第63話 文の束
無事に菊夏と再会を果たした悠蘭の足元ではなぜか蓮馬が呆然と項垂れていたが、理由はまったくわからなかった。
菊夏に答えを求めたが彼女もまた、首を振るばかりだった。
そっとしておいた方がいいのではないか、と菊夏が言うので悠蘭は文を読んでいる月華に向かい、様子を伺うことにした。
「兄上、みなさんの文には何と?」
「父上の文には鬼灯様との賭けのことについて書いてあった」
「賭け?」
「ああ。あのふたり、俺と百合の子が男か女かを賭けているんだ。まあ、いつものことだけどな」
「いつものこと、なのですか」
「ああ。以前には俺と百合が夫婦になるかを賭けていたんだ」
「…………」
「結局、負けた鬼灯様は父上に浴びるほど酒を呑まされて大変だった。お前もそのうちあのふたりの賭けごとの対象にされるだろうから気をつけろよ」
「気をつけろ、と言われましても……それにしても、鬼灯様と父上はずいぶんと仲がいいのですね」
「まあな。昔、父上は鬼灯様に命を助けられたとかでしばらくこの鎌倉に滞在していたことがあるらしい。今は幕府と朝廷で対立する立場にはあるが、立場を除けばあの人たちは同じ方向を向いているんじゃないか?」
月華は含みのある笑みを浮かべた。
悠蘭と菊夏はその意味がわからず互いに顔を見合ったが、首を傾げるだけだった。
考えてみれば悠蘭は鬼灯のことをよく知らないと気がついた。
兄の上司であり、鎌倉では将軍の懐刀と言われるほどの重臣であること以外、これまで知る機会もなかった。
これからは親族になるのだから今度、鬼灯とふたりだけで呑んでみたい、悠蘭はそんなことを思った。
「李桜は椿殿と仲良くやっているそうだ。お前たちに命を救われたおかげだと書かれている」
月華から受け取った李桜の文には確かにそう書いてあった。
天邪鬼な性格で「これで貸し借りなしだ」などと言っていたが、内心はとても感謝してくれているのだとその文の内容だけで十分に感じられる。
悠蘭はこれまで朝廷の中で李桜を見てきたが、最近は人が変わったように穏やかな表情をするようになったと思う。
以前は生きる目的が仕事であるかのような働きぶりだったが、今は生きていく手段として仕事をしている、そんな風に見える。
そこまで李桜を変えたのはやはり椿なのだろう。
菊夏と読み終えた文を月華に返すと、悠蘭は彼女と微笑み合った。
「紫苑は——また誰かいい人がいたら紹介してくれと書いてあるな」
「……紫苑さんも相変わらずですね。二日酔いだって言いながらその文をしたためていましたけど、そんな時でもあの人は色恋のことを考えているのか……」
「はははっ。あいつらしいな」
「そこまで言うなら見合いでもすればいいのに。兄上もそう思いませんか?」
「紫苑のこれは本気ではないと思う」
「え?」
「紫苑はいつもふざけているが馬鹿じゃない。見合いをしないのは何か理由があるんだ、きっと。見合いをしない理由を隠すためにこんなことを大げさに言っているだけだと俺は思う」
いい人がいたら紹介してくれ——この言葉の裏にはむしろ今は独身でいたいという意思が含まれている……?
悠蘭は月華の言っている意味がさっぱりわからなかった。
だが久我家は九条家のように嫁いでくる娘に寛容ではないことは雪柊の悲劇を聞いて想像がつく。
(親しいと思っていたが、意外と俺は紫苑さんのことを理解していないんだな……)
同じ修業仲間でもある紫苑との距離感を感じ、少し寂しくなった悠蘭は表情を曇らせた。
そんな彼を心配そうに覗き込んでくる菊夏に苦笑して、悠蘭は彼女の頭を軽く撫でた。
「——それから鬼灯様の文には、次に京に戻ったら話があると書いてあるだけで詳細はなかった」
「え……? それだけですか」
「ああ、それだけだ。何か疑問でもあるのか」
「いえ別に、疑問と言うほどのことは……」
鬼灯は大事な文だから必ず月華に渡せ、と言っていた。
それなのに……誰が目にするかわからないから文には書き残せないということだろうか。
悠蘭が考え込んでいると、月華は弟の肩に手を乗せて言った。
「心配するな。何かあるのは確かなんだろうが緊急ではないということだ」
「どうしてわかるのですか」
「あの人の文にはいつもひと言、ふた言しか書かれていない。何かあったのならあの人は『今すぐ京に戻ってこい』と書く。だから今はまだ大丈夫だ」
月華と鬼灯の間には揺るぎない信頼関係があるのだと悠蘭は改めて感じたのだった。
「あとは雪柊様の文には3日後、みなが集まるのを楽しみにしていると書いてあったぞ。紅蓮寺にみなを集めるとは考えたな」
「俺にとってあの寺はすべての始まりのようなところなんです。兄上と再会し、父上と和解し、修業を始めて、最後には背中を押してもらった」
悠蘭の穏やかな表情を見ているだけで月華はこれまでの重責がすべて水に流れた気がした。
本来なら悠蘭が元服するまではそばを離れるべきではなかった。
母を早くに亡くした悠蘭にとって兄である自分だけが頼れる存在であったはずなのに、月華はその責務を途中で投げ出した。
それは親族から陰口を叩かれ陰鬱になっていく悠蘭を解放するためだったが、投げ出したことには変わりないし、むしろ投げ出すのではなく向き合うべきだったと今は思う。
向き合えなかったのはそれだけ自分も余裕がなく、未熟だったからである。
だが今こうして成長した弟が目の前にいる。
月華はこの上なく喜びを感じた。
「そうか……」
月華は最後の2通のうちの1通、百合からの文を開いた。
中には月華の知り合いという男に道でばったり遭遇し、鼻緒を直してもらったことが書かれていたが、読み進むにつれて月華は眉根を寄せた。
「兄上、いかがされました?」
「百合の文には、白檀という男に道で偶然出会い、男が草履の鼻緒を直してくれたと書いてある……」
「白檀って、あの茶人の白檀ですか!?」
「おそらくそうだろうな。俺のことを知っていると言っていたらしい」
「それで、義姉上はご無事なのですかっ!」
「落ち着け、悠蘭。この文を持ってきたのはお前じゃないか。少なくとも、白檀が接触してきた後に書かれているのだから、危険は何もなかったんだろう」
悠蘭をなだめながらも月華は不気味なものを感じていた。
風雅の君と呼ばれる先帝の落とし種——その人物がなぜ百合に接触してきたのだろう。
しかも月華の妻であることを知って声をかけているようだ。
その目的が全くわからないだけに気味が悪い。
月華は残る名無しの差出人からの文を開くとさらに絶句した。
その様子を怪訝そうに見ていた悠蘭は恐る恐る兄に声をかける。
「それで、名無しはどなたからかわかりましたか」
「……ん、まあ見当はついているがあまり気持ちのいい文ではなかったから後で燃やしておくよ。そんなことより、お前たちは早く行った方がいいんじゃないか。のんびりしていると日が暮れるぞ」
「そうでしたっ」
悠蘭と菊夏は互いに顔を見合うと手を繋いでふたり同時に駆け出した。
その背中に月華は声をかける。
「悠蘭、お前たちの婚礼衣装はすでに紅蓮寺に届けさせた。俺からの祝いの品として受け取ってくれ。俺も後で追いかけるから3日後に会おう、楽しみにしている」
一瞬、振り返った悠蘭は力強く頷くと、すぐに見えなくなった。
月華は足元で打ちひしがれ項垂れる蓮馬を見下ろすと、眉尻を下げた。
「蓮馬、そんなに菊夏殿のことを好きだったのか?」
「……月華様ぁ」
半泣き状態の蓮馬の頭をくしゃくしゃと撫でると蓮馬は月華の足に縋りついてきた。
「だから菊夏殿が京へ行く前に言ったじゃないか、嫁に欲しいならそう言ったらどうだ、と」
「…………どうして悠蘭殿なのですか」
「そんなことは俺も知らない。言っておくが俺があのふたりをくっつけたわけじゃないからな。気がついた時にはあのふたりは恋仲だったんだ」
「気づいた時にはなんて、まるで月華様と百合様のようではないですか」
「……言われてみればそうだ。まあ、俺の弟だから血は争えないということかもしれないな」
この上なく上機嫌に御所の中へ戻っていく月華の背中を、蓮馬は半分恨めしい気持ちで見送ったのだった。
一方、そんな視線で見送られていることに気がついていない月華は、懐にしまった文の束を取り出すと、最後に開封した差出人のない文をもう1度眺めた。
——九条月華様、輪廻の華を隠しておられるようだが、誰かの手に奪われぬよう大事にされよ。ゆめゆめ油断なされませぬよう。
署名はないが、差出人は風雅の君——白檀のような気がする。
内容からすると百合を狙う者がいるかもしれないから気をつけろと警告しているようにも受け取れる。
百合に接触してきたかと思えば、狙われているから気をつけろと警告してくる。
一体何を考えているのか。
雪柊が言っていたように、備中国に潜む亡霊が白檀を利用して輪廻の華を狙い、再び倒幕を目論んでいるということだろうか。
だが、雪柊の話によれば平家の者が風雅の君を利用して倒幕を目論んだとしてもそれには加担しないだろうとのことだった。
輪廻の華が百合であることを知っていて近づいて来たとしたら、白檀は何を考えているのだろう。
また、百合を争いの渦に巻き込もうとしているのか——。
そんなことは絶対にさせない。
月華は固く決意し白檀からと思しき名無しの文を握りつぶした。




