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風雅の君  作者: 神間 那古井
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第6話 兄のような家臣

 まだ日も暮れていない春の午後。

 中務省なかつかさしょうを出た李桜りおうは足早に自分の邸へ戻った。

 御所からそれほど離れていない位置にある西園寺さいおんじ邸は摂家に継ぐ清華家(せいがけ)として立派な寝殿造りをしている。

 長く続く邸の塀に沿って歩いているうちに、李桜は強い不安に襲われていた。

(色白の男って誰……?)

 考えても思い当たる人物はいなかった。

 もともと近衛このえ家の奥深くで暮らしてきた椿つばきにとって、邸の外での知り合いは少ない。

 西園寺家の家臣、九条くじょう家当主、九条家家臣の松島、北条鬼灯ほうじょうきとう今出川楓いまでがわかえで久我紫苑くがしおん雪柊せっしゅう——色白の男という特徴はその誰とも合致しない。

 では一体誰と一緒にいたというのか。

 考えれば考えるほど、不安が募るばかりだった。

 それは単に毒殺の危険があるというだけではない。

 誰もが認める絶世の美女と謳われた椿が他の男に奪われるのではないか、それが最も不安を煽る要素であった。

 そもそも椿は自分のことをどう思っているのか。

 婚姻を申し込んだものの、返事はまだもらえていない。

 思い返せば、これまで一緒に過ごした半年はまるで恋仲のような生活だったが、椿は一向に返事をくれる気配がなかった。

 これまでは近衛家の一件があり、彼女なりの遠慮があって返事を躊躇っているのだと思っていた。

 それならそれで、彼女の気が済むまで待つつもりだった。

 だが、知らない男の影が見えるとなれば話は別だ。

 李桜は考えれば考えるほど、その見知らぬ相手に対し嫉妬心が芽生え、自分を制御することができなくなりそうだった。

 こんな精神状態で椿と対面し、果たして正気でいられるのだろうか。

 だが、とにかく一刻も早くその男が何者で、椿との関係は何なのかを突き止めたい、そんな衝動に支配されている。

 李桜は椿を初めて邸に連れてきた日のことを思い返した——。

 北条鬼灯が近衛家に乗り込んだ時、李桜は中の様子を伺いながら通りでうろうろとしていた。

 それは最後に椿の顔をひと目、見たかったからだった。

 最初は面倒なことに巻き込まれたように思っていたが、椿の人柄に触れるにつれ、気がついた時には彼女に惹かれていた。

 しかしどんなに椿の減刑を望んだとしても、征伐の全権を握っている鬼灯の手にすべてが委ねられていることはわかっていた。

 倒幕を目論んだとされる近衛家当主が極刑に処されるのは間違いない。

 関わったと思しき関係者は刑部省ぎょうぶしょうへ送られ、その罪の重さに乗じて刑を決められるだろう。

 近衛家の三の姫である椿は、本来であれば奥に閉じこもっていた姫として知らぬ存ぜぬと押し通すことができたのかもしれない。

 だが今回、椿は発端となった時点から深く関わり過ぎている。

 その上、六波羅ろくはら御所にまで乗り込んでいき、あまつさえ文の差出人は自分だと自ら名乗り出てしまっているのだ。

 鬼灯が彼女の処遇をどうするのか、李桜は気が気ではなかった。

 倒幕を差し止めようとしたことが認められれば、流刑で済むかもしれない。

 いずれにしても、もうこの機を逃しては椿の顔を見ることはできないだろうと李桜は考えていた。

 近衛家に乗り込んだ鬼灯が嫌がる椿の手を引いて門から出てきた時、騒がしい近衛邸内の様子に気がついた野次馬が集まりつつあり、辺りは騒然としていた。

 鬼灯は自ら椿に対し、百合を助けようと尽力したことへの借りを返すと言って彼女を邸の外へ連れ出したのだった。

 門の外で鬼灯から椿を受け取り、近衛柿人このえかきひとが連行される様子に泣き崩れた椿を連れて手配した牛車に乗ったのはその後まもなくのことだった。

 牛車に揺られ西園寺邸の前に着くと、李桜は先に降りて椿に手を差し伸べた。

「椿殿、着いたよ」

 黙って李桜の手を取った椿は恐る恐る牛車から降りると、目の前に現れた邸を目にして呟いた。

「ここは……」

「僕の邸だよ。西園寺邸へようこそ」

「え……でも、こんな突然伺ってお邪魔でしょ。ご両親とかご兄弟とか……ご挨拶もなしに」

「両親はいない。ちなみに兄弟もいないんだ。ここの主は僕だから、何も気兼ねなく入ってよ」

「…………」

 椿は言葉を失っていたが強引に招かれた李桜の手によって西園寺家の敷居を跨ぐことになった。

 入口で深く首を垂れる西園寺家の家臣——三木みきはいつも通り李桜を出迎えた。

 李桜よりも少し年上の三木は彼が子どもの頃から西園寺家で家臣として仕え、李桜にとっては親のようであり、兄のようでもある存在だった。

「李桜様、お帰りなさいませ」

「三木、今日からここにいる近衛椿殿がこの邸で暮らすことになったから、どこかにひと部屋、彼女のための部屋を用意して」

 目の前には主人に手を引かれ豪奢が着物を纏った初めて見る姫が怯えた様子で立っていたが、顔を上げた三木は顔色ひとつ変えることなく答えた。

「お部屋、とは北対きたのたいでよろしいのですか」

「そうじゃない」

「では李桜様の寝殿にしましょうか」

「……余計な詮索はしなくていい。とにかく西でも東でもいいから彼女のためにひと部屋を」

「かしこまりました」

「言っておくけど、彼女は西園寺で保護することになった。この邸内は自由に出歩くから、そのつもりで」

「すべて椿様のご自由に、ということですね」

 三木の問いに李桜は強く頷いた。

「そうだよ。何か問題ある?」

「いいえ、ございません。邸の者には周知徹底いたします。すべては李桜様の仰せのままに」

 椿について何も問いただしてこない三木の様子にうんざりしながら、李桜は女中に椿を預けた。

 女中に案内され邸の中へ入っていく椿は不安そうに何度も李桜を振り返ったが、李桜は頷くだけで特に声をかけることはなかった。

 彼には他に対処すべきことがあったからだった。

 そう、この突然のことにまったく動揺していない家臣への説明が必要であった。

「ところで——」

 李桜は邸の奥に椿の姿が完全に消えたのを確認して後ろに控える家臣に言った。

「何で何も訊かないの」

 三木は深いため息のあと、苦笑しながら答えた。

「訊いてほしいのですか」

「ここには僕とあんたしかいないんだからいつも通りでいいよ、三木」

「では——訊いたら答えるつもりがあるのか、李桜」

 急に砕けた様子になった三木は、まるで弟に接するかのように李桜の隣に並んだ。

 そこには西園寺家で働く誰も知らない家臣の姿があった。

 幼い頃からともに過ごしたふたりは兄弟のような関係で育ち、早くに両親を亡くした李桜が元服してこの邸の主人となれたのは兄のように支えてくれる三木の存在があってのことだった。

 李桜はこれまで壁にぶつかった時にはよく三木に相談してきた。

 本来なら椿を連れてくることになる旨、あらかじめ家臣である三木に話しておくべきことだったが、今回ばかりはそんな猶予がなかったのである。

「何も相談せずに連れて来て悪かったと思ってるよ」

「別に悪いことはないが……あまたの縁談を断って来たお前が女子を連れてきたのはちょっと驚いた」

「驚いた? 平然としていたじゃないか」

「そう見せているだけだ。心のうちがすべて顔に表れてしまうようでは主人を支える家臣など務まるわけがない」

「……出かけた時には連れてくることになるとは思ってなかったんだよ。でも近衛家の外で様子を伺っていたら鬼灯様が預けるって彼女を僕のところに連れてきたんだ」

「珍しいこともあるものだ」

「は?」

「たとえ北条殿に頼まれようと、お前が気に入ってもいない女子を自分の邸に連れてくるなどありえない。よほど彼女のことが気に入っているのだな」

「……あんたの言うとおりだね。確かに僕らしくない。でも椿殿のことは見捨てることができないよ。だって——」

「惚れたな?」

 三木はからかうように李桜の顔を覗き込む。

 少し赤らめた顔で視線を逸らした李桜の頭を優しく撫でた。

「別に恥ずかしがることじゃないだろう。お前が人を好きになれる男に育って俺は嬉しいよ」

「でも、まだ妻にはできない」

「なぜだ」

「彼女自身が望んでいない」

西園寺邸ここへ一緒に来たのにか?」

「ここへ来たのは、近衛邸にいられなくなったからさ。彼女は他に行くところがないんだ。婚姻を申し込んだけど、家があんなことになってまだ何も考えられないみたいだった。だから僕はいつまでも待つって言ったんだ。後ろめたそうにしながら僕の言葉に従って今日のところはついて来た、ただそれだけだよ」

 そこまで説明すると李桜は椿を追いかけるように邸の中へ向かって歩き出した。

「へぇ。でも気のない男の邸について行く女はいないだろうさ」

 大きく成長した主人を頼もしく見守りながら呟いた三木の言葉は李桜の耳には届いていないようだった。

「そうだ、三木。馴染の呉服屋を呼んでおいてよ」

 李桜は急に振り返って三木に声をかけた。

「呉服屋? 何でまた」

「彼女の着物を注文するんだよ。あんな豪奢な着物じゃ生活しにくいじゃないか」

「ああ、なるほど」

 三木は椿の容姿を思い出して納得した。

「明日にでも呼び寄せよう。急いで仕立てさせないといけないな」

 満足そうに頷き、邸に入っていった李桜の背中を見送りながら三木は改めてこれからのことを想像した。

 奥方でもない女性が邸の中を自由に出歩くとなると、女中たちの噂の的になるのは間違いないだろう。

 それにあれだけの美女である。

 警護や門番、庭師など家臣の男たちも黙ってはいないだろう。

 大事な主人とその相手が結ばれるまで心地よく邸で暮らすために、三木は家臣として兄として務めを果たそうと心に誓った。

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