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風雅の君  作者: 神間 那古井
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第8話 天真爛漫な薬師

 鎌倉を出発してから3日——九条月華(くじょうつきはな)(みやこ)のすぐ近くまで来ていた。

 馬を休ませながら辺りを見回し、ひと月ぶりの景色を眺めて月華は高揚感を押さえられずにいた。

 後ろ髪を引かれる想いで身重の妻を九条家に預けてから半年ほどの月日が過ぎた。

 鎌倉での仕事があるため、あれから京に里帰りすることができたのは数えるほどだった。

 北条鬼灯ほうじょうきとう)の片腕という立場上、京に戻ってきても長居することは許されず、再び鎌倉へ取って返すということが繰り返されたが、今回は特別な任務のためにしばらく京に滞在することができる。

 自然と笑みがこぼれている自覚もないほど喜びが溢れていた。

「月華様、嬉しそうですね」

 年の頃は15、6ほどに見える少女が水を呑む馬の鬣を撫でながら言った。

「……菊夏(きっか)殿の気のせいだろう」

 月華は照れ隠しに顔を逸らした。

 少女は北条菊夏ほうじょうきっかといい、北条鬼灯の姪であった。

 白い着物に藍色の袴を纏った凛々しい様子でその端整な顔立ちはどこか鬼灯に似ている。

「いいえ、気のせいではないですよ。喜びがお顔に駄々洩れです」

 実年齢は知らないが弟よりも年下に見える少女に見透かされ恥ずかしくなった月華は、片手で目元を押さえながら空を仰いだ。

 指の隙間から見える空はすっかり茜色に染まっており、予定よりもずいぶんと遅くなってしまったと月華は気がついた。

 暗くなる前までに目的地に到着したい。

 薄暗くなれば夜盗や獣に遭遇することもある。

 普通の女子なら怯えそうなものだが、さすが鬼灯の姪とも言うべきか妙に肝の据わった菊夏は暗くなってきたことも気にせず呑気に月華をからかっていた。

「月華様は百合ゆり様に会えるのがよっぽど嬉しいのですね」

 くすくすと笑う菊夏には答えず、月華は深くため息をつくと彼女を馬の背に乗せた。

 自分もその前に乗り込むと馬を走らせる。

「百合様のどんなところがお好きですか?」

 唐突に背中から聞こえてきた言葉に絶句しつつ、月華は無視するように話題を変えようと関係のないことを言った。

「日が暮れる前に六波羅ろくはらへ向かおう、菊夏殿」

「参考にしたいので答えてください、月華様」

「参考にしたいって何を……」

「だって、私は花嫁候補として呼び寄せられたんですよ? 好きでもない人と夫婦になるかもしれないのだからどうしたら夫婦らしくなれるのか、事前に考えておきたいのです」

「見合いのためだけに呼ばれたわけじゃないだろう」

「そうですが、私にとって重要なのは縁談の方です」

 月華は数日前のことを思い返しながら深く息を吐いた。

 数日前のこと——月華は大倉御所の一室にいた。

 文机に向かい書簡の整理をしていると、早川蓮馬(はやかわれんま)がいつも通りぶんぶんと袖を振りながら大股に歩いて来た。

「月華様、鬼灯様からの文です」

 蓮馬が差し出した文の表には三つ鱗の家紋が書かれており、裏には確かに鬼の文字が書かれている。

 月華は無言で受け取るとそのまま中身を確認した。

 蓮馬は、どうせいつもの厄介ごとだろうと呟きながら文を読み始めた月華が、みるみる眉根を寄せるのを見て彼の顔色を伺いながら恐る恐る訊ねた。

「何か良くないことでも?」

 蓮馬は文机を挟んで月華の向かいに膝を折った。

「そうだな……良い知らせが3割、良くない知らせが3割、悪い知らせが4割といったところだ。何から聞きたい?」

「では悪い知らせから」

「我々には直接関わりないが、今、京で謎の毒殺事件が続いているそうだ」

「毒殺事件、ですか」

「ああ。しかも狙われているのは美人の女子。身分や年齢に関係なく何人も殺されて民の間に不安が広がっているらしい」

「では、奥方様も危険なのでは?」

 蓮馬は身を乗り出して月華に詰め寄ったが、鬱陶しいと月華はその肩を押し戻した。

「百合なら問題ない。九条家の守りは鉄壁だ」

 5つある摂家の中の九条家と言えば、朝廷でも絶大な権力を持つ家柄である。

 半年前に近衛柿人(このえかきひと)が鬼灯に征伐されるまでは九条家、近衛家は帝とも関りが深い高貴な家柄であり、朝廷を支える両翼と言われていた。

 近衛家がかつての力を失った今となっては、九条家を越える力を持つ摂家は存在しない。

 加えて優秀な家臣が揃っており、九条邸の中にいる限りは何人たりとも手出しすることはできない環境なのである。

「その上、この京の状況下であの父上が百合をひとり、外に出すことはあり得ない。見えない敵が百合と接触することは万が一にもないな」

 蓮馬は改めて目前の九条月華という人物は本来、ここにいるはずのない高貴な家柄の出身なのだと理解した。

「では、良くない知らせとは?」

「毒殺の犠牲者をこれ以上増やさないために兵部省ひょうぶしょう中務省なかつかさしょうが手を打っているらしいが、鬼灯様個人としては無下にできないゆえ、優秀な薬師を呼び寄せたい、とのことだ」

 内容を聞いた蓮馬はあっという間にげっそりとした表情を見せた。

「薬師ってまさか、あの方ですか?」

「鬼灯様が呼び寄せると言うからには他にいないだろう。優秀な薬師が何日も幕府を空けるというのはあまりいいことではないがな。まあ、今は戦もないから問題ないと思うが……鬼灯様はこの俺に護衛がてら京へ連れてこいと仰せだ」

「月華様……あの方と京までの道中を一緒に過ごされるとは……」

 同情するような蓮馬の視線を受けて月華は肩を竦めた。

「だが、蓮馬。文にはまだ続きがある」

「良い知らせ、でしたね」

「ひとつはしばらく京に滞在してよいと書いてある。これは俺にとって何よりも良い知らせだ。だが、もうひとつは——」

 続きを話そうと口にした月華の言葉は、大きな足音を立てて駆けつけた人物に遮られた。

「月華様! いつ出発しますか!」

 明るい声で登場したのは北条菊夏だった。

 声のする方向へ顔を向けて驚愕する蓮馬は口を開けたまま、菊夏を見上げている。

 菊夏は蓮馬が目に入っていないようで爛々とした瞳を月華に向けた。

 月華はため息しか出なかった。

「菊夏殿。文を受け取ったばかりでまだ何も決めていない」

「では今決めませんか」

「はっ……?」

「だって、伯父上が私に良き相手を見つけたと文をくれたのですよ。善は急げと言いますし」

 蓮馬の横に腰を下ろした菊夏は目を輝かせて月華に詰め寄った。

 菊夏は北条家の女子の中でも珍しく薬師という仕事を持ち、大倉御所の中で働いている。

 天才と謳われ、菊夏に作れない薬はないとまで噂されるほど御所の中では重宝されていた。

 ただ、彼女の天真爛漫さには日頃から多くの者たちが振り回されており、ある意味その自由気ままな人柄は鬼灯にそっくりだと言えた。

「菊夏殿、見合いに行かれるのですか!?」

「いけませんか、蓮馬様。私だって立派にお嫁に行ける年齢なのですよ。せっかく伯父上が見つけてくださった相手なのですから会わないわけにはいかないでしょう」

「み、京に嫁がれるのですか!? どこのどなたのところへ? 武家に嫁がれるのではないのですか!?」

「どこのどなたかは聞いていませんが嫁ぐかどうかは、お会いしてから決めます。私の夫になる方ですから普通の方では退屈してしまうではないですか。私は月華様のところにお嫁に行きたかったのに……月華様ったら菊夏の知らないところで婚姻されてしまったからしばらく落ち込みました」

 菊夏の縁談話を聞いた蓮馬は青い顔をして落ち込んでいたが、そんな彼の様子に気づくこともなく、菊夏は立ち上がると、

「京へ向かうことは決まっているのですから急ぐことはありませんね。日取りはいずれ決めましょう。では月華様、ご連絡をお待ちしております」

 と、嵐のように去っていった。

「つ、月華様、き、菊夏殿はお嫁に行くために京へ呼ばれたのですか」

「だから先刻さっき言ったじゃないか。良い知らせとは菊夏殿の縁談話があると書かれていたことだが……何だ蓮馬、もしかして菊夏殿のことを好きだったのか」

「す、す、す、好きだなんて滅相もない!」

 図星だな、と思いながら月華は少し意地悪に言った。

「今ならまだ間に合うから、本当に欲しいなら求婚したらどうだ?」

「ほ、欲しい!? そ、そんな大それたこと言えません!」

「お前は何を狼狽えているんだ……」

 赤面する蓮馬に呆れつつ、月華は手元の文に再び目を落としたのだった——。

「月華様、私の質問に答えていただけないのですか」

 語気を強める菊夏の声で我に返った月華は、苦笑した。

 慣れない馬に乗せられ、知らない土地の知らない男との縁談が待っているかもしれないというのに、どこまでも前向きで破天荒な彼女の感覚はおそらく一生理解することはできないだろうと月華は思う。

 そもそもこんな彼女を受け入れてくれる男などいるのだろうか。

 月華が菊夏に初めて会ったのはまだ彼女が10にも満たない年齢の頃だった。

 鬼灯に連れられ北条家の邸を訪れたその時、菊夏はすでに天才の名をほしいままにし、薬師としての才能を発揮していた。

 本当ならば邸の奥で大人しくしている年齢のはずだが、幼い時分から大人たちに囲まれてきた菊夏は大人の男たちを唸らせるほど、薬師として重宝されていた。

 そんな菊夏が普通の男の妻として家に大人しくしている姿は、月華には想像すらできなかった。

「で、質問は何だった?」

「もうっ! ですから、百合様のどこがお好きなのか伺いたいのです」

「そうだな……百合は俺のすべて、かな」

「すべて?」

「絶対ありえないことだが、もし仮に今、百合を失うようなことがあれば、俺は生きていくことができないだろうな。すべて、とはそういう意味だ」

「…………」

「菊夏殿もいつかそう想ってくれる男に出逢うよ、必ず」

「……出逢えるものでしょうか」

「こればかりは理屈じゃない。菊夏殿にもわかる時が来る。それが今回の縁談の相手かどうかはわからないがな」

 月華の背中に捕まりながら、菊夏は彼の言うことが理解できず不満そうにしていたが、同時にまだ見ぬ相手への期待も膨らませていた。

「ところで菊夏殿、今回の毒を消す薬は作れそうなのか」

「うーん、どうでしょう」

「ずいぶんと呑気だな」

「まだ作ったことがないものに関してはやってみるまでわかりません。でも、完成するまで諦めないのが私の主義ですからいずれは完成するかと」

「ははっ、菊夏殿らしいな」

 月華は少し手のかかる妹のような菊夏を鬼灯のもとへ送り届けるため、日が暮れ始めた道を、速度を上げて駆けて行った。

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