第62話 約束を果たす日
水無月の終わり頃——鎌倉の大倉御所はいつもと変わらず平和な日々が過ぎていた。
間もなく夏を迎える強い日差しによって温められた空気は、日暮れの時刻になりいつの間にか昼間の気温からは想像できないほど涼しくなった。
春先に比べるとだいぶ日も長くなり、茜色に染まる遠くの空を眺めながら早川蓮馬は使いで御所から出ようと西日の差す門へと向かっていた。
ひとり、蚊帳の外に置かれて何があったのか見当もつかなかったが、京から戻ってきてからの菊夏はそれまでの彼女とはまったく別人のようになっていた。
菊夏と同じく京に滞在していた月華に訊ねても苦笑するばかりで、詳細が語られることはない。
蓮馬は変わってしまった菊夏に一体何があったのか気になっていたが、自分の気持ちを打ち明けることもできない彼が、その理由を菊夏に直接訊ねるなどできるはずもなかった。
蓮馬が御所の門へ辿り着くと、刀を持ったふたりの門番が到着した人物を尋問している様子が目に入った。
相手は袴姿ではあるものの丸腰で馬を引いており、日よけの笠を被っていて顔は見えない。
「止まれ。ここは将軍のお住まいである大倉御所である。無関係の者は立ち入りを許可できぬ」
門番にそう言われ、笠を脱いだ人物の顔を見て蓮馬は思わず声を上げ駆け寄った。
その顔には見覚えがある。
「悠蘭殿っ! 悠蘭殿ではありませんか!」
「ああ、蓮馬殿か。久しぶりだな」
悠蘭の手を固く握りながら親しげに声をかける蓮馬を見た門番のひとりが訝しげに言った。
「早川様、この者はお知合いですか?」
「お知り合いも何も、この方は九条月華様の弟君だ。お前たちは直ちに刀を収めて馬をお預かりせよ」
「……く、九条様の!?」
門番たちは驚愕しながら深々と頭を下げて悠蘭を通したのだった。
大倉御所に足を踏み入れた悠蘭は初めて訪れる幕府の中枢をぐるっと見回した。
夕日に照らされた庭には大きな池があり、そこはまるで九条邸のような景色が広がっていて親近感を覚える。
「悠蘭殿、月華様に御用ですか。月華様からは何も伺っていなかったものですから、出迎えもせずに申し訳ありませんでした。あの門番たちには後できつく言い含めておきますので」
「あ、いや——突然訪問したのはこちらなので気にしないでくれないか。いつ出立できるかわからなかったから兄上にも連絡していないんだ」
「そうなのですか?」
「それに今回は兄上に用があって来たわけじゃない。北条菊夏殿がここで薬師として働いていると聞いているのだが、蓮馬殿はご存じか?」
「それはもう、よく知っていますよ。御所の中では大の男たちに交じって働く菊夏殿は有名ですからね」
「そうなのか……」
少し寂しそうな顔を覗かせた悠蘭を不思議に思いつつ、蓮馬は悠蘭の様子を伺った。
よく見れば袴の裾も汚れ、着物も少し着崩れている。
相当急いで馬を走らせてきたに違いない。
蓮馬は自分の使いのことも忘れ、悠蘭を御所の中へ案内した。
並んで回廊を歩きながら蓮馬は悠蘭に訊ねた。
「では菊夏殿に御用なのですか——ああ、そうか。菊夏殿は解毒薬作りのために鬼灯様に呼ばれて京へ行っていましたもんね」
「まあ、偶然にも知り合ったというか……」
「なるほど。ところで悠蘭殿——菊夏殿は京で何かあったのでしょうか」
「…………?」
「いえ、最近の菊夏殿は少し様子がおかしいのです。月華様と京に行くことをあんなに楽しそうにしていたのに、今は——」
蓮馬の話に耳を傾けていた悠蘭だったが、菊夏の話になった途端、急に蓮馬の腕を掴んだかと思うと眉根を寄せて詰め寄った。
「様子がおかしいって具合でも悪いのか!?」
悠蘭の剣幕に気圧されながら蓮馬は答えた。
「そ、それはないと思いますっ」
「それならよかった……」
「様子がおかしいというのは思い悩んでいるようだという意味です。天真爛漫な菊夏殿がまるで別人になったようなのですよ。でも御所には出仕されていますので体調は問題ないのではないでしょうか」
「そうか……それならいいんだ」
菊夏の話題になるところころと表情を変える悠蘭に首を傾げた。
それを見た悠蘭は苦笑しながら彼の疑問に答えるかのように言った。
「逢いに来る約束をしていたんだ」
「菊夏殿に?」
「ああ。予定よりも遅くなってしまったが……彼女のもとへ案内を頼めないか」
「それは構いませんが——」
長い回廊を進みながら夕日に照らされた悠蘭は、かつて京で出会った時には見たこともないほどの優しく穏やかな表情をしていた。
1年も経たない間に彼の身に何が起こったのかわからないが、それまでの憂いを帯びていたような悠蘭とは別人のようだった。
悠蘭の変わりように蓮馬が目を見張っていると、回廊の前方から書物を片手に数人の男たちと話をしながら向かってくる人物が見えた蓮馬は思わず声を発した。
「あっ……菊夏殿……」
蓮馬が指さす前方に悠蘭が目を向けると、そこにはみ月ぶりに見る菊夏の姿があった。
以前よりも少し瘦せたように見える彼女の姿を見つけた悠蘭は、両手を大きく広げて叫んだ。
「菊夏っ!」
隣で両手を広げる悠蘭に一瞬驚いたが、蓮馬がもっと驚いたのは彼の声を耳にした菊夏が大粒の涙を流していたことだった。
手にしていた書物を床に落としたまま、動けずにいるのかと思いきや次の瞬間には駆け出し、菊夏は悠蘭の胸の中に飛び込んでいた。
「——悠蘭様っ」
「菊夏——遅くなって悪かった。やっと準備が整ったから迎えに来た」
「……遅すぎます。もうあれからみ月と10日も過ぎました。私が一体どんな想いでお待ちしていたと……?」
「だが、すべて希望通りになったから許してくれないか」
悠蘭の腕に強く抱かれる菊夏、愛しそうに見下ろす悠蘭。
ふたりだけの世界から弾かれ取り残された蓮馬や、菊夏と一緒にいた薬師仲間と思しき数人は一様に唖然としていた。
暮れなずむ夕日に照らされるふたりは恋仲以外の何者にも見えない。
知り合いだとは聞いたが恋仲だとは聞いていなかった蓮馬は混乱を極めた。
そんなところへ御所の奥から現れたのは、悠蘭の兄——月華だった。
「お、悠蘭。やっと菊夏殿を迎えに来たな」
堂々と回廊を歩いてくる月華に、辺りにいた者たちがみな首を垂れるのを見た悠蘭は、小さく息を吐いて苦笑した。
「兄上——本当に鎌倉でもすごい人なんですね」
「ん? 何のことだ」
「……みな兄上に向かって頭を下げているではないですか」
「ああ、これはいつものことだから気にしなくていい。それより、こちらもすべて首尾よくいった。後はお前たちと紅蓮寺で合流するだけだな」
悠蘭は菊夏を抱きしめる手を緩めると、月華に向かって頭を下げた。
「ありがとうございます、兄上。この度は兄上だけでなく父上や鬼灯様や李桜さんにまでお力添えいただき、やっとこの日を迎えることができました」
「気にすることはない。みなお前たちを祝福してるんだから」
兄弟は互いに達成感に満たされ、固く握手を交わした。
「そう言えば兄上、みなさんから文を預かっています。父上、義姉上、李桜さん、紫苑さん、鬼灯様、雪柊様、それに差出人の名がない文が1通ありました」
文の束を懐から取り出した悠蘭は1通ずつ月華に手渡した。
「まったく……俺が鎌倉へ向かうと言ったらみなさん、急に文を手渡されて——俺は伝書鳩じゃありませんよ」
「この名無しの文は?」
「さあ……それは李桜さんから、文机の上に置かれていたからと一緒に預かったものです」
その場でそれぞれの文に目を通し始めた月華を尻目に、悠蘭は菊夏の髪を優しく撫でながら言った。
「ところで菊夏、実はあまりのんびりしていられないんだ」
「…………?」
「仕事が忙しくて、休暇は7日しか取れなかった。ここへ来るのにすでに2日半を費やしたし、京へ戻るのに君と一緒なら3日はかかる。残り半日を紅蓮寺で過ごすとしても新居でゆっくりできるのは1日しかないんだ。だから北条家へあいさつを済ませたら一刻も早く鎌倉を立ちたい」
「……どういうこと、でしょうか」
「君は陰陽寮の専属薬師として朝廷が雇うことになった。父上が張り切って九条家の敷地の中に俺たちのための書院造りの家を新築してくれたから、仕事に復帰する前にせめて1日くらいはそこでふたりでゆっくり過ごしたい」
「私、京へ行っても薬師として働けるのですか……?」
「ああ、もちろんだ。鬼灯様と兄上や李桜さんが幕府と折衝してくださった。北条家からも快諾いただいたから何も問題ない」
「…………」
「だからすべて希望通りになったと言っただろう?」
菊夏は悠蘭の胸に顔をうずめて嬉し泣きに肩を震わせた。
それまで呆然と3人のやり取りを眺めていた蓮馬は我に返ると、空いたままの口を大きく開き飛沫を飛ばしながら吠えた。
「ち、ちょっと待ってください! さっぱり状況が見えないのですがっ」
「あ、蓮馬殿、まだいらしたのか」
「い、いましたよっ。悠蘭殿、どういうことか説明していただけますか」
「——俺は菊夏を妻にするために迎えに来たんだ。菊夏の才能は俺もよく理解しているつもりだ。妻に娶ったとしても家の奥に置いておくつもりはなかった。だから、あらゆる権力を行使して菊夏を朝廷の薬師として迎えることにしたんだ」
「……!?」
「北条家も、九条家になら嫁に出してもよいと認めてくれたそうだ。九条家が京の中に持つ空き地に新居を建築することも考えたが、それよりも九条邸の敷地の中に新居を用意しようということになった。薬師の菊夏がいてくれれば、もうすぐ臨月を迎える義姉上のお産にも立ち会ってもらえるしな」
蓮馬は悠蘭の話を最後まで聞いていることができず、その場に崩れ落ちた。
嫁に出してもよい——あたりからほとんど耳に入ってこなかったのである。
悠蘭たちは心配そうに気遣ってくれたが衝撃が大きすぎて蓮馬はしばらく立ち上がれそうになかった。
菊夏が京へ行くことになったあの日、月華が言った言葉が何度も頭の中で繰り返されたのだった。
——今ならまだ間に合うから、本当に欲しいなら求婚したらどうだ?




