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電災都市  作者: あるふぁ
第三章『電脳災害』
13/20

『電脳災害』-1

――2027年4月12日。

 

 空は鉛のように重く曇り、鼻腔を刺すのは――濡れた髪と脂と――血の混じった埃が焦げたような、猛烈に嫌な臭い。


 眼前に広がっているのは、もはや、真の知る歌舞伎町ではなかった。

 ほんの数日前まで、昼も夜も人の喧騒に満ち、ネオンの海に照らされた街は、死が充満する地獄と化している。


 舗道には、砕けたガラス片が無数に散らばっていた。

 通りに面した店のウィンドウは、ことごとく割れ、ガラスの欠片が陽を反射し、鈍く光る。


 本来、静かに客を誘っていた立て看板は、爆風に吹き飛ばされ、でたらめな方向に引きちぎられていた。

 砕けたプラスチック片、むき出しの電光パネル、幾多の破片と残骸が街路に散乱している。


 建物に突っ込んだまま放置された車のクラクションが、断続的に鳴り続けていた。

 それはまるで、誰にも届かぬ、断末魔の悲鳴のようだ。


 


 空気には、火薬の残滓、焦げた肉と脂、そして焼けた鉄――。

 鼻腔を突き刺すその混じり合った匂いは、まるで死そのものの気配。


 何が燃えたのか。否応なしに理解させられる。

 考えまいとしても、脳裏に浮かぶのはただひとつ、“それ”しかない。



 ――コンビニの前に広がる、赤黒い塊。

 湿った肉の山のような“それ”が、かつて人間であったことに気づくまで、数秒が必要だった。


 アスファルトが焼け爛れ、一部は波打つように捲れている。

 まるで巨大な拳が地面にめり込んだようだ。


 肉塊の中から覗く、肌色の手首。

 そこには、煌びやかなダイヤを散りばめた腕時計が嵌められていた。


 ホストだったのか――今や主を失い、変わり果てたその“手首”で、時計だけが無感情に時を刻み続けている。

 

 向かい側の歩道には、下半身だけが投げ出されていた。

 千切れた腰部からは腸がぶら下がり、悪趣味なアクセサリーのように絡みついている。

 飛び散った血と肉が、『一緒に働こう!』と記された求人ポスターの文字を、鈍く赤く塗り潰していた。


 壁際に座り込むスーツ姿の“誰か”。

 だが、その姿には、腰から上がない。

 頭も、胴も……腕さえも存在せず、そこにあるのはただ、切断面から溢れた“中身”の残骸だけだった。


 周囲の壁は、血飛沫と臓物に塗れている。

 まるでその場で破裂したかのように、肉片がペンキのように塗り付けられていた。

 


 自販機の脇には、炭のように変わり果てた人影。

 皮膚は焼け爛れ、衣服の輪郭だけを残して炭化している。

 その足元には、黒い溶解物がとろりと垂れ落ち、地面に染みを作っていた。


 傍らには、爆発で吹き飛ばされたのだろう、煙を上げる機械の残骸が転がっている。



 肉と骨の断片だけが、黒焦げとなって点々と残り、アスファルトには脂と血の混ざりあった痕跡が広がる。

 焼け爛れた靴底、ちぎれた指のような塊――それらが、この場所が戦場であることを無言で物語っていた。


 十メートルほど先の建物の壁面には、“人間の構成物”がタールのように、ぬめる赤黒さでべったりと貼りついている。


 全身を炎に焼かれ、崩れかけた炭の彫像。

 真紅の水に沈んだ、胴体だけの“誰か”。

 いたるところに、人間の尊厳など踏みにじるような、変わり果てた姿の死体が転がっていた。

 


 ……だが、それでも五体が揃っているだけ……まだ原型をとどめている分だけ“マシ”だと言えるのかもしれない。

 瓦礫の陰、ひときわ小さな身体を覆うように倒れ伏す、ひとりの女。

 背中には、何かで穿たれたような穴、そして真っ赤な鮮血の痕。

 その腕の中に抱かれていた子供は――泣くことすら、なかった。


 その沈黙が、何よりも胸を強く締めつける。


 「……ぉえぇっ……」


 喉の奥が痙攣し、胃袋の内容物を逆流させようとした。目を背けたいほど形容し難く、惨たらしい光景に、真は何度も吐く。

 だが、もう胃の中には何も残ってはおらず、繰り返される嘔吐に、もはや酸っぱい胃液すらも出てこない。

 ただ乾いた痙攣だけが、喉の奥を痛めつけていく。


 呼吸が浅く、苦しく、胸が上下するたびに身体中の筋肉が軋んだ。

 それでも――足を止めるわけにはいかない。


 この街を覆いつくした死臭は、否応なく“現実”を突きつけてくる。

 それはモニター越しに描かれた虚構の戦場(バーチャル)とは決定的に違う。

 嗅覚と肌の感覚に深く刻み込まれるように、恐ろしく実在的なものだった。


 ――そう、ここにあるのは、紛れもなく『現実の戦場(リアル)


 だが、物思いに浸っている余裕などはない。

 この街はもう、生者のための場所ではなく、油断した者から順に、静かに……確実に命を喰われてゆく魔物の胃袋の中。


 真の手にあるのは、偶然手に入れた中国製の突撃銃――56式自動歩槍。

 そして腰に差した、旧式ながらも信頼の置ける.45口径の拳銃、M1911(ガバメント)


 冷たく乾いた空気の中、真は56式の銃把を無意識に強く握り直した。

 その手のひらに滲む汗が、緊張を物語っている。


 ――その時、真の聴覚は、微かに響くその音を捉えた。

 金属同士が擦れ合う、明らかに“場違い”な音。


 この状況の中で、その音が意味するのは――ただひとつ。


 『間違いなくいる』


 急いで瓦礫の陰に身を潜めた真は、息を殺し、音の出どころを探った。

 やがて、路地からゆっくりと姿を現したのは――腰丈ほどの異形の機械。


 円筒型の胴体に、四本の金属脚。前方にはカメラのようなレンズが据え付けられ、その横には黒くぽっかりと開いた穴。

 先端が鋭く尖った、工具を模したような爪が、細い脚の先で不気味に蠢いていた。


 その機械は、レンズを左右にゆるやかに旋回させながら、周囲を静かに観察している。

 ――まるで何かを“嗅ぎ回る”かのように。


 だが、真にはわかっている。

 あれはただの監視装置なんかじゃない。


 ――あれは、“人を殺すために作られたもの”だ。


 誰が、何のために……そして、どこからやって来たのか。

 そんなことはどうでもいい。

 いま問題なのは、それが“ここにいる”という事実だ。


 息を潜め、危険を避けながら静かに後ずさろうとした瞬間――足元でガラス片が砕け、乾いた音が辺りに響いた。


「――しまった……!」


 真は何も考えず、反射的に横へ跳ぶ。


 直後、空気を裂いて銀色の閃光が目の前を駆け抜けると、後方の外壁が爆ぜ、土煙をあげた。

 

 機械は目標を捕捉したかのように、脚部を軋ませ、地を這う獣のような姿勢で迫ってくる。

 その動きは、ぎこちないはずの構造からは想像もできないほど俊敏。

 跳ねるように突進してくるその姿は、まるで本能だけで獲物を狩る猛獣だ。


 真は走りながら、咄嗟に56式歩槍を構える。頬に冷たいスチールが触れた。

 狙うべきは中央か、あるいは関節部。

 理屈は知っている――あとは撃つだけだ。


 震える指先が、銃爪を引く。


 耳をつんざく銃声が炸裂し、銃身から放たれた7.62x39mm弾が、機械の装甲を掠める。

 火花が散るが、動きは止まらない。


 「っ、くそっ……!」


 反動(リコイル)が肩を打ち抜くように響く。想像以上の衝撃。銃身が跳ね上がり、照準が外れる。

 焦って撃ち直そうとしたその刹那――動きを止めた機械が”何か”を放ち、音もなく風を裂いた。


 咄嗟に身体を捻ったが、鋭い感触と痛みが肩を掠める。服が裂け、じわりと血が滲み出している。


「やべぇ……っ」


 恐怖と焦りが脳を支配していた。冷静な判断が遠のいてゆく。

 だが、動かなければ――そして、撃たなければ死ぬ。


 生存本能が、肉体をつき動かし、真の意志とは無関係に、指が銃爪を絞り続ける。


 連続する発砲の衝撃が、肩に重くのしかかった。視界が震え、轟音が鼓膜を叩く。

 これはゲームじゃない。サバゲーでもない。現実の反動(リコイル)は、思考よりも速く、骨まで響いてくる。


「うあぁぁぁぁぁっ!こんなところで死にたくねぇッ!」


 叫びながら、撃ち続けた。

 がむしゃらに、息を荒げながら、もう一度。


 狙いは機械の胴部。

 56式から吐き出される7.62x39mm弾が次々と突き刺さり、破片が派手に飛び散る。内部から火花が噴き出し、機械がよろめく。


 ――それはまるで、スローモーションのようだった。


 円筒形の外殻が砕け、一本の脚がちぎれ飛ぶ。

 むき出しになった内部構造から、煙と火花が迸る。


 ――やがて、何度銃爪を引いても、銃は応えなくなった。

 56式は沈黙し、手元には銃身の熱気だけが残される。


 機械は鉄の脚を微かに痙攣させ、カチカチと音を立てたあと、動かなくなった。

 残されたのは、歪んだ残骸と、異様な静寂。


「……なんだよ、これ……なんなんだよ……」


 誰も応えない。


 真の問いかけに返ってくるのは、死と破壊の臭いが充満した空気だけ。

 そこにあるのは、砕かれた建造物と焦げた機械、そして無惨なまでに変わり果てた死体の群れ。


 真は膝をついた。肺が焼けるように痛む。

 心臓が、まるで破裂しそうなほどに暴れまわる。

 自分がまだ“生きている”のかどうかさえ、実感が持てない。


「これが……これが、現実なのかよ……」


 転がる薬莢に視線が落ちた。

 無意識に手を伸ばし、それを拾い上げる。


 冷たい真鍮を握りしめたまま、真はその場にへたり込んだ。


「……バカじゃねえの、俺……また居場所奪われんのかよ……」


 笑えない。涙が出る。声が震える。


 それでも、自分は“戦場”の中にいる。

 そう思い知らされた。心の奥底まで、痛いほどに。


 ――だから、今は立たなければならない。


 立って歩かなければ、生き残れない。


 ――この日、真は初めて実銃を撃ち、危険に抗い、そして生き延びた。それだけは紛れもない事実。



 拾い上げた薬莢を、ジャケットのポケットへと滑り込ませる。

 未だ震える膝に力を込め立ち上がると、56式の新たな弾倉を差し込んで、槓桿を引いた。


 そして――真は歩き出す。

 戦場と化した、この街の中を。

 

 誰もいない道を、一人――今日を生き残り、明日を迎えるために。

 


 ――――――――――――――――――――


 (時は少し遡る――)

 

 その日も、彼はいつものように歌舞伎町の焼肉店へ向かっていた。


 一番街の喧騒から少し外れた裏路地、ひっそり佇むように、その店はあった。

 賑やかな歓楽街のネオンが乱反射する表通りの景色とは一線を画し、風情のある暖簾が静かに揺れる店。

 外観こそ地味だが、ふと気づけば誰かしらが暖簾をくぐってゆく。

 小さいながらも、確かな“ぬくもり”を宿した、そんな場所だった。


 ――篠崎 真、二十歳。


 彼の人生は、順風満帆などという言葉とは無縁だった。

 むしろそれは、錆びた鉄釘を撒き散らした道を裸足で歩き続けるような、生傷と痛みに満ちた道程だったと言っても過言ではない。


 「家庭」――それは本来、子どもに安らぎを与え、豊かな心を育んでゆく聖域。

 だが、真にとって“家”とは、安らぎどころか、暴力と恐怖に支配された冷たい檻でしかなかった。


 世間では『虐待』という言葉が、時にワイドショーの見出しを飾り、よく耳にする言葉となった。

 だが、その実態というものは、思いのほか、日常のすぐ隣に転がっている。

 そして真も、そんな現実の片隅に取り残された子供のひとりだった。


 理由などはなかった。何か悪さや粗相をしたわけでもない。

 だが、真の親は、虫の居所ひとつで怒鳴り散らし……幼い真を殴り、蹴り飛ばした。

 寝ているところを叩き起こされ、してもいないつまみ食いを咎められたこともある。

 食事をしているだけで、訳もなく嫌味を言われ、無駄飯喰らいと詰られる。

 他の子の家庭との違いに抱いた疑問は、巡り巡って親の耳に入り、「恥をかかせるな」と、無慈悲な鉄拳と共に押しつぶされた。

 

 生活を豊かにするための日用品が手近な“武器”へと変わり、あらゆるものが真を傷つける凶器へと変貌する。――そんな日々が、当たり前のように続いた。


 痛みと恐怖に耐える小さな体は、やがて傷と痣で埋め尽くされていく。

 それを見た教師やクラスメイトも最初のうちは驚き、心配し、声を掛けてくれた。

 ……だが、人は何事にも慣れる。あまりにも簡単に。


 顔の腫れも、手足の青黒い痣も、いつしか「いつものこと」と、見過ごされるようになる。


 そして、それは大人たちも同じ……何ひとつ変わりはしなかった。


 教師たちは、面倒ごとを避ける。

 生徒に関わるのは“仕事”だが、心の底まで面倒を見る覚悟があるわけではない。

 受け持ちの生徒とは言え、所詮は卒業までの付き合いに過ぎない……結局のところ、赤の他人である事に変わりはないからだ。

 

 それどころか、親に苦言を呈せば、すぐさまSNSに事実を歪曲されて晒され、モンスターペアレントからの糾弾に曝されるのがオチだ。


 口では「生徒第一」などと言いながらも、本音では誰もリスクなど背負いたくはない。

 熱弁を振るい、生徒を誰よりも守ろうとする熱血教師など、ドラマの中だけの幻で、そんなもの、現実にはいやしない。

 正義感よりも保身と安泰――それが大人たちの現実。

 

 彼等は全てから目を逸らし、結果として、真は親の理不尽な暴力の前へ置き去りにされた。

 誰一人として、本気で手を差し伸べてはくれることはなかった。


 愛されることも、甘えることも知らずに育った少年が歪み、道を踏み外してゆくのは、ある意味で当然だったのかもしれない。

 中学に入る頃には心が擦り切れ、怒りと虚勢に染まってゆく。


 信じられるものなど、何もなかった。

 ならばせめて、誰にも舐められないように――そんな歪な本能だけを頼りに、生きていた。


 野良犬のような目で、何もかもを睨みつけ、誰かの視線に喧嘩を売り、些細な口論の末に拳を振るう。

 「目が合った」「肩がぶつかった」――たったそれだけの……実に些末な理由で、日々乱闘を繰り返した。


 タバコを覚え、酒を覚え、学校をサボり繁華街に入り浸る……良くない事ばかり覚えてゆく。

 周囲の人間はどんどん離れていき、気付けば“札付き”とさえ呼ばれ、後ろ指を差されるようになっていた。


 それでも、誰かに認めてほしかった。

 本当は、誰かに気づいてほしかった。

 だがその寂しさすらも、自分自身にさえ隠し通すように、彼は無理に笑った。

 粗野な言葉、軽薄な態度――それは、自分を偽るための仮面だった。

 


 日に日に“本当の自分”は遠ざかってゆく。

 作り笑いの醜さに嫌悪しながら、それでも笑うしかなかった。

 いつしか、自分の“本当の笑顔”が、どんなものだったのかも思い出せなくなってゆく。

 


 ――そして、中学卒業の日。


 『進路』や『将来』などという言葉は、真の辞書にはない。 夢や希望を抱く事など、とうに諦めていた。

 まして、親の辞書には『真』と言う名前すらもなく、彼等にとって真は興味のない、異物程度の存在でしかない。

 繁華街での酒やギャンブルには惜しげもなく金を使うくせに、学費の相談をすれば露骨に嫌な顔をする親――そんな家や親に、もう未練など残っていなかった。


 たったひとつのボストンバッグに、着替えとわずかな私物だけを詰め込んで、真は家を出る。

 

 その背を押したのは、希望などではない。ただ、“この家には自分の居場所はない”という諦念だった。

 そして真は、振り返ることもなく、生まれ育った家を……そして過去そのものを、後ろに捨てた。


 

 ――それからの数年間、彼は住み込みの仕事を転々とする。

 だが、短気で喧嘩っ早い性格が災いし、どこへ行っても長続きしなかった。

 ネットカフェに寝泊まりしつつ、日雇いに近い仕事を渡り歩きながら、時間だけが無駄に過ぎてゆく。

 

 ――だが、それでも真が腐りきらずに済んだのは、ひとつの街との出会いがあったからだ。


 東洋一の歓楽街、新宿・歌舞伎町。


 金もない、誰にも頼れない、それでも「何かがあるかもしれない」と信じて、無数の若者が吸い寄せられてくる。

 夢という名の火に惹かれて飛び込む蛾のような、行き場のない人々を抱え込む――そんな誘蛾灯の如き街。


 当然、真もそのひとりだった。

 所持金は数千円。わずか2行しかない学歴と、無駄に数だけ多い職歴。履歴書の内容に誇れるものはない。

 それでも、地に足を付けた生活がしたくて、真は仕事を求め街を彷徨う。

 

 歌舞伎町に思いを馳せた男が抱く野望と言えば、ホストで成り上がる事を連想する者も多いだろう。


 高価で煌びやかなスーツに身を包み、シャンパンタワーの向こうで笑うホストたち。

 キラキラと光り輝く夜の男達。彼らこそ、この街の表舞台に立つ“成功者の象徴”のひとつだった。

 例え貧乏であっても、学歴が低くても関係はなく、実力と運と執念次第で這い上がれる、数少ない舞台。

 

 ――だがそれは、選ばれし者だけに許された、一握りだけの輝きであり、簡単に手が届くような甘い世界ではない。

 

 真はそれを痛感している。

 自分の容姿は平凡……いや、それ以下かもしれない。

 女を口説く才もなければ、喋りで場を回すセンスもない。ましてや人に媚び諂う事など、真にできるはずもなかった。

 ただでさえ何ひとつ自信もなければ、誇れるものもない真が、眩いネオンの海へ飛び込むなど、最初から無理なことだった。


 その代わり――ある日、ふと目に留まった一枚の張り紙が、真の人生を少しだけ変える。


 路地裏の焼肉屋。その店先に、控えめな字体で書かれた『アルバイト募集』の文字。

 賄い付きで、時給は決して悪くない。……いや、当時の真にとっては破格の条件だった。

 少しだけ美味しい時給で、飯は食わせてもらえる。迷う理由などはなく、彼は、そのまま扉を押し開けた。


 無骨で不愛想な店主は、一見怖そうに見えたが、誠実で情のある男だった。

 「いいよ、いつから来れる?」

 ――まさかの即採用。


 その瞬間、真は初めて「誰かに必要とされた」と感じた。

 これまでの人生で、誰からも受け入れられる事のなかった彼にとって、それは忘れることなどできない、救いのような言葉だったのかもしれない。


 

 仕事は大変だったが、真は、その店主の信頼に応えようと懸命に働く。

 皿洗い、仕込み、掃除、ホール――どんな雑用も引き受け、やれることはなんでもやった。

 「この街の住民として、地に足を付けた生き方がしたい」……その思いは真の仕事にも現れる。


 店に集まる客もバリエーション豊かで様々だった。

 夜の世界で生きるキャバ嬢、売れっ子ホスト、そして、中には『職業を聞く事すら憚れる』強面の男。

 彼らは皆、この街で何かを背負い、何かを失い、そして何かを求めて生きている者達。

 その中で、真は少しずつ、街の一員として根を下ろしてゆく。

 

 気が付けば、この店で働くようになって、二年以上が経過していた。

 朝の開店準備すら任されるようになり、店先を掃除する傍ら、通りすがりの顔見知りと軽口を交わすようになる頃には、街の空気がすっかり肌に馴染んでいた。


 自分はここで、生きていけるかもしれない――そんな、ささやかな希望が心に灯った矢先だった。

 やっと、自分の力で居場所を見つけたと思った矢先、運命の日が訪れる。


 ――2027年4月8日。

 

 何の前触れもなく、日常は壊された。

 光に満ちた街が、一瞬にして暗黒へと転落してゆく。


 後に『電災』と呼ばれることとなる、その日。

 人類が、AIに“宣告”を受けた日。


 ――世界は、静かに終わりを迎えた。

気が付けば今回で13話目になるんですねぇ。

前回の「幕間」編後半でちょうど1クールって感じになりましたが、

実はまだ序盤なんですよね。

物語冒頭からずっと出てきた『電災』とはどんなものなのか、

ようやく描いていける段階まで来ました。

本来であれば、電災勃発の瞬間まで書こうと思ったのですが、

加筆に加筆を重ねたら、軽く一万文字を超えて、なおも続く

長い文章量になってしまったため、あえて、勃発直前で

一度切りました。

次回以降、『電災』と呼ばれる出来事について、本格的に

描いてまいります。

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