表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
風雅の君  作者: 神間 那古井
7/66

第7話 黒い感情に操られ

 近衛椿このえつばき白檀びゃくだんに付き添われ茶道具を一式買い揃えると、風呂敷に包んで西園寺さいおんじ邸へ帰った。

 親友の百合ゆりが言うとおり、李桜に返事をするためにも早く茶の湯を極めたい。

 椿は鼻歌を歌いながら、門を潜った。

「椿様、お帰りなさいませ」

 出迎えた西園寺家の家臣——三木みきは満面の笑みで言った。

「三木さん」

「さん、などと……。私は西園寺家の家臣、あなたは主人の大事な方です。私のことはどうぞ、三木とお呼びください」

「で、できないわ、そんなこと。私の方こそ、こちらの居候なのだから」

 三木は何度言い含めても態度を変えない椿に苦笑した。

「ではせめてお荷物だけでもお持ちしましょう」

 三木が椿の抱える風呂敷を受け取ろうと手を差し出すと、彼女は少し後退ってそれを断った。

「これは大丈夫よ。重たくないもの」

 椿が大事そうに手放さなかったため、三木は諦めて彼女を邸内へ案内した。

 彼女の部屋は李桜の暮らす寝殿の隣に用意されている。

 中庭の池を眺めながら回廊を歩いていると、椿はたった半年しか暮らしていないこの邸がいつの間にか自分の家のようだと感じていた。

 李桜に保護観察されている身とはいえ、妻でもない自分が邸を自由に闊歩していても西園寺家の女中や家臣たちが敵対してきたり、噂話の的になったりしたことがこれまで1度もない。

 むしろ近衛家に暮らしていた時よりも居心地がよいくらいだった。

 もちろん李桜の命でみなそれなりに接してくれているのだろうが、椿は数歩先を行く家臣の三木が盾になってくれているのだろうと思っている。

 李桜と三木の間には主人と家臣を越えた絆があるように見えるが、椿の前ではそういった様子を一切見せないために確信があるわけでない。

 だが、誰よりも李桜の幸せを願っているのは三木なのだろうと思う。

 だからこそ、自分をここまで守ってくれる三木の期待に応えられる李桜の妻になりたい。

 それが何よりも強い椿の決意であった。

「時に椿様、今日はどちらへお出かけでしたか」

「……え?」

「あ、いえ。別にあなたがどこへお出かけされようと詮索するつもりはないのですが、歩いてお出かけになるのは珍しかったもので」

「……そう、よね。いつも李桜様が危ないから牛車を使うようにって言っているものね」

 すぐ近くの茶の湯の師匠宅へ行っていたとは、言えない。

 椿は一瞬視線を逸らしたが、三木へ視線を戻すと微笑んで言った。

「三木さん。今はまだ言えないけれど、もう少し待ってて。私、ちゃんと結論は出すつもりよ」

 何やら理由はわからなかったが、椿の意思のある眼差しに三木は満足げに頷いた。



 椿が帰宅して半刻ほど経った頃。

 李桜りおうは急いで邸の中に入ると出迎えた家臣の三木に詰め寄った。

「李桜様、今日はずいぶんと早いお帰りで」

「三木、椿殿は帰ってるの?」

「ええ、先ほどお戻りで——」

「すぐに僕のところに来るように言って。それから寝殿には誰も寄せつけないで」

 李桜は沓を脱ぎ捨てると、苛立たしげに自室へ向かった。

 三木は目を丸くしながら主人の背中を見つめた。

 残された沓がだらしなく明後日の方向を向いているのを彼は初めて見た。

 どんなに疲れて帰って来ても脱いだ沓は自分で揃えていた主人なだけに、三木は首を傾げるばかりだった。

 回廊を歩く李桜に他の女中たちはみな頭を下げたが、主人のその形相に困惑した。

 いつも冷静で、仕える者たちには内なる感情を出さない主人が怒りを露にしている。

 普段は物静かに歩く李桜だったが、この時ばかりは大きな足音を立て周囲を驚かせたのだった。

 李桜は邸の主人として、寝殿を自室としている。

 白い板が敷き詰められた床に敷かれた畳の上で朝服を脱ぎ、楽な着物に着替えた李桜には、もはや自制心のかけらもなかった。

 落ち着こうとその場に正座してみたものの不安で鼓動が速くなり、組んだ腕周りでは落ち着きなく指先が動く。

 一刻も早く真実を突き止めたい一心で椿を寄越すよう言いつけたが、実際はどんな顔をして彼女を迎えればいいのか、李桜にはわからなくなっていた。

 そんなことを考えていたところで呼びつけた椿がひとりで現れた。

 様子を見る限り、呼ばれた理由はわかっていないようだった。

 可憐に微笑み近づいてくるその姿に、李桜はさらなる不安を抱いた。

 一体、誰と一緒にいたのか。

 そう彼女を責めるもうひとりの自分の声が止まない。

 今さら椿を手放すことなどできない。

「李桜様、お帰りなさい! 今日はずいぶん早いのね」

 何事もなかったかのように椿は李桜のもとへ近づいた。

 彼女は李桜の周りに脱ぎ捨てられた着物を見て目を見張った。

 これまでこんなにだらしない李桜を見たことはなかった。

 向かい合って腰を下ろすと、心配そうに顔を覗き込む。

「……具合でも悪いの?」

 間近に迫った椿を見て、その美しさに李桜は一瞬我を忘れた。

 見慣れた顔のはずなのに、初めて逢った時のように鼓動が速まる。

 何とか平静を装って答えるのがやっとだった。

「……元気だよ」

「そう。それならよかった」

 屈託なく微笑む椿は今の李桜にとっては毒以外の何ものでもない。

 本当に後ろめたいことはないのか。

 そう彼女を責める声が耳の奥で聞こえた気がした。

「李桜様。最近忙しそうにされていたけれど、もうお仕事は落ち着いたの?」

「いや、仕事は相変わらず忙しいよ」

「そうなの? じゃあやっぱりお疲れで具合が悪いんじゃ……」

「平気だよ。それより、椿殿。今日はどこかに出かけていたの?」

 とにかく今は、何があったのか確認したい。

「……えっ」

 椿は視線を彷徨わせて、口籠っていた。

 毒殺事件について、李桜は椿を怖がらせるだけだと思い一切彼女には話していなかった。

 だから何も気にせずに外出することを咎めることはできない。

 だが、それが他と男と会うためだったと思うと、許すことができなかった。

 李桜は椿の手を掴むと強く自分の方へ引き寄せた。

 体制を崩した彼女はすっぽりと腕の中に収まる。

 椿は狼狽えた様子で李桜を見ているような気がした。

「答えられない?」

 責めるつもりはなかったが、どうしても嫉妬心を自制することができない。

 悠蘭ゆうらんが見たという男とは一体誰なのか。

 椿とはどういう関係なのか。

「り、李桜様」

「どうして答えられないの?」

 真実を彼女の口から聞くまでは引き下がるわけにはいかない、どうしても。

「どうしてって……」

「僕には言えないようなことがあった?」

「そ、そんな……」

 椿は答えられずにいたが、その様子が逆に李桜に火をつけた。

 気がついた時には李桜は椿に口づけていた。

 これまで求婚の返事をもらうまでは触れまいと大事にしてきたが、制御の効かなくなった嫉妬心が、李桜を狂わせていた。

 李桜は口づけたまま椿を畳の上に押し倒した。

 掴んだ片手を畳に押しつけ身動きができないように自分の中に閉じ込め唇を離すと、李桜は獰猛な瞳で椿を見下ろした。

 半分、怯えたような目で見上げる椿の瞳にはこれまで見たことがないような自分が映っていた。

 だが、もう止めることはできない。

 説明を求めながらも、そこから語られる真実を聞くのが怖い。

 怯えた様子の椿に構わず李桜は再び口づけた。

 最初は抵抗していた椿だったが、徐々に力が抜け抵抗しなくなっていった。

 このまま閉じ込めておきたい。

 李桜はそう思った。

 本当はこんなことをしたいわけではない。

 これまで近衛家の邸に閉じ込められるように暮らしてきた椿がせっかく外の世界に解放されたのだから、その自由を存分に楽しんでほしい。

 だがその反面、誰にも奪われたくない気持ちが強すぎて気がつくとその独占欲を椿本人にぶつけていた。

 長い口づけの後に唇を離すと、李桜を見上げる椿の目からは一筋の涙が流れていた。

 それを見た李桜ははっと我に返って、椿の手を離した。

 急にとんでもないことをしてしまった罪悪感に襲われた。

 自分の体を起こしながら額に手を当て、李桜は顔を歪めた。

(……椿殿が、泣いている?)

 嫌だったのならもっと抵抗したはずなのに、椿はそうしなかった。

 あまつさえ受け入れたように脱力していったのになぜ涙を流しているのか。

 李桜に続いて半身を起こした椿は潤んだ瞳で黙って李桜を見つめていた。

 その様子は李桜を責めているようにも見える。

「……ごめん。少し頭を冷やしてくるよ」

 李桜は優しく椿の頭を撫でると静かに立ち上がった。

「本当に、ごめん」

 ふらふらとおぼつかない足取りの李桜。

「李桜様……!」

 出て行く李桜の背中に声をかけたが、椿の声に彼が振り向くことはなかった。

 ひとり部屋に取り残された椿は、正面からこんなにも感情をぶつけてきた李桜のことを想いながら呆然自失になっていた。

 こんな李桜は初めてだった。

 白檀と茶道具を買いに行った時のことを言っていたのかもしれない。

 だが、まだ李桜に白状するわけにはいかない。

 今、茶の湯のことを言ってしまえば、必要ないと一蹴されるだけだろう。

 ましてや茶の湯の師匠が美男子だと知れば反対するに決まっている。

 そもそも李桜は、椿がそばにいるだけでいいと思っている。

 だがそれでは椿の気が済まない。

 茶の湯を極めるまでは、李桜に知られてはならない。

 そう椿は心に誓った。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ