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電災都市  作者: あるふぁ
第二章『新宿クオム』
10/20

『新宿クオム』-7

 ――かつては、愛し合う男女が甘い夜を過ごすための、密やかな楽園だったのかもしれない。


 だが今や、その名残は微塵もない。

 安らぎも、ときめきも、すべてはとうに風化した。

 今この場所に息づくのは、戦場から帰還した者たちのための、粗野で乾いた塒だけだ。


 部屋の広さに不釣り合いなほど巨大なベッドと、ソファだけが当時の名残を物語る。

 だが、部屋の周囲を取り囲むのは、銃器を整備するためのワークベンチや、乱雑に積まれた弾薬箱、手榴弾のケース。

 ――火薬の匂いが室内に満ち、空間そのものがまるで銃声の残響を吸い込んでいるかのようだった。


 色気の欠片もない。艶やかさなど、とうの昔にこの部屋からは剥がれ落ちていた。

 だが、それでも、今の彼らにとっては、ここが確かな『帰る場所』だった。


 アリスはキャリアプレートを脱ぐと、丁寧にハンガーへとかける。そして、太腿のホルスターから拳銃を抜き取り、予備弾倉とともにワークベンチに置いた。

 バックパックの中身も静かに取り出され、定位置のコンテナへと収まっていく。

 几帳面で整然とした動きは、彼女の性格そのものを映しているようだった。


 一方の真は、背負っていた行軍嚢(ダッフルバッグ)を無造作にベンチへ落とし、重荷から解き放たれた肩をぐるりと回す。


 キャリアプレートを剥ぎ取り、汗を吸ったカーゴパンツとブーツを脱ぎ散らかすと、躊躇うことなくベッドへと身を投げ出した。


「……っはあ」


 深く吐いた息に、疲労が滲む。

 骨の髄にまで染み込んだ疲れが、重力となって身体を押し潰していた。


 仰向けのまま、芋虫のように身を捩ってコンバットシャツを脱ぎ捨てると、Tシャツにパンツ一枚という情けない姿に。だがもう、服を畳む気力もなければ、部屋着に着替える余裕もなかった。ただ、布団に沈み込むことだけを、身体が求めている。


「……すげえ、疲れた……」


 呟く声さえ掠れていた。

 天井をぼんやり見上げながら、今日一日を振り返る――あまりにも、色々なことが起こりすぎた。


 いつも通り、偵察属種レヴュラの排除。命の危険がある以上、決して楽などと言うつもりもないが、それでも難易度は高くない、手慣れた依頼内容だったはずだ。


 だが――蓋を開けてみれば、現れたのはB級レヴュラ。

バリバリの戦闘種で、そのデカさと、攻撃力の高さから、真のようなソロハンターがまともに相手する事は、命知らずの蛮行とさえ言える存在だ。

 しかも、それは新人スカウトの不完全な情報が招いた、致命的なミスが原因だというのだから、たまったものではない。


 結果、長年連れ添ってきた愛銃を破壊され、くたばりかけた。

 腐臭混じりの液体を頭から浴び、嫌と言うほど、泥と埃に塗れ、天井の崩落に巻き込まれて意識を失った。

 結果、B級レヴュラ(スカラベ)を倒すために、高価な69式火箭筒(中国版RPG-7)を二発も奢った事で大赤字だ。

 クオムに戻れば、そのみすぼらしく、薄汚れた姿を何度弄られたかわからない。

 極めつけは、A.I.A.の老害による、鬱陶しいやつ当たりだ。


 ――まったく、本当にクソみたいな一日だった。


「真、大丈夫? 今日は本当にお疲れ様」


 アリスが差し出したタオルを受け取り、顔や頭を丁寧に拭う。

 ようやく、己が人間であることを取り戻したような気がした。


 彼女は静かにベッドの端に腰掛け、真の肩と腰を優しく揉みほぐしていく。

 その掌から伝わる熱と、穏やかな力加減に、張り詰めていた意識がゆるゆると溶け出していく。

 触れられて初めて気づく――どれほど自分が疲弊していたかを。


 映像記録用のカメラはギルドへ提出済み。新しい銃が組み上がるまでは依頼も受けられない。

 ガーディアンの巡回当番も、当分先。


 つまり今は、半ば強制的に与えられた小さな休暇(オフ)だった。


 ならば、しばしの惰眠も悪くない。アリスにも、きちんとした休息が必要だ。


 軽いトレーニングで身体を保ちつつ、しっかり英気を養う時間にしよう。

 そういえば、大野さんが「一杯付き合え」と誘っていたっけ。

 彼と一緒なら襲われる心配も、誰かに寝首を掻かれる心配もないし、久々に美味い酒が楽しめるかもしれない。

 


「アリスも今日は疲れただろ? どうせ銃が届くまでは何もできないんだから、ゆっくり休んでおけよ」


「うん、それじゃあ……私はお風呂に入ってくるね」


 微笑んだアリスは、着替えを抱えて浴室へと向かっていく。その足取りはどこか嬉しげで、まるで少女のような軽やかさがあった。


 


 本来、メカドールに『疲労』という概念は存在しない。

 だが、それは「無限に働ける」という意味を指したものとは異なる。


 ――彼女たちには、『連続稼働時間』という、明確で、絶対順守の制限が設けられていた。

 

 それは、かつて世界がまだ理性を保っていた時代――メカドールが不当に酷使されたり、犯罪に利用されることを防ぐため、国際的な条約に基づいたものだ。


 また、アリスが頻繁にシャワーを浴びるのは、単に『女の子だから』ということでもない。

 彼女たち、メカドールの肌の表面には、極小の太陽光発電素子が無数に埋め込まれている。

 それが埃や汚れで覆われれば、発電効率は著しく低下し、結果として稼働限界が早まるのだ。


 つまり彼女の「清潔な習慣」は、単なる嗜好ではなく、理に適った『生存戦略』に他ならなかった。


 やがて、浴室の扉の向こうから、水音が聞こえてくる。


 ――あの「電災」から、もう三年近くが経つ。

 完全な復旧とは程遠いが、それでも、この街の一角には、僅かに残ったライフラインの名残があった。


 ――真とアリスが暮らすこの建物も、そんな『奇跡の遺産』のひとつ。


 はっきり言ってしまえば、ここは、元ラブホテル。

 多くの恋人たちの逢瀬を包み込んだであろうその室内も、今は乾いた埃と硝煙の匂いが漂っている。

 だが、今の時代において、ロマンチックな愛を囁く場所など、それ自体が贅沢というほかない。


 幸いなことに、この建物の屋上には、電災以前からソーラーパネルが設置されていた。

 おかげで、最悪の混乱期を過ぎた頃には、最低限の電力が復旧し、給湯設備まで使えるようになっていたのだ。

 つまり、熱いシャワーが浴びられる――それだけで、生き延びる意義がひとつ増えるというもの。


 それでも、電災後の世界においてはマシと言う程度であり、「快適」と呼ぶには程遠い。

 彼らが使っている水は、雨樋から集めた雨水を、改造されたタンクで濾過したものだ。

 煮沸しなければ飲用にすら適さず、浴びるにも節制が必要。

 じゃぶじゃぶと贅沢に使える代物ではない。

 

 とはいえ、湯が肌を伝うあの感覚は、特に冬の凍える空気の中では、この上ない恵みだった。

今の季節はまだいいが、冬の寒さの中、水で体を洗うのは苦痛だろう。


 かつて日本は、この国が終わるのではないかと思われたような災厄を経験している。


 ――観測史上最大級、1万5千人以上の命を奪い去った巨大地震を起因とする自然災害。

 そして、その膨大なエネルギーが引き起こした大津波は、沿岸部のあらゆるものを無慈悲に呑み込んだ。

 そして、その爪痕として、原子力発電所の連鎖的な崩壊をも引き起こす。


 沿岸部の原発が津波による壊滅的被害を受け、制御不能となる事故が発生した。

 一歩間違えば東日本一帯が放射能汚染で人の住めない土地になっていたかもしれないのだ。

 

 そして、それが社会のエネルギー政策そのものを大きく揺るがした。

 政府は脱原発と電力自由化へと大きく舵を切り、やがて再生可能エネルギー――中でも太陽光発電が新たな救世主として喧伝され始めた。


「売電で老後も安心」

 そんな甘言で高齢者を狙う悪徳業者も跋扈し、都心の家々には、無数のソーラーパネルが取り付けられるようになる。

 そして、皮肉にも、その皮膜のような板たちが、電災後の崩壊した都市に微かな命を灯す手助けとなったのだ。


 そのため、今の新宿クオムの夜には、ほんの僅かながらも『光』が戻りつつある。

 かつてのネオンの海と比べれば、それは儚く、頼りない明滅にすぎない。

 けれども、場末の酒場には看板が灯り、人々の吐息が煙のように路地に揺れている。

 それは、戦後の焦土に芽吹いた光と、どこか似ていた。


 だが、今、この街にとって最も深刻なのは、電力ではない。


 水――それが、喫緊の問題だった。


 芝浦の下水処理場は、電災以降、完全にその機能を停止している。

 レヴュラの支配圏内となったその区域に踏み込むことは、事実上、自殺行為だ。

 仮に奪還に成功したとしても、施設を稼働させるための膨大なエネルギーをどう調達するかという、別の壁が立ちはだかる。


 そして、もし電災以前のように、無思慮に生活排水を垂れ流せば――いずれどこかで、汚水は溢れ、街を蝕み、疫病の温床となるだろう。


 そのリスクを避けるため、クオムでは徹底した汚水の管理体制が築かれた。

 

 たとえば、トイレは水洗式ではなく、コンポストトイレへと改造されていった。

 

 処理剤と消臭促進のための炭素材が投入され、汚物は時間をかけて、可能な限り自然分解され、減容化される。

 

 各建物の排水管も再設計された。

 ビルの一階などには一時貯留タンクを設け、そこから少量ずつ下水道へと流される仕組みになっているのだ。


 居住に適さなくなった老朽ビルや空き家は、いまや簡易的な汚水処理施設として再利用されている。

 かつては、昭和の時代から続く、文化と歓楽の象徴だったゴールデン街の半分が、いまやコンポスト・ステーションと呼ばれる有機処理区画と化しているのだ。


 そこでは、知りたくもない中身が詰まったバケツを抱えた人々が、街路をゆっくりと往来する光景を目にする。

 その光景はただの暮らしの一部となり、いつしか独特の発酵臭が、都市の空気に深く染み付いていた。


『肥溜め』と呼ばれる区域は、クオムの外周に点在する再資源化ポイントだ。

 そこに集められた『成果物』は、時間をかけ堆肥へと変換されてゆき、外縁の農地で再び命を育てるための土となる。


 ――この世界では、汚物ですら、生きるための物資となっているのだ。


 

 かつて存在した入浴施設の多くは、いまや『共同浴場』として一般開放されている。


 ――もっとも、『浴場』とは名ばかりの代物。


 湯船に身を沈める贅沢など許されず、誰もが無言でシャワーを浴び、ただ黙々と身体の汚れを洗い流す。

 それはまるで『人間洗浄施設』 とでも呼ぶべき光景だった。


 電災以前、この街には天然温泉を謳った施設も存在していたが、もちろん、この東京のど真ん中に本物の源泉が湧いていたわけではない。

 遠方から汲み上げられた温泉水をタンクローリーで運び入れ、人工的に温泉として演出されたものだ。

 だが、今となってはそれらもすべて、ただの巨大な洗い場へと成り果てている。


 それでもなお、新宿や渋谷、池袋のクオムは、他と比べればまだ『恵まれている』と言っていい部類だ。

 後発のクオム――港区や目黒区などでは、文字通りの汚れ仕事を引き受ける人手が絶対的に不足しており、最低限のインフラすら満足に整備されていない。


 とりわけ、深刻なのはトイレ事情だった。

 改修も施されていない高層住宅群では、『お上品』なタワマン族たちが、自ら捻り出したものの臭いに悶絶しながら暮らしているという。

 彼らはかつての快適な生活に未だしがみつき、居住空間を穢すことを極端に嫌った。汚物を処理するという発想はなく、ただ『遠ざける』ことに終始する。

 その結果――かつてのセレブ街は、19世紀の『鼻の曲がる都』と揶揄されたパリさながらに、ゴミと排泄物がそこかしこに投げ捨てられ、目黒川の水面は濁り、腐臭を放つ汚水が滞留する地獄と化していた。


 新宿クオムにおいても、住人すべてが、真のように個室を確保できているわけではない。

 ここでは、クオム住民は毎月の『居住税』を支払うことが義務とされており、個人で住居を確保しようものなら、当然、家賃も発生する。

 

 

 電災直後の混乱期には、空きビルや旧店舗の隙間に身を潜める者も多くいたが、今では殆どの物件がユニオン、あるいは元の所有者の管理下に置かれ、勝手に住み着くことは厳しく取り締まられている。


 生き延びるためには、誰もが何らかの形で『食い扶持』を稼がねばならない。

 だが、幸いなことに、この街には仕事が豊富に存在している。


 バリケードの外へと赴き、レヴュラと直接対峙するハンターや、偵察を専門とするスカウト。

 物資の回収や取引に特化したコレクターやトレーダー。

 クオム間の輸送任務を担う運搬業や、改造トラックで地方まで物資を運ぶトランスポーターやキャリヤーたち。

 酒場や飲食店などもあれば、風俗店舗を利用し、小規模ながらに快楽を売る店もあり、交易者(アクトレス)のように、自分自身を商品として売る者さえもいる。

 さらに、清掃や建築改修、施設の維持管理といった裏方の仕事まで含めると、選り好みさえしなければ、働き口は尽きない。

 

 むしろ、常に人手不足が叫ばれており、労働力の確保こそがこの街における最重要課題となっていた。


 電災から三年――試行錯誤の末に、新宿クオムはひとつの明確なシステムを築き上げた。

 それは、『すべての住民が、なんらかの形で社会を支える』という厳格な原則。

 つまり、何もせずに座して待つ者に、施しを与えるほどこの街は甘くない。

電災以前に『健康で文化的な最低限度の生活』を保障してくれたセーフティネットなど、遠い昔の幻想だ。


 住居にしても、劇場を改造した避難所から完全な個室まで幅がある。

 十分な稼ぎがあれば、歌舞伎町タワーの上層階――かつての高級ホテルの一室を住処とし、夜景を見下ろしながら暮らすことも夢ではない。


 この街は、『自ら動いた者だけが、生きる権利を手にできる』場所なのだ。




 浴室のドアが開いた瞬間、もわりとした湯気があふれ出し、続いてアリスが姿を現した。

 ハーフのカーゴパンツに、シンプルな白いTシャツ――飾り気ひとつないその服装は、まるでどこにでもいる普通の少女そのものだ。


 だが、もし彼女の首元に嵌め込まれたチョーカーがなければ、その均整の取れた肢体と小柄な立ち姿から、彼女が機械仕掛けのヒューマノイドであるとは、誰も気付くことはないかもしれない。


「真の服も、ちゃんと洗っておいたからね」

 そう言ったときの彼女の表情には、どこか満ち足りたような、静かな喜びが滲んでいた。


 数日間の休息が取れるとあって、アリスはこの機会に戦闘用の衣類を手洗いしてくれていたのだ。

 そういえば、真が脱ぎ捨てた、迷彩のカーゴパンツやコンバットシャツが、いつのまにか姿を消している。


 今日の戦いで浴びた粉塵や、思い出したくもない得体の知れない液体――アリスは、それらを見逃さず、黙って処理してくれたのだろう。


 彼女が真の世話を焼くのは、戦場の外における当然のルーティン。

 そしてそれは、彼女自身にとっても、戦闘とは無縁の――僅かばかりの安らぎの時間だった。


 メカドールは、元来人間の補助を目的に生まれた存在だ。

 だから、洗濯や掃除といった日常の作業を面倒と感じることはない。

 むしろそれらは、生活という営みの中で、彼女が唯一触れられる、ささやかな幸福の断片だった。


 洗濯と言っても、洗濯機など使えるはずもなく、彼女は手洗いを余儀なくされている。

 それでも、アリスは時折鼻歌を口ずさみながら、楽しげに衣類を洗う。


 それは、静かで、穏やかな――戦場とは対極にある時間。

 それこそが、アリスという存在が、この世界でかろうじて『人間に似た何か』へと近付ける、かけがえのないひとときだった。


 アリスはベッドの端に、そっと腰を下ろし、静寂を破らぬようページをめくっていた。指先は軽やかに紙を滑り、目元には穏やかな集中の色が宿っている。


 一方、真はシャワーを浴びた後、無言で机に向かい、銃の分解作業に没頭していた。

 手にしているのは、相棒――M1911(ガバメント)。電災の混乱を共に生き延びてきた、傷だらけの拳銃だった。


 今や、新たに手に入れた火器と交代し、主力の座を降りることとなったこの銃。だが、別れの儀式のように、真は弾倉を抜くと、装填されていた弾丸を全て取り出し、遊底を外すと、ひとつひとつのパーツを丹念に拭っていく。


 再び頼る日が来るかもしれない――そんな未来に備え、使わぬ道具にも誠意を尽くす。それがこの荒廃した時代を生きる狩人(ハンター)の矜持だった。


 そして、アリスが使用するM18の整備もまた、真の仕事だ。

 今日の戦闘では、彼女の拳銃が幾度も火を噴いた。内部に残った火薬のカスや金属粉を隅々まで掃除し、ウエスで磨きあげる。

 鋼に宿る熱を鎮めるように、丁寧に、静かに。


 それは単なる作業ではなく、命を守ってくれた道具への感謝の祈りのようなものだった。


 室内には、『Blackout Radio』と名乗る海賊放送が流れている。誰が放送しているのかは不明だが、新宿クオムのどこかで細々と続けられているらしい。


 軽快な音楽がスピーカーから零れ、どこか懐かしい空気を漂わせる。それは電災以前、この国がまだ平穏だった頃に流行していた曲。思い出の残滓のように、音が部屋の空気を満たしていた。


 テレビも、インターネットも、ラジオの電波すら姿を消したこの世界では、それは数少ない娯楽のひとつだった。

 |Blackout Radio《真っ暗闇のラジオ》――その名には、電力が乏しく、闇に包まれた都市を生きる人々への皮肉と、ほんのひとかけらのユーモアが込められているように思えた。


 放送内容は、クオム内の店舗を介して寄せられる投稿やリクエストが中心だ。近所の噂話、行方不明になった犬の話、珍妙な失敗談、トレーダーが持ち込んだ商品情報――真面目と茶番がない交ぜになった話題の数々が、深夜の街を和ませる。


 遠征帰りのトランスポーターが運んできた地方の話も時折流され、ありふれた雑音のようでいて、今や人と人を繋ぐ数少ない『声』でもあった。


 ときには、馬鹿馬鹿しい投稿に真も思わず吹き出し、手を止めることがある。

 爆笑するでもなく、ふと笑うだけ。それがこの時代における最大の贅沢かもしれなかった。




 時計の針が、そっと零時を回ろうとした頃、アリスは読み終えた本を閉じ、瞼のあたりを指でそっと擦る。

 ラジオの内容はリピート放送へと切り替わり、パーソナリティが見繕った楽曲が、無造作に流れ続けていた。


「真……それじゃ、私、そろそろ寝るね」

 その声はどこか名残惜しく、それでいて規律正しかった。


 メカドールは、映画や物語に出てくるような万能機械ではない。

 無限に動き続ける存在ではなく、限られたエネルギーと設計思想の中で生きている。


 外装に埋め込まれた太陽光発電素子では、到底十分な電力は得られない。

 日が落ちた後は、内蔵された発電機構を使い、スリープモードで静かに充電する。

 それが、彼女たちの『眠り』だった。


 けれどアリスが休むのは、単に電力を補うためだけではない。彼女は人間と共に暮らす者として、可能な限り『普通の生活』を望んでいたのだ。


 外に出れば、眠るどころか、わずかな物音にすら神経を尖らせる事になる。

 交代で仮眠を取るのが精一杯で、疲労を引きずったまま、レヴュラと対峙し、荒れ果てた街を移動する日々のなかで、ただ横になり、静かに目を閉じる。

 

 本来なら、疲弊しきった戦場を渡り歩く暮らしの方こそ異常なのだ。だからこそ、この小さな安息の時間を、アリスは誰よりも大切にしている。

 ――そのささやかな営みすら、彼女にとっては貴重な日常だった。


 そしてそれは、真とアリスの間に、言葉にしないまま交わされた『約束』でもある。


「じゃあ、俺も寝るとするか。アリスも、お疲れ。ゆっくり休めよ」


 真の言葉に、アリスは小さく笑い、ベッドに身を沈める。まるで羽毛のように、そっと。

 やがて彼女は目を閉じ、スリープモードへと移行した。


 首元のチョーカーに、小さな充電ランプが灯る。それは命の火でも、機械の証でもある小さな光。


 その寝顔を見ていると、真はふと不思議な感覚にとらわれる。

 彼女は本当にメカドールなのか――チョーカーを身につけた人間の少女が、ただその()()をしているだけではないか。そう錯覚してしまうほどに、穏やかで無防備な表情だった。


 真は彼女が深い休息に入ったことを確認すると、部屋の照明を落とし、銃器整備で黒ずんだ手を洗い流すと、自分もベッドへと身を投げた。


 空調が機能していない部屋に、夏の気配を孕んだ湿り気がじっとりと漂っている。

 けれど、もはやそれすらも意識の淵で揺らぐだけだった。


 まるで、夜そのものに溶けていくように――真の意識も、静かに沈んでゆく。

ひとまず、この作品におけるホームタウンである新宿クオムの観光案内的な

エピソードはここまで。

次回以降、メカドール、そして、電災そのものについて新エピソードを描いていきます。


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