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風雅の君  作者: 神間 那古井
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第61話 恋煩いと深窓の姫君

 悠蘭ゆうらんが最後に向かったのは近江の紅蓮寺ぐれんじだった。

 108段の石段を見上げると様々なことが思い出される。

 雪柊せっしゅうが背中を押してくれなければ、この日を迎えることもなかっただろうと悠蘭は思う。

 思い返せば紅蓮寺ではたくさんの転機があった。

 皐英こうえいに連れられ訳もわからず辿り着いた寺の麓で、長年行方不明になっていた兄と再会した。

 あの日の悪夢は今も忘れることができない。

 崖を滑落していった兄に伸ばした手は宙を掴むだけだった。

 罪悪感に駆られ、兄の生死を確かめるつもりで再び訪れた時にも、雪柊はできることをすればいいと背中を押してくれた。

 あのひと言がなければ、もしかしたら今も月華つきはなと和解することはなかったかもしれない。

 肩に負傷をして紅蓮寺で療養していた折、父が心のうちを打ち明けてくれた。

 それがあったからこそ、今、菊夏きっかを九条家に迎え入れることができるのだろうと思う。

 悠蘭は蘇る思い出を胸に軽々と石段を上った。

 以前なら、108段を上り切るのがやっとだったが雪柊の厳しい修業のおかげで今では息を切らすこともなくなった。

 月華にはまだまだ及ばないが、かつての自分とは格段に違うのだと自信を持って言える。

 石段を上り切り寺の境内に出ると、いつもどおり雪柊が箒を手に掃除をしていた。

「雪柊様」

 呼びかけに顔を上げた雪柊は満面の笑みで悠蘭を迎えた。

「とうとう菊夏を迎えに行く時がきたんだね」

「はい。ここまで来れたのは背中を押してくださった雪柊様のおかげです」

「そんなことはないよ。私はこんな方法もあると教えただけだ。決心したのは君自身だろう?」

 優しく微笑む雪柊に、悠蘭は涙が流れそうになるのをぐっとこらえた。

「祝言を上げるためにここに戻ってくるのを待っているよ。気をつけて行っておいで、悠蘭」

 頷くと悠蘭は頭を下げて踵を返した。

 雪柊は多くを語らなかったが、すべてはこの短い言葉に込められているのだと悠蘭は感じていた。

足を踏み出そうとして、ふとこれまでのことを思い出し振り返ると悠蘭は言った。

「雪柊様は兄上宛の文をお持ちではないですか?」

「……ん?」

「これまでいろいろな方に会ってきたのですが、みなさん俺に兄上宛の文を預けられたものですから……俺は菊夏を迎えに行くのであって兄上に会いに行くわけではないんですけどね」

 悠蘭は苦笑しながら懐から文の束を取り出すと、雪柊に見せた。

 噴き出して大声で笑い飛ばした後、雪柊は書院から持ち出してきた文を悠蘭に手渡した。

「せっかくだからこれを頼むよ」

 雪柊からついでの文を受け取ると、悠蘭は急いで石段を駆け下りた。

 麓に繋いでいた馬に跨ると、彼は勢いよく馬の腹を蹴る。

 目指すは鎌倉——はやる気持ちを抑えられなかった悠蘭は、急ぎ東へ向かった。



 ちょうど同じ頃、鎌倉の大倉御所でも不景気なため息を連発する菊夏が周囲の空気を淀ませていた。

 薬草に関する帳簿を付けようと文机に向かい筆を構えたところまではよかったが、紙の上で筆を止めたまま動かなかったため、いくつもの滴り落ちた墨が不気味な斑点のようになっている。

 だが、本人は気にする様子もなく遠くを呆然と見つめているのだった。

 菊夏が文机に向かっているのは薬師が集まる一室だった。

 壁一面には天井まで届くような木製の棚があり、びっしりと並べられた小さな引き出しには様々な生薬が収められている。

 戦場に赴く武士たちを治療するための薬草や、病を治したり症状を軽くするための食材まで豊富にそろえられていた。

 早川蓮馬はやかわれんまは体調不良を訴える兵に与えるための薬の処方依頼を片手に薬師が集まる部屋を訪れた。

 近くにいた顔なじみの薬師へ声をかける。

「すまぬがこれを大至急処方してもらえないか」

 声をかけられた薬師の男は受け取った依頼書にひととおり目を通した。

 中には様々な症状がこと細かに書かれており、種類も多岐にわたっていた。

 眉根を寄せた薬師は言った。

「これ、全部ですか」

「ああ、そうだ。火急的速やかにとの仰せだ」

「こんなにいろいろな症状に対処するにはすぐというのは無理ですよ」

「そこを曲げて頼む。季節のせいか体調不良を訴える兵が多くて、訓練もろくにできないのだ。これでは有事の時に役に立たぬ」

「一体どなたからの依頼ですか。まさか、早川様ではありませんよね」

「月華様だ」

「……はぁ。そうですか、九条様ですか……わかりました、何とかしましょう。ただ、期待しないでくださいよ。何といっても菊夏殿があんな状態ですからね。ここのところ、まったく使いものにならないんです、彼女」

 と、薬師は目配せして声を潜めた。

 その視線の先には文机で固まった状態の菊夏がいる。

 蓮馬は訝しげに言った。

「菊夏殿、一体どうしたのだ」

「さあ……私どもにはわかりかねます。九条様とみやこから戻られてからずっとあの状態なのですよ」

「み月もの間、あの状態なのか?」

「ええ。あれでもまだいい方ですよ」

 そう言うと薬師の男は一礼して仕事に戻っていった。

 菊夏が仕事をほとんどしていないことが影響しているのか、どの薬師も忙しそうにしている。

 蓮馬は呆然とする菊夏に近づくと、まっすぐ前を見たままの彼女の前で手を振ってみた。

 だがやはり反応はない。

 目の焦点も合っていない。

 あの天真爛漫だった菊夏がまるで深窓に姫君になってしまったようである。

 密かに想いを寄せている菊夏に声をかけるのは、蓮馬にとってそれは勇気のいるものだったが意を決して声を張り上げた。

 何度か名前を呼んだところで菊夏は我に返った。

「菊夏殿!」

「……蓮馬様。こんなところでどうされたのですか。いつからそこに?」

先刻さっきからおりましたっ」

「あら、それは気がつかずに失礼しました」

「……菊夏殿、何かあったのですか。悩みごとがおありなら相談に——」

 乗りましょうか、と言いたかったがまじまじと彼女に見つめられて想いの丈を伝えられなくなってしまった蓮馬は思っていることとは違う言葉を発してしまった。

「——乗っていただけると思いますので、早めに月華様へお話されてはどうですか」

「……お気遣いいただきありがとうございます。何でもありませんので、どうぞお構いなく」

「何でもないようには見えませんが」

「え……?」

 蓮馬は菊夏の手元を指さした。

 そこには斑点だらけになった紙がある。

 蓮馬に言われて視線を落とした菊夏はしばらく無言でその紙を見つめていたが、やがて悲鳴のような声を上げ、なぜこのような状況になっているのかと自問自答し出した。

 収拾がつかなくなったと感じた蓮馬は薬師たちの部屋を後にし、月華のもとへ向かった。

 月華が文机で文をしたためていると聞きなれた足音が聞こえてきた。

 使いを終えてきた相手に対し、顔を上げることなく声をかける。

「蓮馬、薬の処方は頼めたのか」

「……ええ、まあ」

 気のない返事に月華は顔を上げた。

「何だ、ずいぶんと気の抜けた返事だな。何か問題でもあるのか」

「問題と言いますか……馴染の薬師に声をかけたのですが内容を見るなり訝られまして」

「量が多いと言ってきたのか」

「量が多いというよりは薬師の手が足りていない、といった方が的を射ているかもしれません」

 月華が首を傾げると蓮馬は菊夏の状態について詳細に語った。

 ぴたりと筆を止めた月華は話が進むにつれ、ばつが悪そうに蓮馬から視線を逸らしたのだった。

「それにしても菊夏殿は一体どうしたのでしょうか」

「……さあな。直接訊いてみたらいいんじゃないか」

「それができれば苦労はありませんよっ」

「質問するのに苦労が必要なのか?」

「だ、だって変なことを訊いて嫌われたくはありませんし……そ、それにいつも一緒に仕事をしている薬師たちでさえ理由がわからないと言っているのに、たまに顔を合わす程度の俺が訊ねたところで教えていただけるとは思えませんっ」

「じゃあ諦めるんだな」

「そんなぁ……」

「理由が知りたいなら本人に訊くしかないだろう? 俺は別に気になっていないから俺を使って確かめようとしても無駄だからな」

「……月華様って意外と冷たいんですね」

 月華は蓮馬のぼやきを聞き流した。

 蓮馬は菊夏に気があって心配しているのだろう。

 菊夏が京に行く前にもそんなやり取りをした記憶がある。

 だが、菊夏が蓮馬のもとに嫁ぐことはない。

 菊夏は愛する男が本当に迎えに来てくれるのかを案じているのだ、と教えてやりたい衝動に駆られながらも、月華は不満そうにする蓮馬に真実を告げることはなかった。

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