず、真と歳のさほど変わらぬ若者たちがコンビニの脇に屯していた。
地面には、チューハイの空き缶が散乱している。
酔いつぶれた友人を介抱する男の顔には、苛立ちと諦めが混ざっている。
それを嘲笑うように、一人が奇声を上げ、新たな缶のプルタブを派手に引いた。
そんな彼らのすぐ傍らを、多くの通行人が見て見ぬふりで通り過ぎ、コンビニ店員が眉間に皴を寄せ、ため息をつきながら空き缶を拾う。
そのすぐ近く、地べたに伏すように、胃の内容物をあらいざらいぶちまけている男。
顔色は悪く、膝を抱えながら蹲り、何をやらかしたのか、異国語を話す数人に囲まれている。
彼等は必死に何かをまくしたてるように、異国の言葉を機関銃のように男に浴びせ、空気ばかりを刺々しく澱ませていた。
通りの向こうでは、早朝営業のホストがふらつきながら、派手な服装の女性に向かって手を振っている。
女性の姿が見えなくなると、陽の光を煩わしげに睨み、同僚と肩を組んで、けだるそうに店の中へ消えていった。
一晩をカフェで明かした女性グループは、半ば溶けたような笑顔で、海藻のようにへなへなと手を振り合い、それぞれの帰路へと歩き始める。
清掃員が黙々とゴミ袋を清掃車へ放り込んでいた。
未分別の袋から黒ずんだ液体が滴り落ちて、それが作業服を濡らしたことに、短く舌打ちを洩らす。
乱雑で、猥雑で、それでいてどこか人間臭く、憎めない“街の朝”。
――それは間違いなく、歌舞伎町の“日常”だった。
真が勤める焼肉屋は、一番街を少し進み、西武新宿駅方向へ左に折れた路地の先にある。
以前、その角には馴染みの牛丼屋があったのだが、今ではビルごと取り壊され、味気ないコインパーキングに成り果てていた。
真はその前にある自販機へと立ち寄り、ポケットからくたびれた財布を取り出す。
この辺も毎朝のルーティンのようなものだ。
――喉が渇いていた。お茶にしようか、はたまた、喉越しの爽快感を求め炭酸飲料にするか――その程度の、何気ない思考の最中だった。
――乾いた破裂音が街に響いた。突然に。唐突に。
まるで、紙袋を叩き割ったような、軽やかな破音。
だが、それは一度きりでは終わらない。
連続で木霊する破裂音。そして、それを突き破るような、人々の悲鳴が響く。
真は咄嗟に音の方向へと振り向いた。
音の発生源は――一番街のアーチ付近。
つい先ほど、自分が歩いてきたばかりの方向だ。
――そして、彼は“それ”を見た。
地面を這う、異様な影。
子供ほどの背丈で、真っ黒な外装。キノコを思わせる奇妙なフォルムに、無機質な曲面。
――得体の知れない物体が、蠢くように歩き回っている。
真は直感で理解した。
あれは……生き物ではない。――機械だ。
その“何か”が動くたび、破裂音が鳴り響き、赤い飛沫が宙に散る。
その瞬間――人間が、爆ぜた。
文字通り、身体が四散し、肉片と骨が無秩序に飛び交う。
瞬きする暇もない速さで、次々に命が消えてゆく。
さっきまでコンビニ脇で笑っていた若者たちが、絶叫とともに逃げ出す。
周囲の人々も、蜘蛛の子を散らすように走り出している。
転倒する者、誰かを突き飛ばしてでも前に進む者。
倒れた誰かが叫びながら手を伸ばす――だが、その手を取る人間はいなかった。
さっき、仲間が介抱しているのを笑いながら、新しいチューハイを開けていた奴だ。
そして、“それ”が近づくと、破裂音が響く。
血と肉が霧のように舞い、頭部の消えた肉塊が地面を跳ねた。
「助けて!」
「やめろ……!」
「なんだよ、あれは……っ!」
叫び声、泣き声、罵倒、怒号――あらゆる人間の声が、渦を巻いて交錯する。
人は人を見捨て、ただ本能のままに逃げ惑った。
一瞬で、歌舞伎町の朝は地獄に変わる。
さっきまでの喧騒が嘘のように崩れ落ちていく。
逃げ惑う人々に助け合う余裕もなければ、誰かを気遣う余地などもなかった。
勇気も、判断も、理性すらも――その場にはもう、残されていない。
あるのは、”死にたくない”という生存欲求の下、足掻くように逃げ惑う人々だけ。
こんな状況で、自分を危険に曝し、誰かに手を差し伸べる余裕など、あろうはずがない。
そんなものは映画やドラマのお芝居の中だけ。都合よく訓練を受けたイケメンヒーローが颯爽と駆けつけ、街の人々を救うなんてことはない。
数分前まで“いつもの朝”だった街が、今や血と肉の泥に塗れていた。
地面に飛び散る臓物と、砕けた骨。千切れた四肢の一部。
そして、その中心で、“それ”は静かに……そしてただ機械的に、人間を文字通り破壊し続ける。
真は、その場から動けなかった。
いや――正確には、思考が追いつかず、身体のどこにも命令が届いていなかった。
――何が起きている?
……いや、それ以前に――あれは何だ?
悪夢が、現実の輪郭をじわじわと侵食していく。
理屈も、状況も、そして理性すらも、目の前の光景に追いつかない。
だが、ただひとつ、明確に理解できることがある。
『――ここにいたら、死ぬ』
本能が、耳元で怒鳴りつけるように警鐘を鳴らしていた。
反射的に踵を返し、真は焼肉屋を目指して駆け出した。
シャッターに手をかけ、勢い任せに引き上げると、まだ開ききらない隙間に体を滑り込ませる。
背後を振り返る余裕もなく、金属の扉を全力で引き下ろした。
シャッターの向こう側では、いまだ破裂音と悲鳴が交錯し、街の空気を引き裂いている。
それはまるで災厄の咆哮のようだ。
荒く息を吐きながら、真は階段を駆け上がる。
二階の座敷へと飛び込み、恐る恐る窓の隙間から、地上の様子を覗き見る。
――そこに広がっていたのは、もう、彼の知る歌舞伎町の姿を成していなかった。
脚のような突起をが生えた円筒型の機械が、地面を這うようにして動いている。
その傍らでは、キノコのような奇形の機械が不気味な静けさを纏いながら蠢いていた。
円盤のようなものを載せたやつもいる。
それらのひとつひとつは明確な“意志”を持っていた。
ただの平凡な機械などではない――そこに宿るのは明確な殺意。
殺傷本能を体現したような存在。
それらは、逃げ惑う人々に、ためらいなく向かってゆく。
破裂音が響くたびに、誰かの頭が砕け、誰かの腹が裂け、手足が飛び散っていく。
それはもはや、人間の死に方ではない。
命が、断片となって空気に弾ける。
風に乗って舞うのは花びらではなく、臓腑と骨片――肉体という器の破片たち。
異形の機械が赤い光を明滅させるたび、人間の体はバラバラに引き裂かれ、地面はまるで巨大なカンバスのように、鮮やかな血で染め抜かれていった。
通りの向こう側には、すでに幾つもの命が積み重なるように倒れ伏している。
赤黒く濁った水たまりが、その死を飾るように広がっていた。
「……なんだよ、これ……何が、起きてるんだよ……?」
喉の奥から漏れた言葉は、ひび割れたようにかすれ、頼りなかった。
舌がもつれ、思考が滑り、声にならない音ばかりが口の中で空転する。
だが、ひとつだけ確かなことがある。
――あの機械は、人を殺している。
しかも、無差別に、そして容赦なく。
そのとき――真のポケットの中で、震えが走った。
あまりに唐突な出来事で、反射的に跳び上がってしまう。
手を突っ込むと、そこにあるのはスマートフォン。
すぐに振動が止まったところを見るに、電話ではなくメールかメッセージのようだ。
……救いか?……警告か?それとも、さらなる絶望の予兆か――?
手が汗で滑り、取り落としそうになりながら、スマホをどうにか取り出すと画面を覗き込む。
「……なんだ、これ……?」
そこに表示されていたのは、緊急のエリアメールでもなければ、Jアラートの類でもなかった。
漆黒の画面に、ただ一文。
白い文字が、静かに浮かんでいる。
『We will eliminate humanity.』
意味がわからない。
だが、その一文の持つ冷たさが、氷の針のように胸の内を突き刺した。
「私たち……排除……? 人類……?」
声に出しながら、脳の中で言葉の意味を探ると、ひとつの言葉へとたどり着く。
「……我々は、人類を――排除する……!?」
その文意が、輪郭を現したとき――真の中で、すべての音が止まった。
言葉が、声帯をすり抜けていかない。
指が震え、画面をスクロールしようとするが、どこを押しても反応がない。
世界的に話題となったランサムウェアのように、画面の最前面に鎮座し、一切の操作を受け付けないのだ。
ただ、ひたすらその一文だけが、画面に焼きついたように表示され続けている。
まるでそれが、“宣告”であるかのように。
混乱する思考を断ち切るように、真は手近のリモコンを掴み、テレビの電源を入れた。
しかし――画面は、沈黙したままだった。
「なんだよこれ!どうなってんだよ!」
喚きながらチャンネルを切り替えようと、そこにはスマートフォンと同じ漆黒の画面が立ち塞がる。
映像はおろか、音すらもない。
まるで、世界そのものが静止してしまったかのようだった。
胸の奥がきゅう、と音を立てる。
冷たい鉤爪が喉元に食い込むような、圧迫感。
背中には汗が滲み、心臓の鼓動だけがやけに大きく耳に響いていた。
「そうだ、警察!」
スマートフォンを握り直し、真は震える手で警察へ通報を試みる。
だが、画面に表示されているのは、信じがたい二文字――『圏外』
「……ふざけるな……」
震え交じりの声で、思わず呪詛のように吐き捨てた。
ここは新宿――東京の心臓部だ。
あらゆる通信網が交差し、決して止まるはずなどない街で、まさか“圏外”などという表示を見る日が来るとは。
店内の固定電話に飛びつき、受話器を取るが、即座に耳へ飛び込んできたのは、冷ややかで無機質な自動音声。
「現在、この地域の電話は、発信を制限させていただいております」
――言葉が出ない。
その瞬間、真の背中を鋭い冷気が這い上がっていく。
外からは、依然として絶え間なく、聞こえる叫び声と破裂音。
それはもう都市の喧騒などではない。
明確な“戦場”の音だった。
――あれは、ドローンの類か? テロか?……あるいは、敵国による攻撃なのか?
だが、どう考えても、何かがおかしい。
これだけの惨状に、Jアラートは一度たりとも鳴らず、何の情報も届かない。
ニュースをはじめ、テレビも沈黙し、誰一人として現状を伝えようとしない。
あの妙なメッセージが全てを妨害しているのだろうか。
……本当に、誰も、何も伝えていないのか?
それとももう――“伝える者”が、この世界から消えてしまったのか?
恐怖が意識の奥で形を成す前に、真は最後の望みを込めてスマートフォンを操作し、パーソナルAIを起動した。
さっきまで、何の操作も受け付けなかったスマホの画面が切り替わり、いつものビジュアルシェル――萌えキャラ調のアバターが姿を現す。
――しかし、今日はいつもと様子が違っていた。
いつもは真好みの可愛い声で、明るく話す彼女は何も話さない。
口を開く代わりに、両手でバツ印を作り、静かに首を横に振る。
……それが示すのは通信不能のサイン。
「……やっぱりか」
唾を吐き捨てるように呟いた。
インターネットや電話網……テレビにいたるまで、あらゆる情報網が完全に遮断されている。
真は確信した。これは偶然でも、災害でもない。
――誰かが、意図して情報を遮断している。
その時――遠くからサイレンの音が近づいてきた。
パトカーか?助けが来たのか?
胸の奥で、わずかに膨らみかけた希望。
だが、その直後……全ての希望などかき消すように――街に再び、乾いた破裂音が鳴り響く。
それは一度で終わらない。続けざまに連なる発砲音。
刑事ドラマのクライマックスさながらの、連射、連射、また連射。
音だけ聞けば、滑稽にすら思えるほどの過剰な撃ち合いが、現実の街で――この歌舞伎町で繰り広げられている。
「……マジかよ……」
あまりの現実味がない出来事に、真は呆然と呟いた。
警察が、応戦している?
この新宿で、本物の銃撃戦が起きているというのか?
夢でも見ているのか……それも、とびっきりの悪夢――真の中で、現実の境界がどこなのか曖昧になっていく。
確かに、ここは歌舞伎町だ。
日本という国の中でも、最も不穏な音が似合う街かもしれない。
だが――この街で生きてきた真ですら、これほどの“戦場”を目撃する日が来るとは、想像すらしなかった。
たとえそれが、流氓やヤクザ、外国人ギャングの抗争が跡を絶たなかった時代の話であっても、街全体がこんな銃声に包まれたことなど、聞いたことがない。
日本の警察が、銃を撃っている――その事実だけで、異常さは言葉以上に雄弁だった。
撃たないことを美徳とする彼らが、迷いもなく引き金を引くというのは、あの異形が『敵性体』として明確に認識されているという証拠。
しかも、一発や二発の拳銃弾では到底止めることのできない、装甲を有した存在だということだ。
次に脳裏をよぎるのは、当然の疑問。
――では、自衛隊はどうしている?
この非常事態に、政府は何をしている?
だが、そんな思考の続きは、唐突な音によってかき消された。
金属がぶつかり合う、鋭く甲高い音。
まるで刃物で鼓膜を裂かれるかのような、不快な衝撃。
ガンガンと鈍く響く連打――否、すぐそこ、店の正面で、何かがシャッターを叩いている。
「……っ!?」
反射的に肩を竦め、身を屈める。
見れば、シャッターがたわみ、軋んでいた。
鉄板が悲鳴を上げているような、軋みと唸りが連続して響き、金属製のシャッターに裂け目を作っている。
「……嘘だろ……なんで、ここが……」
胃の奥が締め付けられる。心臓が逆流して口から出てきそうだ。
ここに逃げ込んでから、大きな音は立てていない。
外での破裂音や爆発音の方がよっぽどうるさかったほどだ。
大きな物音を立てないようにして、気配を殺していたはずなのに――なぜ、奴らはこの場所を突き止めたのか?
真は眉をひそめ、窓際へと忍び寄る。
窓の脇から、外の様子を慎重に伺いながら、答えを探して思考を巡らせた。
そのとき――ふと、視界の端に、テーブルの上の“それ”が映る。
『スマートフォン』
……まさか。
携帯電話。
この国において、一般人が携帯電話を持つようになり、40年以上が経過している。
技術の進歩は目覚ましく、今のスマートフォンは第二世代AIを搭載し、一昔前のパソコンですら凌駕するほどの性能を獲得した。
GPSを内蔵し、正確な位置を割り出す事も可能で、いたるところに設置された基地局と絶えず通信を行い、リアルタイムでインターネットと接続している。
それは逆に考えれば、基地局と常時通信し、GPSを通じて正確な位置情報を発信し続ける装置。
現代人にとって最も身近で、同時に最も無防備な『ビーコン』とも言える。
――奴らは、それを探知している?
「くそっ……!」
迷っている暇などない。
真は即座にテーブルへ手を伸ばし、スマートフォンを掴むと、電源ボタンを長押しする。たかが三秒ほどの長押しが永遠のように長く感じた。
画面の中では、パーソナルAIのアバターが、能天気な笑顔で手を振っている。
「ばいばーい♪」
軽やかな声。
あまりに日常的で、今この瞬間には場違いすぎるほどに、明るい声だった。
そして画面は、ふっと闇に沈む。
――その瞬間。
シャッターを叩く音が、突如として止まった。
まるで、何かの「合図」を受け取ったかのように、不気味な静寂が、空間を支配した。
そして、代わりに鳴り響いたのは、ギリギリと金属がねじ切れるような、神経を逆撫でする音。それらが確実に遠ざかってゆく。
……どうやら、読みは正しかったらしい。
奴らは、スマートフォンの発する電波やGPS信号を追跡手段にしている。
そして今、どこかで新たな“標的”を感知したのだろう。
ほどなくして、遠方から新たな悲鳴が響き渡った――哀しみと恐怖を載せた、生きた人間の叫びが。
真は窓を開け放ち、喉が裂けるほどの声で叫んだ。
「――スマホの電源を切れぇぇ!」
「そいつらは……電波を辿ってくるんだっ!」
それは、もはや賭けだった。ここからできるのは、叫ぶ事だけだ。
自分の声が、この騒乱の中でどこまで届くかなど分からない。
だが、話した事もなければ顔も名前も知らない誰かへ届くように真は叫んだ。
この街でやっと見つけた居場所が一方的に奪われてゆく現状に、見て見ぬ振りはできなかった。
誰か一人でも――一人だけでも多く、助けられるかもしれない。
この理不尽な悪夢の中で、自分にできる最も小さな抗い。
絶望の中に投じる微かな祈りと消えかけの小さな希望。
真は窓辺に背を預け、乱れた呼吸を整えようと深く息を吸った。
シャッターは無事。あの機械は、どうやら一撃で突破できるほどの火力を持っていない。
ならば、ここでじっと身を潜め、嵐が過ぎるのを待つしかない――そう思った、その時だった。
地鳴りのような低音が、遠くの空から波のように押し寄せてくる。
ただの騒音ではない。大気そのものを震わせる、重く鈍い爆音。
反射的に顔を上げ、ビルの合間から空を仰いだ。
双発の大型ヘリが、編隊灯を瞬かせながら接近してくる。
深緑の迷彩塗装。唸るようなローターの音。
「……自衛隊……?」
機体側面に、赤く染まった“日の丸”のマーキングを視認する。
希望が、胸の奥で脈打つようにじわりと広がった。
ようやく国家が、この惨状に動き出したのだ。
あのヘリには、重装備の部隊が乗っているに違いない。
警察では手に余るあの機械どもも、自衛隊の火力なら――きっと、駆逐できる。
編隊灯を瞬かせながら飛行するヘリの姿に頼もしさを抱きつつ、真は安堵の溜息をついた。
「……助かる……かもしれない……」
この街の誰もが、今この瞬間、空を見上げ、同じ想いを抱いただろう。
暗闇に差し込んだ光へ縋るように。
――だが、希望とはいつだって、脆く儚い。
……その希望を易々と打ち砕くかのように、遠くから何かが飛来し、ヘリコプターへと一直線に突進していく姿が見えた。
真には、それが何であるかを一瞬で理解できた……わかりたくなくても、わかってしまった。
――稲妻のように天を裂く軌跡。一直線に、編隊のヘリを目掛けた軌道に、真の視線が引き寄せられる。
そして、脳裏に浮かんだ、最悪の単語が自然と口から漏れた。
「……SAM、だって!?」
そして、その刹那、空が焼けた。
ミサイルは直撃し、ヘリの腹部で炸裂する。
濁流のような火球が、空を血のように赤く染め上げた。
機体は瞬時に崩壊し、バラバラになった残骸が、火の粉と共に四方へ飛び散る。
黒煙をまといながら落下するその影は、もはや兵器ではない。
――それは、死そのものだった。
質量と熱と絶望を纏って、空から死が降ってくる。
搭乗していた自衛隊員はおそらく、全員助からないだろう。
――そして、数秒後。
第二の爆発が、新宿駅方面で発生した。
爆炎が雲を押しのけて天を染め、空が一瞬だけ、真昼のように明るくなる。
真は、言葉を発する事も出来ず、ただ、立ち尽くすことしかできなかった。
燃え落ちる希望の残骸を前に、喉は詰まり、声は出ない。
思考は凍りつき、足もまた地に縫い付けられたように動かなかった。
いつの間にか、あれほど鳴り響いていた警察の銃声も、ぴたりと止んでいる。
全滅か――それとも、弾薬の尽きた末の沈黙か。
今、この街に響いているものは2つだけ。
あの機械の、乾いた破裂音。
そして――人々の、魂ごと引き裂かれるような叫び。
終わりのない悲鳴が、どこまでも続いていた。